夜のお薬

 ここのところ、ヒューベルトの顔色が芳しくない。そもそも闇夜の乏しい光源に浮かぶ石膏像のような顔色で眼窩も深く、健康的には見えないが、そうであっても明らかに心労が全身を覆っている。

 宮内卿ヒューベルトの妻となったベルナデッタは、役人の奥様方の集まりに顔を出さざるを得ないときがあった。それも、宮内卿の妻としての大切な仕事である。
 今日がまさにその日。紅茶の質と、提供されるお菓子には不満はないけれど、つまらないゴシップを散々聞かされる。慣れない愛想笑いと相槌にくたくたになるので、この時間はひたすら忍耐の時間であった。

 ところが今日に至っては、聞き役ではないらしい。何故か話題の中心になっており、ほとほと困っていた。彼女たちのネタにされるようなことはないと思いながら、宮内卿の妻として望ましい態度がもとめられる。
 話題がない。そこで、先輩方に夫に元気がないと言った。すると、いたく心配され、同情を買うことになった。前のめりに親身で、正直な腰がひけたが、親切心には違いないし、彼女たちとこんなに話をすることがなかったので、悪い気はしなち。
 ベルナデッタはいつもと違う心地で、帰路についた。

「それで、これですね」

 邸宅に戻ってきたベルナデッタは手元の小瓶を見つめて、うーん、と唸った。
 男性が元気になると謳われたラベルが貼られたこれを、何とかヒューベルトに飲ませなければならない。怪しげなものは警戒する彼のことだから、何と言って飲ませようかと真剣に悩んでしまう。
 料理に混ぜてしまってはどうか。しかし、熱を入れると効果が薄れそうだ。料理やテフに混ぜる案は下げざるを得なかった。
 結局、あなたのことを思って買いましたと素直に告げてみることにした。彼が帰ってきたら忘れずに差し出そうと、寝室の鏡台に置いた。

 夜も更け、夕食後も執務室に籠りっぱなしのヒューベルトが夫婦の寝室に現れたのは、次の日に足を踏み入れたような深夜であった。
 寝衣に着替えて長椅子で刺繍仕事に励みながらヒューベルトを待っていたベルナデッタだったが、太腿の上に道具を置いたまま、首をこくり、と動かして浅い眠りに入っていた。

「ベルナデッタ、冷えますよ」

 低く緩やかな声をかけられ、ふにぁ、と小さく欠伸をしてぼんやりと意識を取り戻すと、そうだあれを飲んでもらわなければと思い出す。慌てて立ち上がってふらふらと鏡台へ。目立つところに置いてあった件の小瓶を手に取り、咳払いをして最もらしい表情でヒューベルトに向き直った。

「ヒューベルトさんがお元気がないので、ベルからの特別な差し入れですよ」
「ほう。なるほど。ありがたいことです。おやおや、それは……」

 小瓶を見るや否や、ヒューベルトはにやにやとした。
 何かがおかしくて笑っているに違いない。ベルナデッタは不安になった。彼がああいう顔をしているときは、悪企みをしていているか、面白がっているときだ。
 ベルナデッタの胸中に嫌な予感が漂い始める。

「えええっとぉ、何かおかしいですか?」

 小瓶を手に取ったままおずおずと確認すると、ヒューベルトは更に笑みを深くするばかり。喉をころころと鳴らして笑うばかりで、ベルナデッタの問いに答えようとしない。

「言っときますけど、毒じゃないですからね!この通り、男性が元気になると書いてるんですから。効果はわかりませんが、あたし、ヒューベルトさんがお疲れだと思って手に入れたんです。ですから、笑ってないで、試してみてくださーーいい?!」

 言っている間に、ヒューベルトがにやけた表情そのままに歩み寄ってくる。焦りを覚えながら、数歩後退る。額には汗が滲んでいる。追い詰められた小ネズミのように縮こまったところに、彼の手が伸びてきて、小瓶が奪われた。

「そんなに激しい夜を望んでいたとは、気がつかずに失礼いたしました。申し訳ありません。ベルナデッタ?」
「ほぇ? な、何のことですか?」

 ヒューベルトが指し示した。それから勿体ぶるようにゆっくりと文字の下を指がたどっていく。

「ひ、ひゃあああ!やだあ!」

 深夜にはにつかわしくない、邸を揺るがすような大声だった。
 ラベルには確かに男性が元気になると書いてある。その指先に更に小さな文字で、夜のお伴に、との記載があった。
 見過ごしていた。大切なその文字を。
 肩紐がずり落ちそうだ。頬をひくつかせたまま下がろうとするも、鏡台とお尻がぶつかり、それ以上は退けない。

「え、ええっとお。これには深い、ふかーーい、理由がですね」

 どうりでゴシップ好きな奥様方が話に乗ってきたわけである。結婚が浅い若妻が夜の生活に不満を抱いていると完全に勘違いされてしまったようだ。確かに男性は元気になるけれどもそっちではない。
 目には涙が浮かび始めた。夜の生活が不満だとはちっとも思っていない。むしろ、充足している。
 ああ、穴があったら入りたい。
 ベルナデッタは心中で悲痛な叫びをあげた。

「ありだく、貴女の望み通りいただきますよ」
「まって、まってぇ!!」

 硝子の細長い栓をを抜く音に、慌てて手を伸ばしたが、当然届かない。ベルナデッタの掌に収まるほどの小さな小瓶に入ったその液体は、あっという間にヒューベルトの中に入っていった。

「も、もうっ、知りませんからねえ」

 ベルナデッタは頭を抱えた。自ら手渡そうとしていて、効能通りの効き目など期待はしていない。
 ただ夜の生活の効能となれば、ちょっとした好奇心もある。

「ど、ど、どうでしょう、ひゃっ」

 空の小瓶を持ったままのヒューベルトを伺うように前屈みになりながら見上げると、突然、両肩を掴まれて引き寄せられた。薬が効いたのかと、品なく彼の股間へと視線を向けるも、何も変化は訪れていないようだ。

「今、何を確認されましたかな」
 ヒューベルトに咎められ、変な声が出た。
「えっ、えっとお。その、そ、そんなことじゃなくて、離してくださいよお」
「おや、夜が不満なのではないのですか?」
「だ、だから、それは誤解なんです。あたしはこれを飲んで疲れを癒してほしくてですねえ」

 肩は依然としてしっかりと捕まれたままだ。ヒューベルトからまっすぐに視線を向けられ、全てを検められているような心地だ。
 頬を汗が辿る。ヒューベルトを問答の相手にして勝てるはずがない。

「ご遠慮なく。今宵はこれからあなたを存分に楽しませて差し上げますよ。確かに、最近はご無沙汰でしたからな。恥ずかしいことではないのですよ」

 顎先を掴まれて上向きにさせられると、ぎらついた瞳に射抜かれる。完全に遊ばれているとは分かっているけれども、うまく切り抜けることができない。

「ひゅ、ひゅ、ヒューベルトさんっ、ほら、そのお薬は効き目なんてないんじゃないですか?!」
「たしかに、怪しげな薬です。効能は疑わしいですな」
「ほらぁ。やっぱり効果ないんですよ」

 ぱっと顎を離された。ひとまず危機的状況は脱したようだ。短く安堵の息を吐いてから、胸を撫で下ろしす。
 ヒューベルトの口許は笑いを堪えている。まだ、何かある。ベルナデッタは身構えた。

「なるほど。どうしてそれが貴女に分かるのですか?」
「ええっとぉ、その、旦那様のあれがまだですねぇ…… そのう、まだなんですよぉ。だから、えっと」
「あれ、とは何ですか? 申し訳ありませんが、皆目検討がつきません。」

 今度は言葉で弄ばれている。
 言えないことが分かっていて、敢えて、尋ねられている。口ではとても言えない、言えば死んでしまう。
 仕方なくベルナデッタは震える指先で、ヒューベルトの股間を指した。彼は弾けたようにハハハ、と珍しく声を張りあげて笑った。

「な、なんですかあ。ベルの決死の行動をばかにするつもりですか?!」

 恥ずかしさでいっぱいになった。握りこぶしを腕をぶんぶん振って必死に抗議すると、ため息とともに頭の上に彼の掌がおりてきて、何度かゆるゆると撫でられた。

「失敬。やり過ぎました。しかし、楽しませていただきました」
「もうっ、ベルで遊ばないでください! これでも、愛する旦那様を心配して、一生懸命考えたんですよ」

 ふんだ、と鼻息を荒くして、頬をぷっくり膨らませていじけてみせると、前髪をかきあげられて、ヒューベルトの唇がそっと降りてくる。これで勘弁してくれということなのか、言葉の代わりに、口づけが多い人と知ったのは、彼と結ばれてからのこと。

「楽しませていただいたので、良い気分転換になりました」
「ふふん、そ、そうですか。それなら良かったです。」

 どんなに弄られて遊ばれても、やっぱり、ヒューベルトが好き。ぎゅっとその胸に飛び込んで、旦那様、と呟いて頬ずりをすると、受け入れるように背に腕を回された。

「さて、それでは更に楽しませていただきましょうか。この薬の効果のほどを確かめなければいけません」

 あっという間に抱えられ、慌てて抵抗してじたばたしても、ヒューベルトはどこ吹く風だ。これから?という表情をヒューベルトに向けると、満面の笑みで返された。

「効果がないのにこのようなものが市場に出回っているようであれば、取り締まる必要があります。つまり、これは職務です」

 彼はもっともらしい表情でそう言うと、ベルナデッタを寝台に横たわらせた。あくまでも表向きの理由に違いないと思いながらも、断る理由はない。
 この様子では、朝までコースだ。そう思うと、ぞくぞくとした。

「わ、分かりました。しょ、職務ということでぇ」
「ええ、左様です。では…… 承諾いただいたということで」

 愛されることに抵抗はないけれども、明日のことを考えるとほどほどにしてもらいたい。
 ベルナデッタは覚悟して、ヒューベルトを抱き締めた。