すみれのおはなし - 1/5

 ヒューベルトが学生の真似事から解放される時間は限られている。
 午前中の講義が終わり、午後の実技までは自由行動の時間はその一つだ。普通の学生であれば昼食の時間と休息に充てるところだが、ヒューベルトにとっては本来の職務を遂行する、もしくは、そのための準備のための貴重な時間だった。
 食堂へ向かう学生とは逆方向へ。講師の雑談で長引いた授業のせいで、貴重な時間の一部が失われている。この時間で何をすべきか脳内で組み立てながら、ヒューベルトは自室へと早足に歩く。
「あの、す、す、すいません」
 ヒューベルトは、エーデルガルト以外の生徒と必要最低限の会話しかしない。黒鷲学級の生徒ですら、ヒューベルトのその出自から、彼をあからさまに避けている。そのため、まさか声をかけられるとは思わなかった。今にも掻き消えそうな細く頼りない声が、何度も何度も執拗に耳に障ったため、ヒューベルトは振り返った
「ま、待って下さいいい」
 走って追いかけてきたのか、引きこもりのせいで体力がないのか、珍しい人物がこれでもかと息を切らしながら駆け寄ってくるのが見える。ようやく駆け寄ってきたその人物は、小柄な身体を折り曲げて膝小僧に両手乗せ、何度も荒い吐息を繰り返した。あまりの疲弊ぶりに、もう少し早く気がついてやるべきだったなどと思いながら、ヒューベルトは彼女の頭頂部を見下ろして、ただ黙して待った。
 ようやく呼吸が整ったのか、疲労が浮かぶ顔を上げたその人物は、自分が声をかけた人間が誰であるかを思いだしたようだった。ヒューベルトと、目が合うと、「あ」と、零してから、その灰色の両目がぽっかりと開いた。その瞬間に、かけるつもりだった言葉が彼女の脳内から失われたようで、すっかり黙り込んでしまった。
「何用ですか、ベルナデッタ殿」
 ヒューベルトは、この娘が必要以上に己を恐れていることを知っている。彼女から話すことが難しいようであればと、抑揚のない声で、話を切り出した。
「あの、えっとですねぇ……」
 ベルナデッタは言い淀み、話が先に進まない。組み合わせた両の親指を、もじもじと擦り合わせながら、ヒューベルトへとちらちらと視線を向けている。
 ヒューベルトは、とにかく時間が惜しかった。
 睡眠時間を削れば、時間の捻出は可能ではあるが、体調を維持することは難しくなる。従者たるもの、体調管理も重要な職務の一つと胸に刻んでいるヒューベルトにとって、許された時間で最善・最良を尽くすために、どの時間も親愛なる主君たるエーデルガルト以外の誰にもくれてやりたくない。
 俯きながらおろおろするベルナデッタの菫色の髪は、くせ毛なのか手入れ不足なのか、作品の出来栄えに悩んだ芸術家が頭を掻き乱したかのようにひどく乱れ、目も当てられない。身なりを整えることを知らないのかと、せわしなく動く頭を見下ろして、ヒューベルトは唸りながら腕を組んだ。
「ひゅ、ひゅ、ヒューベルト、さん。あのっ、せ、先生がさ、探してますのでぇ」
 意図せずした行為は彼女を脅し、その結果、本来の目的を思い出させたようだった。怯え切ったベルナデッタが、ようやく用件を話した。
「承知いたしました。余談ですが、名を呼びにくいのであれば、呼ばずともよいのですよ」
 名を呼ぼうとするたびどもるベルナデッタに、付き合っていられない。ヒューベルトはため息をついた。短気でせっかちな人間なら付き合いきれずに苛ついているだろうと思いながら、ヒューベルトの脳裏に、不謹慎にも主君の顔が過る。
 ただ刻々と、時は過ぎていく。
 一日二十四時間という時間は、誰が決めたのだろう。規則正しくやってくる昼と夜は、間違いなく二十四時間にぴたりとはまり、見直しを提案したところで、全く通りそうにないし、ヒューベルトは、そもそも提案する先を知らない。
「あの…… でもお」 
 呼ばなくても良いと言われたベルナデッタは、それでもまだ言いたいことがあるような素振りを見せている。
 どうしたものかと待っていると、ベルナデッタは、ふいに顔を上げ、眉根をこれでもかと寄せて、ヒューベルトを見据えた。引き籠もることに対してのみ自己主張するような娘であることを、一時的にでも忘れてしまいそうになる眼差しが、ヒューベルトに向けられている。
 ヒューベルトは腕を組みなおして、首を傾げて「はて」と、零した。
「あっ、あの、こんなこと言うのは生意気かもしれないですけれど、ベル、ヒューベルトさんのお名前好きです」
 一息で言い切ってから、ベルナデッタは頬を真っ赤にして身体を二、三度左右に捩らせた。
 ヒューベルトは呆気にとられた。たったそれだけのことかと、愕然とした。いよいよ付き合い切れず、ヒューベルトは「左様ですか」と、短い返事をした。
 今すぐにでもこの会話を終わらせたくなっただけで、嬉しいという気持ちは微塵も沸いてこない。そして、そのようなことを言い出したベルナデッタの頭の中身を、ヒューベルトは全く理解できなかった。
「あの、いや、えっと…… ご、ごめんなさい」
 機嫌を損ねたと勘違いされたのだろう。俯きながらぼそぼそと小さな声で謝罪するベルナデッタに、ヒューベルトは首をゆっくりと左右に振った。
「忌々しい名ですよ。他者との区別のためにあるようなもので、むしろ、番号でもよいぐらいですが、くくく。何ら特別なものではございません」
 ベルナデッタに告げながら、ヒューベルトの脳裏に父だった人間が浮かぶ。誰が名付けたのかは知らないが、少なくとも父か、顔も知らぬ母か、もしくは、ベストラの家に連なる者に違いないと、ヒューベルトは推測する。
 ヒューベルトはその名に込められた意味など考えたことなどない。今となっては、殺してやりたいほどの裏切り者である父が込めた意味など知りたくもなかった。
 彼女の名だって、ベルナデッタを教育という名のもとに痛めつけた両親がつけたものではないか。それを愛せるというのか。それに、恐怖の対象である男の名前など、こだわってどうしたいのか。ヒューベルトは理解に苦しんだ。
 これらのことが脳内で短時間のうちに議論された後、推測してみたところで無意味で無価値だと、ヒューベルトは結論づけた。
「う、うまく言えないんですけれども、ヒューベルトっていうお名前の響き、ベルは好きなんです。だから、その—— 呼びたいんです、お名前。いけませんか?」
「ご自由に。可能であれば、もう少し手短にしていただけると助かります」
 忙しいので、という言葉は他者に向けたくない。余裕がないということをひけらかすこと自体が、己の能力のなさを示して歩くようなものだからだ。
 ベルナデッタが果たすべき用は済み、ヒューベルトは彼女に用などない。ベルナデッタに礼をして、早々に立ち去ろうとした。
「頑張ります。ベル、ちゃんとすぐにお名前呼べるようにします。あと手短に話せるようにします」
 投げかけられた声に、ヒューベルトは足を止める。無視を決め込んでも良かったはずだ。半身になってベルナデッタを見やると、拳を強く握り締めて、必死の形相を浮かべている。
 このようなことに拘るよりも、生きていくうえで大切なことが他にあるはずだ。ヒューベルトは、ベルナデッタの在り方に、首をひねりたくなった。
溢れそうな失笑をこらえ、努力を向ける先がずれていると思いながら、「それはどうも」とだけ返して、彼女に背を向けた。
 
 その一件から、ベルナデッタは、ヒューベルトに付きまといはじめた。
 餌をねだりに来ている野良猫のように、ヒューベルトの周囲をこそこそとうろついては、ヒューベルトが視線を向けたり、声をかけたりすると、すばしっこく逃げ出した。彼女を揶揄って、その反応を愉しむことがささやかな気晴らしになったので、当初は付き合ってやるつもりなどなかったが、ヒューベルトは彼女の自由にさせてやることにした。
 ヒューベルトの視界の中のどこかにベルナデッタの菫色があった。はじめのほうこそ、ヒューベルトの方から声をかければ、この世の終わりを予言した占い師のように大騒ぎしていたが、次第にそういったこともなくなり、遠くに咲いていた見逃しそうなぐらい小さな花は、次第にヒューベルトの視界の中で大きくなりはじめた。