エーデルガルトが知るヒューベルトは、目の前で羽ペンを走らせているヒューベルトと同一人物であるのだろうか。果たして、外見は変わらずとも、彼を構成する内実は変容したのではないかと、エーデルガルトの興味を引いた。
例えば、あの羽ペン。基部に蔓を思わせる細やかな彫りが施されている。エーデルガルトが知るヒューベルトは、工芸品の類に全く興味を示さなかったはずだ。彼のこだわりといえばインクであり、滲み具合や乾く時間、色持ちを考慮して、必ず決まったものを使う。エーデルガルトが知るヒューベルトは、実用性と有用性を重んじる人物だった。
そうであれば、あの羽ペンはヒューベルトが購入したものではなく、彼の妻から贈られたものに違いない。エーデルガルトは仕事を疎かにして、ヒューベルトの様子を細やかに観察しようとした。しばらくして、その視線に気がついたのか、ヒューベルトが手を止めた。油断したと思えば既に遅い。ヒューベルトは察しが良い。エーデルガルトが仕事を疎かにすれば、すぐさま小言が飛んでくる。彼は何用かという表情で、エーデルガルトに視線を向けた。
「陛下、ご用命でしょうか?」
「なっ、なんでもないわ」
鉄仮面のように無表情な顔をエーデルガルトに向けるヒューベルトは、やはり、エーデルガルトの知る彼そのものだ。淡々と尋ねるその様子もまた、彼そのものだ。
「承知いたしました。何やら先ほどから熱心に私をご覧になっていらっしゃったようですから」
ふ、とヒューベルトの口元が緩む。
臣下の鏡といってもいいヒューベルトは、その主君たるエーデルガルトが望まないことを表立ってはしない。影で彼が何をしているのかについては、聞くに堪えないようなことを耳に挟むことがあるが、こういったことについては、彼はエーデルガルトの意に反することは一切しなかった。幸いなことに、彼はこれ以上尋ねて欲しくないということを、汲んでくれたようだった。
しばらくして、エーデルガルトの腹部から悲鳴がささやかにあがった。ヒューベルトと共に報告書に目を通していたら、すっかり昼食を忘れていたようだ。さすがに身体は正直で、エーデルガルトは途端に空腹を覚えた。
「少し休憩しましょう。ヒューベルト、貴方、昼食は?」
「我が妻が今日はこれを、と」
自邸に帰ることが少ないヒューベルトが、昨晩は久しぶりに帰邸したようだった。彼の邸宅は宮城から遠く、帝都アンヴァルの外れの林の中にある。毎日の往来をしようと思えばできなくはないが、職務に熱心な彼は、その時間すらも惜しいようだ。エーデルガルトは、彼の胸を彩る刺繍の胸飾りが、先日まで目にしていたものと異なることで、彼が帰邸したのを察したのだった。
ヒューベルトは、書類を束ねて整え、何も置かれていない空間を作った。そこに、楕円状に柔らかな若葉色の布で包まれたものを置いた。何をするのかと黙って見ていると、ヒューベルトは慣れた手つきで、結び目を解いた。その包みの中から、重ねられたつづらがあらわれた。
「このようなものは不要だと言ったのですが…… 持っていくようにと、準備までされては。全く、困りましたな」
大袈裟とも思えるぐらいに盛大にため息をつきながら、ヒューベルトは容器を横に並べて置くと、蔓で編まれたつづら状の上蓋を開けた。埃とインクの香りで充満していた部屋に、空腹を増長させる香りが漂いはじめた。パンや野菜が色取り取りに隙間なく詰められていて、盛り付けにもベルナデッタのこだわりを感じる。エーデルガルトは、込み上げてくる唾をごくりと飲みこんだ。
「実は陛下の分もあるのです」
「私にも? 何だか悪いわ」
ヒューベルトは立ち上がると、エーデルガルトのすぐ横までやってきて、つづらを置くと、上蓋を開けた。 エーデルガルトは目を丸くして数回瞬きをすると、美味しそうな香りに、うっとりとした表情を浮かべた。
「宮城には料理人もおりますし、食事は取っていると言ったのですが。栄養が偏ると言って、話を聞かないのです。心配性にもほどがありますな」
ヒューベルトは、いかにも家庭人のような悩みをぼそぼそと独り言のように呟くと、席に着いた。いよいよ鳩尾辺りが鈍く痛み、身体がエーデルガルトに食事を要求しはじめる。
「彼女らしいわね。せっかくだからいただくわ。これから何を準備させようかと思っていたぐらいなの」
宮城の食事に不満はないが、こういった類のものは嬉しいものだ。半ば興奮状態にあるエーデルガルトとは対照的に、ヒューベルトは淡々としているが、表に出さないようにしているだけなのだろうか。実のところは、ベルナデッタの気遣いを嬉しく思っているのではないかと、エーデルガルトは手袋を抜き去りながら、彼の心の内を想像する。
「お口に合うと良いのですが。いかんせ、私の口に合うように作られていますからな」
ヒューベルトは、時間が惜しいと言わんばかりに食べ始めた。事実をただ述べているつもりかもしれないが、エーデルガルトは、彼がさりげなくのろけているようにも感じた。
「それでは遠慮なくいただくわ」
エーデルガルトは、まず先にパンを取った。
パンとパンの間に焼いた獣肉が挟んであって、肉汁がパンに染みこんでいる。獣肉はヒューベルトが好む焼き具合で、滲んだ血がパンを紅色に染めている。端のほうから囓ると、旨味が口いっぱいに広がり、咀嚼すると空腹な腹に広がって、勿体ぶって少しずつ食べるつもりが、あっという間に一つ食べ終えてしまった。
「ねえ、ヒューベルト。貴方、あまり美味しそうに食べているように見えないのだけど、気のせいかしら」
ベルナデッタの料理の腕前は、宮城の料理人をしのぐかもしれないと感動したエーデルガルトとは対照的に、ヒューベルトの食事の速度はゆっくりとしていて、エーデルガルトが一つ食べ終わる間に、半分ほどしか食べ終えていない。空腹でもあれば、自分のように思わず勢いづいてみたり、感想を述べたりするものだが、一定のリズムで淡々と咀嚼する彼は、食事をしているのではなく、まるで書類を眺めているようだ。
「左様ですか。妻が作ったものですから、当たり前に美味であると思っておりますが。伝わりませんか」
何が悪いのかという困惑した表情で、ヒューベルトは薄く剃った眉を下げた。
「そうね、貴方、無表情なのよ」
そもそも昔から表情豊かではないけれども、とエーデルガルトは心の内で続けた。
「なるほど、善処します」
改善しようという気持ちが微塵も感じられない抑揚のない声で、ヒューベルトは頷きながら返事をした。フェルディナントのように耳を塞ぎたくなるような調子でヒューベルトにまで騒がれるのは堪らないとは思うが、そうであっても、もう少しどうにかならないかと、エーデルガルトは呆れてしまう。
朝は軽めの食事だったからなどと自分自身に言い訳しながら、エーデルガルトはあっという間にベルナデッタの手作り料理を食べ終えた。ヒューベルトは、未だ食事の最中であるが、食後の紅茶を喉が欲している。エーデルガルトは傍仕えに、テフと紅茶の準備を指示した。
「場内の料理人の食事に不満があるわけではないけど、こういうのもいいわね。ベルナデッタにお礼を言っておいてちょうだい」
腹部に飽満感を感じながら、背もたれに寄りかかるようにして身体を寛がせ、エーデルガルトはいたく上機嫌な様子で礼を述べた。
「承知しました。勿体ないお言葉です」
「あと、貴方もベルナデッタにちゃんと伝えるのよ」
エーデルガルトが念を押すように言うと、ヒューベルトは何のことかと、黄金色の瞳を丸くした。
「美味しかったと、私からの謝意もそうだけど、きっとベルナデッタは、貴方の感想を聞きたいはずよ」
女心に疎いのは変わらずかと思いながら、立ち上る湯気に鼻を寄せ、エーデルガルトは様子を窺うように、ちらりとヒューベルトに目を向けると、彼は自嘲気味な笑みを作っていた。
「女性からの助言はありがたいものです。どうにも、そのようなことには疎いものですから」
やはり、ヒューベルトは何も変わっていないではないか。家庭的で献身的な妻を娶ったからといっても、彼の唇は散々で、全く滑らかではないし、愛に関することはあいかわらず点数をつけようがない。瞼を閉じて、穏やかな表情でテフを嗜むヒューベルトの姿を視界におさめて、エーデルガルトは薄紫色の目を細めた。