「ベルナデッタはどうしたのかしら」
エーデルガルトの声に、ヒューベルトは立ち止まらずに視線を巡らせた。この国に住まう標準的な男性より頭ひとつ高い身長のお陰で、周囲の状況をよく見渡せる。
「いつはぐれたのかしら」
「さて」
ヒューベルトは相槌をうちながら、おみくじを引き終わった後のベルナデッタを思い浮かべていた。
気が進まないが、全員でおみくじを買った。エーデルガルトは言い出したらきかない性分だ。ヒューベルトがそういった類のものは全く信じていないと言っても、ベルナデッタが悪い結果が出たら一年が終いだと恐れ慄いても我関せず。各々が異なる気持ちのまま、百円を支払い、小さな木箱からおみくじを引いた。
覗くつもりなどさらさらないのに、ベルナデッタもエーデルガルトもヒューベルトに背を向けるようにして、おみくじの封を解いた。ちょうど隣にいたベルナデッタの横顔が、ヒューベルトの視界の端にあった。おみくじを持つベルナデッタの小さな手は震えて、今にも泣き出しそうで、それを堪えているのか顰めっ面をしていた。ベルナデッタの迷子は、きっとこの出来事と関係しているとヒューベルトは思った。
初詣で賑わう参道はお重に綺麗に詰めたように道いっぱいで、詣でる人詣と終えた人が不規則に行き交っている。赤い鳥居の柱のたもとに、フェルディナントとドロテアが手を振って、ヒューベルトたちに居場所を示している。集合して温かいものでも食べようかと、エーデルガルトがドロテアとスマートフォンでやりとりをしていたのを、ヒューベルトは思い出した。
フェルディナントを呼んだつもりはないが、きっとドロテアと二人きりで初詣をしたのだろう。二人は恋人同士のように体を寄せ合っていた。
「エーデルガルト様、ベルナデッタ殿を探して参ります。先に彼等と行ってください。あとで向かいます。」
ちょうど良かった。主人を彼らにお願いして引き返すそうと、ヒューベルトは考えたら。
ヒューベルトの申し出に、エーデルガルトは大きく目を見開いたが、やがてイタズラを思いついた子供のように笑った。
「ええ、いいわよ。ベルナデッタのことよろしく頼むわ」
「はい、申し訳ありません」
含みのあるエーデルガルトの声は、よからぬことを考え始めている証だろう。主人に一言忠告していきたかったが、人混みが苦手なベルナデッタのことが心配だった。ヒューベルトは好奇の目を背に受けながら、境内の方へと引き返し始めた。
人が多いところが苦手なベルナデッタは、テーマパークに遊びに行っても途中で不調になることが多く、ベンチで一休みさせることも多かった。その間にエーデルガルトはヒューベルトに世話を任せ、自分は他の友人たちと好きなアトラクションに行ってしまう。その行動は友人を雑に扱っているというよりも、何か別の思惑があるのはわかっていたが、そうであってもヒューベルトはベルナデッタを放ってはおけなかった。
そういったことが積み重なった結果、ヒューベルトが自然とベルナデッタの面倒を見るようになった。年齢も離れているうえ、ヒューベルトの胸の辺りまでの身長しかないベルナデッタは、まるで実の妹のようでもあり、はじめは怖がってなかなか口を効いてもらえなかったが、今ではすっかり打ち解けている。
参道から離れた人のいないところを探した方がいいだろう。
人が立ち入ってできたあぜ道に、ヒューベルトは踏み込んでいった。木が鬱蒼と茂っていて、冬の太陽が控えめに差し込んでいるため、薄暗く感じる。日当たりがよくないせいか、周囲に転がる石は苔むしていて、1月にもかかわらず頬に湿気を感じた。
歩いていくと開けた場所に出た。少し先にぽつんと小さな社が見える。重要な建物から離れているせいか、誰も参拝しなくなったのだろう。誰かが参った気配はなく、朱色は部分部分禿げて、木製の柱は風化して裂けた箇所がいくつもあった。
「ベルナデッタ殿」
その朽ちた社の近くの岩に、すみれ色の頭がダンゴムシのように小さく丸まって座り込んでいた。声をかけると、膝の間に埋めていた顔を上げたが、顔から血の気が引いている。
「大丈夫ですか?」
「あの…… 少し休んだら大丈夫ですから、先に行っててください」
「そういうわけには」
ベルナデッタの握り拳の合間から、白い紙がのぞいていた。おみくじだろう。ヒューベルトは遠慮するベルナデッタを押し切って、隣に座って支えるように背中に手を添えた。
「ごめんなさい」
「謝らなくても良いのですよ。少し休んだら、違うルートで街まで出ましょう」
この様子ではしばらく動かさない方が良さそうだ。ヒューベルトはベルナデッタの様子をみてそう判断すると、スマホを立ち上げて、エーデルガルトに状況を説明するショートメールを打った。
「ヒューベルトさん。おみくじ、どうでしたか?」
「嗚呼、大吉でしたよ。ああいったものはほとんど大吉を用意するものなのです。縁起が悪いですからな」としたり顔で講釈したところで、はたと口を閉ざした。まずいことを言った。さすがのヒューベルトもそのぐらいは察することができた。
「そうなんですよねえ。なのに、ベル、大凶だったんです」
大きな灰色の瞳から大粒の涙が膨らんで、寒さで赤くなった頬を滑り落ちていった。
「ほう。かえって珍しいですから、運が良いかもしれませんよ」
表面上は平静を装っても、悲しみで沈む心に余計なひと言を差し込んだことを、ヒューベルトは心の底から公開していた。
「でもお。悪いこと、たくさん書いてあったしい」
「それがその通りになるとは、限りません。一度もたりとも的中した記憶がございません。貴殿もそうでしょう?」
くしゃっとおみくじから悲鳴があがった。
「だ、だ、だってぇ」
「……う」
俯いていたベルナデッタが顔を上げた。鼻の頭を真っ赤にして、ぼろぼろと涙を流し続けている。何かを言いたいようだが言葉にしたくないのか、震える唇を必死に引き結んでいる。
冷静沈着なヒューベルトも、さすがに動揺を隠せなかった。ここからどう慰めてやればいいのか全くわからず、ただ一声低くうめいただけだった。
「っく、他に……いるってぇ、もうだめなんです。うううっ」
手の甲でかわるがわる涙を擦るようにして拭いながら、ベルナデッタは泣きじゃくり始めた。おみくじに書かれていることをいたく気に病んでいるようだが、取り上げて中を見るわけにはいかない。
「悪いおみくじはここで神様に委ねましょう。一般的に良いおみくじは持ち帰ったほうが良いとききますが、悪いものはここで祓ってもらえばいい」
「そ、そうなんですか?」
ベルナデッタは泣きじゃくるのをやめて、つきものがとれたような顔でヒューベルトをじっと見つめている。
「ええ、そうです。ですから、こちらのお社近くの木の枝に結びつけておきましょう」
思いつきだが、理屈は通ったようだった。ベルナデッタはこくんと首を縦にすると、ヒューベルトは安堵の息を吐いた。
「そろそろ歩けそうですか?」
「はい」
先に腰を上げると、ヒューベルトはベルナデッタに向き直って手を差し出した。ベルナデッタはしばらくじっとヒューベルトの掌を見つめていたが、手を伸ばしてきた。
「は、はぐれないですからね! ベル……子供じゃ無いですもん」
「分かってますよ。もちろん」
照れ隠しの発言なのだろう。いじらしいむくれ顔に、ヒューベルトは喉を鳴らすように笑った。笑うなと言われても、手を握るだけで顔を赤くしたベルナデッタは愛らしいと思った。
「では、貴殿がここだと思う木に私が結びつけて差し上げましょう。よろしいですね」
「はい。ありがとうございます」
握り合った手がきゅっと握り返される。
ヒューベルトの手の第二関節ほどしか無い小さな手だ。手袋を忘れてきたのだろうか、手袋越しにひんやりとした感触が伝わってきた。
「木はご自分でこれだと思うものにしてはいかがでしょう」
「えーっ、なんだかわからないです」
すぐそばで戸惑うベルナデッタを見下ろしながら、ヒューベルトは優しく促すように微笑んだ。
「じゃ、じゃあ……」
手はしっかりと握りしめられたまま、ベルナデッタはきょろきょろと方々の木を見定め始めた。しばらくたって指をさした木は、他の木の勢いに追いやられてやっとのこと存在を許されているような若木だった。
「きっと育ちます。今よりずっと大きく。そしたら、神様も気づいてくれると思うんです」
「なるほど。貴殿らしい感性ですな」
二人で若木の下に立って、空を見上げる。冬空は雲も少なく、からりと晴れていた。太陽の光は柔らかく、眩しさで目を窄めることもない。
「よろしくお願いしますね」
「承知しました。このことは誰にもお話しませんので、ご安心を」
手が離れる。ヒューベルトとベルナデッタは木の前で向かい合った。
「えへへ、ヒューベルトさんとベルだけの秘密ですね」
「さしずめ、そのようになりますな」
「中を見ないでくださいよ」
「当然です」
受け取ったおみくじを細長く折り、結びつける。ようやく色を取り戻したベルナデッタの声は弾んでいた。
それから数時間後、ヒューベルトは車を走らていた。エーデルガルトの挨拶回りのためだ。
現役高校生ながらも幼い時から叩き込まれた帝王学の道を邁進しているのが、ヒューベルトの主人であるエーデルガルトだった。年始の詣を友人たちと過ごしたのはほんの束の間、さっそく会社関係者や親族への挨拶回りに飛び回っている。
「ヒューベルト、次はファーガス商会のディミトリのところにお願い」
「承知しました」
ディミトリはエーデルガルトの義弟にあたり、お互いにそれぞれの会社の次期社長と目されている者同士、距離を保ちながらも親しく付き合っている。
「そういえば、貴方…… ベルナデッタとはどうなの?」
「どう、と申されましても」
車を走らせているため、後部座席に座る主人に振り返ることはできない。ヒューベルトは困惑が浮かぶ声で尋ね返した。
「あら。だって貴方、女に興味がないわけじゃないでしょう? 何名かお付き合いしていたひとがいたみたいじゃない。尤も、貴方は全くその気じゃなかったようだけど」
ヒューベルトは舌打ちをした。エーデルガルトの煽るような言葉は、時折こうしてヒューベルトを苛立たせる。
「彼女とはなかなか進展しないみたいだけど」
主人とはいえ歳の若い女性に私的なことを揶揄われるのだから好ましい感情が湧いてくるはずはなかった。しかし、その相手はヒューベルトが家命としても本心からも忠誠を違った相手。一旦落ちかせようと息を吐いた。
「ベルナデッタ殿は、エーデルガルト様のご学友ですからな。ぞんざいにに扱うわけにはまいりません」
「ふぅん。あらそう」
求める返事をしないとき、エーデルガルトはそっけない態度をとることが多かった。今もそんなところだろうとヒューベルトは推測する。
「そうですな。さしずめ、兄と妹みたいなものかと」
「なんですって?!」
突如、エーデルガルトが声を張り上げたので、ヒューベルトは驚いてハンドル操作を誤りそうになった。
「エーデルガルト様、運転中ですので……」
咳払いしながら、ハンドルを握り直す。エーデルガルトも柄にもなく騒ぎすぎたと思ったのか、小さな声で謝罪した。
「窓、開けていいかしら?」
「どうぞ」
籠って淀んだ空気が一掃されていく。バックミラー越しにエーデルガルトの様子を確認すると、機嫌をとりなおしたのか、瞼を伏せて鼻唄に興じていた。
ベルナデッタのことを何も妹そのもののようだとは、ヒューベルトも思っていなかった。ただ性的な要求を抱くような相手かというと、そうではない。一ミリたりともそんなことを感じたことはなかった。どちらかというと放って置けなくて、守護の対象であった。ヒューベルトにとってエーデルガルトも守護の対象ではあったが、ベルナデッタについてはそれとはまた異質の何かがヒューベルトを捉えていた。
「彼女、泣くわよ」
聞かれていないとでも思ったのだろうか。エーデルガルトのささやかなぼやきが、ヒューベルトに聞こえてきた。
泣くだろうということは、言われずとも分かった。ベルナデッタに妹のようだといっても、きっと彼女は喜ばない。ベルナデッタが兄を求めているのでは無いことぐらいは、女心に疎いヒューベルトでも分かっていた。しかし、ヒューベルトにはそれをどう扱っていいのかが分からなかった。
特別な感情の余地はない。心血注ぐのはエーデルガルト一人だと決めているはずなのに。
ヒューベルトの脳裏に別れる前のベルナデッタの笑顔が浮かんだ。離れていく柔らかい手が名残惜しかったのは、否定できなかった。
「そろそろ到着いたしますよ。エーデルガルト様、ご支度を」
ヒューベルトは振り払うように話題を変えると、目的地に向かうための最後の角を曲がった。