手を繋ぐ。指と指をしっかりと絡ませて、鎖のように、堅牢に。ベルナデッタの灰色の瞳のなかに、ヒューベルトはぼやけた自らの顔を見た。
「ベルナデッタ」
「もうっ、くすぐったいですってば」
ヒューベルトの尖った鼻先がベルナデッタの頬を押す。唇を顎に寄せて、弓形にそった背に腕をまわすと逃げられないように抱き寄せる。
「お嫌ですか?」
「嫌じゃないですけどぉ。ちょっ、やだ、どこ触ってるんですか」
「貴殿の腰ですが……」
「ほとんどお尻です」
「おや、それはこちらの方ですよね……」
ベルナデッタの抗議など左から右。揶揄いまじりの声に機嫌を損ねたのか、さらにその下へと辿るように這わせた摘む部分の少ない手の甲をきゅっと摘まれた。
「もうっ、ダメです。ベルはまだそんな気分じゃなくてですね」
そこまで抵抗されて無理矢理というのは、ヒューベルトの好みではない。あっさりと退き、手持ち無沙汰になった手は、ベルナデッタの丸い肩に添えるように置いた。
久方ぶりの自邸での時間。妻との時間はヒューベルトにとって宮内卿という仮面を脱ぐことができる貴重な時間だった。
すぐ隣の妻から漂う甘い花の香りに誘われて、その柔らかい身体に触れたくなってしまう。結婚前までは自分がそうした軟弱な行為に溺れるとは思ってもみなかったが、一度沈んでしまえば、ベルナデッタという海はそこが見えないほどに深く温かいものだった。
「では、どうされたいと? なんでもおっしゃってください。我が妻の求めに応じましょう」
鼻と鼻を突き合わせるようにしてベルナデッタに尋ねると、言い出しにくいのか、唇をもごもごと動かしている。
「言っても構いませんよ、怒りませんから」
ヒューベルトが穏やかな声で促すと、ベルナデッタは確かめるように上目遣いで見つめてから、ヒューベルトの視線から逃れるように目を逸らした。
「ベルはただ」
「ただ?」
ヒューベルトが尋ね返すと、ベルナデッタは徐にヒューベルトの腕を取って絡めると、二の腕に頬を寄せた。
「こうしてたいんです。えっちなことすると、一日終わっちゃうじゃないですか」
「なるほど。確かにぐったりですからなあ」
ヒューベルトは白々しく同意した。
「だ、誰のせいだと思ってるんですか」
「言うまでもない」
ヒューベルトはそういうと、ベルナデッタの丸い頭を何度か揺するように撫でた。
「誤魔化さないでくださいよう」
ぼそぼそとようやく聞き取れるような小さな声の愛らしい反抗に、ベルナデッタの膨らんだ頬を指先で突くと、尖ったくちびるの間からふっ、と空気が漏れた。
「人の顔で遊ばないでください」
「触れてはならないと言われましたので、手持ち無沙汰なんです」
「ヒューベルトさんのしたいことは、夜にお願いします」
「夜?」
ヒューベルトは語尾をわざとらしく跳ね上げると、ベルナデッタは真面目な顔でゆっくりともっともらしく頷いた。
「そうです、夜です。だめですか?」
ヒューベルトは話にならないというように吹き出して、首を左右に振った。
「貴殿はここのところ、夜は先にぐっすり寝てしまいますから、守られる約束だとは思いませんが」
「そっ、そんなことないです。それに約束ですから、ちゃんと起きてます」
大きな瞳が真っ直ぐにヒューベルトに向けられていて、その頬がほんのりと色づいていた。触れたくなって、ヒューベルトは手を伸ばす。包み込むように触れて、親指で撫でた。
「あのっ、夜は、だ、大丈夫ですから」
言ってる先から自分の発言が恥ずかしくなってきたのか、視線が泳いでいる。ヒューベルトはそのままするりと腕を回して、ベルナデッタを自分の胸へと引き込んだ。
「おやおや、大胆な。非常に楽しみですなあ」
「もうもうっ!」
ぽかぽかとベルナデッタの小さな拳がヒューベルトの胸を叩いている。やれやれと肩を竦めて、鼻息で彼女の髪を揺らすとこれ以上動けないように強く抱きしめる。
「こんなひとだと思いませんでした」
「ほう、こんな、とは?」
「えっちなことするなんて」
「私とて男ですから。では、どう思っていたのですか?」
少し腕の力を緩めてから、ヒューベルトは凄むようにベルナデッタを見下ろした。
「興味なさそうな感じでしたけどぉ……」
ベルナデッタの瞳がヒューベルトの視線から逃れるように動いた。
「わかりやすいのもどうか、と」
「そうですけど。恋とか愛とかそんなものには一切興味がなさそうでしたよ。じゃあじゃあ」
ベルナデッタの声音はどこか不穏さを纏っていた。ぎゅっとヒューベルトの衣服がつかまれる。
「誰か好きな人がいたとか、えっちなことも実はしてたんですか?ベル以外の人とぉ」
ヒューベルトは何度か瞬きを繰り返した。2番目の疑惑はともかく、最初の質問は違う意味で目を丸くするような問いかけだったからだ。しばらく黙り込んで、頰をかく。
「黙ってるじゃないですか。ほら、ベルに言えないことがたくさんあるんですね」
「クク……」
「ヒューベルトさん?」
忍び笑いがついつい漏れてしまった。顎を引いて影に覆われた顔を覗き込もうとして、ベルナデッタが僅かに身を屈める。
「はははははは!」
「ひ、ひゃあ、なんですか、なんですか、えっと、ヒューベルトさん!」
笑いが止まない。ヒューベルトは細い目の端に涙まで滲ませ、のけぞり返って笑い続けた。ベルナデッタは怖くなったのか、ヒューベルトの上下する肩を押さえるように両手を置いて、名前を呼び続けている。
「は、は…… 失礼しました、これは大変」
気が済むまでまで声を上げて笑った後に、ヒューベルトは人差し指で滲んだ涙を拭って、息を整えた。
「もう、なんなんですか、一体。笑って誤魔化してもダメなんですからねって……」
ベルナデッタが安堵したのは束の間、あっさりと抱えられ身体は宙に浮いている。きょろきょろと辺りを見回してから、戸惑いが浮かぶ眼差しをヒューベルトに向けた。
「参りましょうか」
「どこへ?」
ヒューベルトは肩を竦めた。
「どこなんですか!」
ヒューベルトは非難の声を無視して、扉の方へとすたすたと歩き始める。
「無論、我らが寝室ですとも」
ほえ、と気が抜けた声がヒューベルトのすぐ近くで漏れた。事態を理解しきれていない妻の前髪に、ヒューベルトは口づけを贈った。
「答え、まだ、聞いてないです」
ベルナデッタのしおらしい様子に、ヒューベルトは唇の端に笑みを浮かべた。
「答えであれば、場所を変えてお答えいたしますよ。存分に。それでご満足していただけるかと」
ちょっと、と立て続く声など聞こえていないという表情で、ヒューベルトは歩き出す。
その誰か好きな人、というのが妻本人だとしたら。夜を共にした女性は妻が初めてだと知ったら。ベルナデッタは驚くのか、喜ぶのか、はたまた感動で涙するのか。
考えただけで、ヒューベルトはぞくぞくした。諦めたのか、ベルナデッタからの抵抗はない。真相を未だに知らない妻の冷たい視線をよそに、ヒューベルトは鼻歌を奏でながら部屋を後にした。