ベルナデッタは分厚い本をぱたりと閉じた。小さな手のひらには大きすぎる本だ。赤い荒い布地で装丁されたその本の物語を頭の中でなぞって、大好きな夢想の時間に浸る。
一国の王子が旅先で世話になった村の娘と恋に落ちる。娘は身分の差から国王の怒りを買い塔に閉じ込められてしまうも、王子によって救出され、二人は結ばれるという物語。
学んでいないような難しい言葉がいくつかあったのでところどころ怪しい部分もあるが、話の筋は概ね間違っていないと、ベルナデッタは思っている。
ベルナデッタはまあるい頰に柔らかく小さな掌を添えて、窓から外を眺めた。ちょうど屋敷近くの木々から小鳥が2羽、飛び立つところであった。その小鳥に物語の王子と娘を重ねながら、こんな時間がずっと続けばいいのにと思って、瞼を伏せた。
「ベルナデッタ、勉強の方はどうかな」
その夢の時間は、ベルナデッタ父親の声で破られた。
この時間は勉強をしていないといけないのに、机の上は先ほどの本が一冊置かれているだけだ。ベルナデッタが慌てて本を隠そうとまごついている間に、扉が開かれる音がした。
「素晴らしい。ちゃんと勉強しているようだな」
「はっ、はい」
父親はベルナデッタにの全てに干渉する。そして、自らが描いた通りの娘に作り上げようと、芸術家が作品に取り組むように苦心している。そして、父親が望まぬような結果しか出せないときはベルナデッタを徹底的に叱りつけ、そんなことでは結婚相手すら見つからず、そしてそれは恥ずべきことだと、精神的に叩きのめすのだった。
本を隠すことに失敗したベルナデッタは何とかやりすごそうとした。父親に背を向けたまま背中を丸めて、あたかも机に向かって熱心に勉強していると安心させ、退室してもらおうという算段である。しかし、当のベルナデッタにしても、それが父親に通用するとは思っていない。状況を確認しようとする父親の歩み寄る音がしたと思えば、彼が怒りで感情を昂らせた時に行う歯軋りの音がベルナデッタのすぐそばでした。
怒られる。
ベルナデッタはぎゅっと拳を握りしめ、体を固くして身構えた。
「これはなんだ……」
「あっ、それは、ダメ」
「それが親に対する口のきき方か」
片手でつまみ上げるように取り上げられた本。ベルナデッタは取り返そうとすぐさま手を差し伸べたが、叩くように払われた。白い手の甲がすぐさま赤く腫れて、痛みで涙が込み上げてきた。
「こんな本を。全く。平民が読むような本ではないか」
涙を滲ませながら手の甲をさすり続ける娘のことなど、ベルナデッタの父親は気にも留めていない。本をパラパラとめくって、「くだらなん」つぶやきながら、卑下た笑みを浮かべるのだった。
「問おう。この本で学ぶことがあるというのか」
ベルナデッタは怯えきって、目を見開いたまま、机の木目を見つめた。父親の問いかけに対する答えなど持ち合わせていない。顔色は真っ青だった。
学びを求めて読んだ本ではない。そもそも答えられるなんて思ってもいないくせに問いかけているに違いないと、ベルナデッタは意地の悪い父親に対する憎しみを強くした。
「聞いているんだ、答えなさい」
ドン、と机を掌で叩く音がして、ベルナデッタは悲鳴を上げた。
「ないだろう。こんな平民が抱きがちなたわごとに親しむとは…… 情けない。普段から言っているだろう。お前の結婚相手は私が相応しい相手を見つけてやると。そのために、私はこうしてお前に当家の嫡子として恥ずかしくないような教養を身につけさせようとしているのだ。分からないか。恋愛などもってのほかだ。したいというのなら、婚約者となった男を相手にすることだな」
くどくどと続けられる言葉は、ベルナデッタの頭の中にはほとんど入ってこなかったが、自分の立場では恋愛して素敵な相手を見つけるということができないということは父親に言われずとも理解していた。
「誰かいるか!」
父親の一声で室外で控えていた侍従が慌てて返事をした。この邸宅では全ての人間がベルナデッタの父親の機嫌を伺いながら働いている。ギスギスしていて、ベルナデッタはそれが一番嫌だった。
「この本を火にくべておけ、今すぐ、だ」
ベルナデッタははっとして顔をあげた。その本は平民の子がくれた大切な本だ。立ち上がり、そんなことをさせまいと父親の背にしがみつこうとした。
「きゃっ」
小さな体では紋章を宿していたとしても大人には敵わない。振り返った父親の悪魔にも思える形相を見た瞬間、頬を平手で打たれ、ベルナデッタは自室の床にくずれるように倒れた。
「そういう元気があるのであれば、もっと良い娘になるように励んではどうだ。困ったものだな」
ベルナデッタは身体を捩らせ、顔を床面に向けたまま、嗚咽を漏らした。大切な本を守れなかったことを悔やみながら、歯を強く噛み合わせた。張られた頬の痛みより、胸のあたりが締め付けられるように痛かった。大粒の涙が分厚い深緑の絨毯に染み込んでいく。
父親が選んだ相手といずれ結婚しなければならないことぐらい、小さなベルナデッタにもわかっていた。夢を見たかっただけ、それだけだった。母親ではない誰かと男子でも設けてくれればいいのに、そしたら、要らない不出来な子は逃れられるのだろうか。ベルナデッタは悔し涙を流しながら、父親の不義を願う。
しばらくして、父親の靴音が遠ざかっていく。ベルナデッタの意識もまどろみ、溶けていく。
ベルナデッタは跳ね起きた。
纏った薄い布地の寝衣がべったりと肌に張り付いていた。夢の中のベルナデッタは、まだ10にもならないほど幼く、嫌な夢を見たものだと息を吐いた。
もう幼い小さなベルナデッタではない。手脚はするりと伸び、若葉のように小さな手のひらはしなやかで瑞々しい大人の手だ。
「うなされていたようで」
隣で背を向けて横になっていた夫、ヒューベルトが、ベルナデッタの方に身体を向け直した。
ヒューベルトと結婚して数年たつ。結婚当初は離れて暮らしていたものの、一昨年より帝都の外れにある邸宅に二人で暮らすようになった。静かな森に囲まれた邸宅には、ベルナデッタのために温室が設けられ、ヒューベルトは常に在邸しているわけではないが、定期的に帰邸し、ベルナデッタとの時間を作ってくれている。
「ごめんなさい、なんだかとっても嫌な夢を見たんです」
「ほう、ここのところはよくお休みになられていたようですが」
寝台の脇に置かれた小机の上の水を口に含ませて乾いた喉を潤すと、ベルナデッタは寝台の端に腰を下ろした。指先まですっかり冷え切っていて、手と手を擦り合わせる。先ほど頬を張られたかのような打ちのめされた気分だった。
夫の朝は早い。ベルナデッタは気を紛らわせてようと、居間で針仕事でもするかと思案する。
「その格好では風邪をひきますよ。こちらへ」
「ヒューベルトさん、明日は早いですから、ベル、少し気を紛らわせてきます」
「ご遠慮なさらず」
長い腕に腰部を絡め取られて、ベルナデッタは背中からヒューベルトに抱かれるようにして再び横になった。
窓の外は闇でどっぷりと深い青に包まれている。ベルナデッタは朝はまだ遠いのだろうと思った。ヒューベルトは余計なことは尋ねたりはせず、ベルナデッタと体温と呼吸を合わせている。この人と結ばれたこと自体、あの本のように奇跡的だと思いながら、身体に巻き付くヒューベルトの腕の筋を愛おしい気持ちを込めながら指で撫でた。
「本を燃やされたときのことを見たんです」
「なるほど」
ベルナデッタは浅く瞼を伏せ、ヒューベルトにことの経緯と物語の筋を語った。
ユーリスから貰った赤い本。分厚くて、小さなベルナデッタは抱えて持ち歩かないといけないような大きな本だった。表紙には馬上の男女が睦まじく寄り添う絵が描かれ、目を見張るような美しい精細な花々の刺繍で縁取られていた。本の題名は覚えていないが、物語の筋はよく覚えている。境遇の違う二人が困難を乗り越え、最後には愛する人が馬に乗って助けに来るのだ。
「平民の間では人気の古典的なお話ですな」
「ヒューベルトさんがご存知だなんて、ちょっとびっくりしました」
「無論、愛読書ではございません。市井の者を知ってこそ、国政は成り立つのです。そのような意味において、存じているということですよ」
どんな身分であっても愛する人と結ばれる世、紋章に縛られない自由な世。エーデルガルトが描く、将来の帝国のあるべき姿である。そうなれば、あの物語は遺物と化すのだろうか。ベルナデッタは考え事に耽り、息を吐いた。
「ベル、誰かに助け出して欲しかったんです。だから、あのお話が好きだったんだと思うんです」
ユーリスのことをどう思っていたのかについては、あまりにも幼く、思い返してしてもよく分からない。少なくとも、あの物語の王子とその彼と重ねたとは思えない。自分を妻に迎えるような男性が現れるとは思っていなかったのかもれない。ただ、今こうしてこの体を合わせて眠るヒューベルトはベルナデッタを妻にと申し出た例外だった。
ベルナデッタはふふっと小さく笑って、ヒューベルトの腕に手のひらをぴったりと這わせた。頸にかかるヒューベルトの癖のある黒髪がくすぐったいのもあったが、悪夢など吹き飛ばしてしまうほど、幸せのなかにいることをすっかり思い出してしまったからだった。
「何か、面白いことでも?」
「ヒューベルトさんが、ベルの王子様なんでしょうね」
「はて、何を言うのやら」
「ベルの前に現れた運命のひとだからですよ」
「私は物語の登場人物のような煌びやかな人間ではございませんよ。ククク、想像するだけで悍ましい。吐き気を催します、はは、はは、これは滑稽」
ヒューベルトはそう言ってベルナデッタを解放すると、身体を仰向けにさせた。笑いが止まらないようだが、あまりにも笑い続けるので、ベルナデッタはぎょっとして半身を起こした。
「そっ、そんなに笑わなくてもぉ」
「そもそも私は馬に乗って囚われの貴殿を助け出してなどおりませんが」
目の端に滲んだ涙を人差し指で拭うヒューベルトを、ベルナデッタはジト目で睨みつけた。
「そういう意味じゃないんです!」
「もちろん、存じておりますとも」
笑いが収まらないのか肩を揺らしながら、ヒューベルトはベルナデッタのむくれた頬を何度か撫でた。
ヒューベルトは馬に乗ってヴァーリ領を訪れてはいたが、結婚の申し込みは経営相談の最中、思い出したかのように行われ、浪漫の欠片もないのだった。ベルナデッタの溜飲がいくらか下がったのは、どうやって大きさを確認したのかは未だ謎であるが、ヒューベルトが指輪を用意していたことだった。物語の筋と重なる部分といえば、孤独に閉じこもるベルナデッタを救い出したのは、ヒューベルトである、という部分だろう。
「そもそもヒューベルトさんが結婚の申し込みをした時って、領の治水工事の話をしていた時でしたよね」
「ああ、そういえば」
「ですよね!」
「え、ええ」
ベルナデッタの剣幕にたじろいだのか、ヒューベルトは気まずそうに視線を背けた。
「別にそのことを責めたいわけではなくてですね、ヒューベルトさんはベルを選んでくれたわけですから、ベルの王子様だったんです」
物語では苦難を乗り越えた二人が結ばれるわけだが、ヒューベルトとベルナデッタも恋愛における苦難はなかったにせよ、別の形においてはいくつもの山を乗り越えていたのだった。
ベルナデッタはシーツを握りしめると、ヒューベルトはその上に優しく大きな手を重ねたのだった。
「私は紋章もなく、領地もなく、それに……人に疎まれる役目を負っております。貴殿にとっては王子どころか、悪魔の使いやもしれませんよ」
ベルナデッタは何度か首を振った。
ヒューベルトの方からベストラ家が担う役目に対する協力を求められたことなど一度たりともない。ベルナデッタの方から率先して申し出ているものの、ヒューベルトの方で危険度の高い職務を与えないように配慮していることは分かっていた。言葉で伝えられることはほとんどないものの、ヒューベルトの優しさや、向けられる愛情の深さを思えば、物語でいうところの王子と称しても全くおかしくないのだった。
「ベルにとっては、王子様なんです」
「聞き分けのない」
「それは、ヒューベルトさんが一番よく分かってますよね」
「無論、誰よりも、よく」
ヒューベルトはしたり顔で笑った。
ベルナデッタは機嫌を取り直して、ヒューベルトの腕にしがみつくような形で横になった。それから、ヒューベルトの二の腕に頬を擦り寄せ、もう悪夢は見ないようにと願いながら、瞼を伏せた。