その男は太陽にように明るく、そして、気障な笑顔がよく似合っていた。
フェルディナント=フォン=エーギルーー それが彼の名だ。
彼の燃える鮮やかな橙色の髪が馬上でゆらめく様は、戦場にあっても一枚の美術画のようで、同性であったとしてもしばしその美しさに見惚れてしまうほどだ。歌劇の演者のように通る声は、戦の最中にあっても遠くまで轟き、彼が誉れ高く名乗りをあげれば、兵たちの士気はあがり、帝国軍の勝利が近いことは約束されたも同然だった。ヒューベルトは鬨の声に包まれながら先頭を切って馬を走らせる彼の背を、頼もしさを胸に主君の隣で見守るのだった。
無知で世間知らずで尊大な貴族の嫡男。主君の役に立つかどうか怪しい実力の持ち主。
それが士官学校入学時のヒューベルトが下した、フェルディナントへの評価だった。
最低の評価から幾度の苦境をともに乗り越えていくうちに次第にその評価が変わり、ヒューベルトとフェルディナントが帝国の双璧と称されるようになってからは、気が置けない友人として付き合っている。
久しぶりに共にした夕食後の会話の中で、その彼が放った何気ない一言がヒューベルトの気を引いた。
フェルディナントは、ベルナデッタのことを「ベル」と呼んだ。
ただそれだけのことだった。話している本人は楽しそうに、ベルナデッタと交わされた話の内容を語っているだけだ。悪気はない。ただこれまでに彼がベルナデッタをそう呼んだことはなかった。
ヒューベルトがどう感じているかなど、フェルディナントは分かるはずなどない。親しい間柄になったとはいえ、ヒューベルトは自身の私的なことを話すことはなかった。彼が知っているのは、ヒューベルトがベルナデッタからお詫びの品として手製の刺繍の飾りを贈られた程度で、それは彼以外の誰もが知っている事実だった。
フェルディナントはヒューベルトの心中などお構いなしに、昼間にあったというベルナデッタとの出来事を楽しそうに話している。話に夢中になっているせいか、彼の茶器には並々と紅茶が残っていた。よほどこの話を聞いて欲しいのだろうと思いながら、ヒューベルトは明後日の方向に視線を向けた。
ヒューベルトはかつてこの友人とベルナデッタの間に縁談話が持ち上がったことを知っていた。どんな些細なことでも、ヒューベルトの情報の網から逃れることはできない。フェルディナントの誤解により二人は顔を合わせることなく破談となったわけだが、今こうして彼が「ベル」と呼び始めたとなると、次のその縁談が浮上することがあれば、彼がをそれを受けるやもしれない。
ヒューベルトは茶器を手にすると、考えても仕方がない仮定の話ごと流し込むように、熱いテフを胃の中に注ぎ込んだ。慣れた苦味がいつまでも口の中にまとわりついて、少しも美味しいと思えなかった。加えて、普段から考え事が多いせいか、鳩尾のあたりがキリキリと痛んだ。フェルディナントの話の半分も頭に入ってこなかったが、彼が「ベル」と呼ぶたびにヒューベルトの心をちくちくと刺激した。
ヒューベルトは眼窩の奥の黄金色の瞳の中に、フェルディナントを狙い定めるように捉えた。彼はヒューベルトの視線には気づいていないのか、朗らかに笑らっている。対するヒューベルトは、友人になったはずの彼に殺意にも近い黒い感情を覚えていた。窒息してしまうぐらい強い力で、二度と「ベル」と呼べないよう、その口を塞いでしまいたかった。
常ならもう少し話し込んでいたりするのだが、今日のところはそんな気になれなかった。話し始めた頃には何名かが遅い食事をとっていたが、食堂にはヒューベルトとフェルディナントしかいなかった。ヒューベルトはフェルディナントに用があると告げ、足早に席を辞した。
執務室へと向かう道中、ヒューベルトは空を見上げた。
暗闇に大きな月が浮かんでいた。柔らかい温かみはあるが、どこか寂しげで冷たい感じがする。フェルディナントが太陽であれば、自分はさしずめ月なのだろう。日向にひっそりと咲く菫のようなベルナデッタに必要なのは、月ではなく太陽ではないか。植物に必要なのは、月ではなく陽光だ。ヒューベルトは珍しく感傷に浸っていることを自覚して、振り払うように右目を覆う前髪をかきあげた。
愛を知らなければ、こんな感情で心が乱されることなどないのにーー
ヒューベルトは、深く長い息を吐いた。
心の中の靄を払うように、ヒューベルトは執務室で溜まっていた報告書に目を通していた。レスター諸国同盟は諸侯の関係が複雑であり、政情が読みづらい。パルミラと手を組む者が出てくるやもしれず、常に監視の目を光らせておきたいぐらいだった。
一通り報告書を読み終え、ヒューベルトは目の疲れを感じて眉間を指でほぐした。そろそろテフでもと思っていた時に、ベルナデッタがテフを携えて顔を出した。彼女はテフをヒューベルトの傍らに置くと「あまり頑張りすぎないように」と告げた。
ベルナデッタの笑顔がヒューベルトに刺さった。この笑顔は自分に向けられても良いような種類のものだろうかと躊躇い、すぐに礼の言葉が出てこなかった。慌てて「ありがとうございます」と告げたものの、ベルナデッタの顔を見ることができなかった。
フェルディナントとの一件を引きずったままの己が情けなくなって、ヒューベルトは苛立ち感じた。それはすぐさま手元に現れ、指に力が篭って手にした羊皮紙に細い皺がいくつも寄った。異変を察してか、ベルナデッタが訝しげな表情でヒューベルトを見た。
「ヒューベルトさん、お身体の加減でも悪いんじゃないですか?」
ヒューベルトはここでようやくベルナデッタを見た。彼女の大きな瞳がヒューベルトへと向けられていた。急に強い渇きを覚えて、喉仏が上下した。
「ヒューベルト、さん?」
覗き込もうとした彼女の手首をヒューベルトは自らの方へと引き寄せた。崩れ落ちるように、ベルナデッタはヒューベルトの腕の中へとおさまった。怖がってくれればいいのに、もう彼女は恐れない。「どうしたんですか、急に」と言うだけで、毛布にくるまっているような心地よさげな表情を浮かべて瞼を伏せている。
「もう私のことを恐れないのですな」
「当たり前じゃないですか」
ベルナデッタは何度か頬を擦り寄せてから、満たされたような穏やかな表情で呟く。
「真っ暗闇の中で急にばったりヒューベルトさんと鉢合わせたら、流石に怖いかもしれないですけどお」
「失敬な」
「冗談ですってば。そういう時は、ヒューベルトさんじゃなくても怖いです」
他愛もない会話でヒューベルトの気持ちはいくらか晴れてきたが、自らの血塗られた手で触れていいものなのか戸惑いが生じて、彼女の髪を愛で梳く指の動きが止まった。
「ベルナデッタ。本当に私などで良いのですか?」
自分から発せられた言葉のくせに、ヒューベルトは自らの耳を削ぎ取ってしまいたくなった。
「どうして、ですか?」
ベルナデッタは顔を上げて、何かあったのかと探るような眼差しをヒューベルトに向けた。それから、手を差し伸べて、ヒューベルトの頬骨を慈しむような手つきで撫でた。
「ヒューベルトさんじゃなきゃ、嫌です。一体どうしたんですか、もう」
「私の手は血塗られ・・・・・・んぐ」
ベルナデッタの掌に覆われて、ヒューベルトは先の言葉を阻まれた。
「その話はいいんです。ベル、そんなのわかってますから。何も分からずに一緒にいるだなんて思わないでください」
そう言って不満そうに頬を膨らませてから、ベルナデッタは困り顔のまま笑った。
「今度その話をしたら、ベル、しばらく口をききませんからね。わかりました?」
ヒューベルトはゆっくり頷くと、ベルナデッタは「よろしい」と言ってゆっくり頷き返した。この愛らしくも頼もしい彼女を手放せるはずがなかった。友人に殺意を覚えるほどに愛おしいのだから。諦めるしかない。ヒューベルトは薄い笑みを刻んだ。
「何かが今日はおかしいようで」
あの男なら情熱的に愛を告げるのだろうが、ヒューベルトにはそれはできなかった。未だ清らかなベルナデッタの全てを全てを今すぐ暴きたくなるような激しい感情を押し殺し、肩をすくめて戯けることしかできない。本当は誰の目にもつかないところに閉じ込めておきたいほどの、狂おしいほどの独占欲が腹の底に澱んでいるというのに。
「こんな情熱的なヒューベルトさんなんて珍しいっていいますかぁ・・・ベル、ドキドキして死んじゃうかも」
ベルナデッタは頬を緩めて笑った。
「それは困りますな」
ヒューベルトはベルナデッタの頭を何度か撫でると、彼女の額を隠している前髪へと口付けを贈る。
「そういう時はちゃんと・・・・・・ そのぉ、お口にしてくださらないと」
しっかりと抱えられながらも、もじもじと気恥ずかしそうに身体を捩るベルナデッタに、ヒューベルトは「なるほど」と返した。彼の恋人は大切にしすぎるのはお気に召さないようだった。
「では遠慮なく」
ヒューベルトはそう言って、親指で彼女の柔らかな唇をわずかに開かせると、深く甘い口付けを贈るのだった。