一日中様々な会議に出席した後、ヒューベルトはようやく執務室の前に辿りついた。
陽はとっぷり暮れていて、薄暗い城内の廊下に灯りが外から入り込んでくる風によって揺らめている。分刻みで設定された会議の合間に一息つくこともかなわず、テフを何度か飲んだぐらいで、胃の中は空っぽだった。
疲労を全身に纏わせ、ヒューベルトはノブへと手を伸ばした。刹那「貴方、今日が誕生日だったわね。おめでとう」と言葉と真逆の冷ややかな視線を投げつけてきたエーデルガルトの顔が浮かんだ。彼女が本当に言いたかったことに対し、心の内で今さらながらの反論をしながら、ヒューベルトは両開き扉の片側を引く。
(誰か…… いる)
ヒューベルトは執務室の闇の中に、確かな人の気配を感じ、扉を浅く開かせたまま身体を扉に忍ばせると息を潜めた。中にいるはずの人物は、扉から外気が入り込んできたことに気が付いているはずだ。物音ひとつ聞き逃すまいと、ヒューベルトは瞼を伏せた。
暗闇の中に潜んでいる相手に紳士的に対応する必要はない。しかし、ここは城内であり、かつ、相手がどこの差し金であるかを確かめるためには、生け捕りにしたいところだ。ヒューベルトは室内の人物に意識を向けながらも、最良の手段を組み立てていく。
算段ができれば、行動は早い。ヒューベルトはまずは片足を内側へと踏み入れ、一呼吸で室内に身体を滑り込ませる。と同時に、胸元に忍ばせてある暗器へと手を忍ばせた。
「ぴっ、ぴやぁあ、こ、殺さないでぇええ」
「はぁ?」
ヒューベルトはその声に手を止めた。あと少しの差で、手にした暗器を気配のする方へ投げつけるところだった。
「あたしですぅ、お、お誕生日おめでとう、ございます。ヒューベルトさん」
「は、はぁ……」
室内の空気が破裂しそうな大声で叫んだのは、ここにいるはずがないヒューベルトの妻である、ベルナデッタだった。降参するように両手をあげた彼女から発せられた場にそぐわない言葉に拍子抜けしたヒューベルトは、気を取り直した。なぜここに、と問いたいところだったが、騒ぎを聞きつけた誰かが駆けつける靴音の音が大きくなってきている。ヒューベルトはベルナデッタを宥め、長椅子に座らせると、騒ぎを収めるために室外へと出た。
悲鳴を聞いて駆けつけてきた衛兵や侍従に何事もないことを伝えると、彼等は散り散りにそれぞれの持ち場や宛がわれた部屋へと戻っていった。振り返ると、室内からベルナデッタの頭がひょっこりと覗いていた。ヒューベルトは彼女の頭を何度かわしわしと撫でると、部屋に入った。
「それで…… どうして、貴殿がここに?」
「それには深い、理由…… はないんですけれどぉ」
ヒューベルトがベルナデッタに理由を問いただしているのには理由があった。ベルナデッタは任務のために、とある貴族の領地に滞在させており、少なくとも今節中は出先から戻ってくる予定はなかったからである。ベルナデッタもそのことがあってか、ヒューベルトの機嫌をいたく気にしているようで、しきりに目を泳がせている。
「来ちゃった、っていいますか。いけませんか?」
散々悩んだ挙句の一言ですっきりしたのか、ベルナデッタは花がぱっと開いたように笑った。ところが、それに対してヒューベルトが両腕を組んだまま唸ったので、ベルナデッタは長椅子からぴょこりと跳ねあがり、縮こまった。
「いけない…… です、か」
「いえ、いけなくはないのですが……」
ベルナデッタは道中で想定される危険について考えたことはあるのだろうか。ヒューベルトが素直に喜べない理由はそこにあった。
「今回ばかりは仕方ないと思ったんですけれど、やっぱり、それじゃいけないって。それで、ベル、決断したんです!お会いしなきゃって。それで朝早くから馬を飛ばしてぇ…… あ、ちゃんと誰かに言ってきましたから騒ぎにはなってません」
ベルナデッタは誇らしげな声で言った。
決断。
ヒューベルトは反芻した。ベルナデッタの言葉は何もかもが大袈裟すぎる表現だとは思ったが、敢えて口には出さなかった。隣に座るベルナデッタは大真面目な顔をしているので、そこに水を差すのは良くないと判断したからだった。
「お…… 怒ってます? やっぱりほらぁ……」
「いいえ、それよりも、どこかお怪我などされていませんか?」
「怪我ですか? この通り、全然大丈夫です。あ、でも、ヒューベルトさんに謝らなければならないことがあるんです」
「ほう」
ヒューベルトが凄むように目を細めたので、ベルナデッタは慌てて「任務のことではないです」と差し込んだ。
「では、どういうことですかな。謝罪が必要ということとは」
「今回、本当にそれこそ昨日の夜遅くに決めたので、何も準備してないんです。そのぉ、誕生日の贈り物を」
ベルナデッタはやけに神妙な顔つきで、謝罪した。心の底から申し訳ないと思っているということが、にじみ出ていた。
「お、贈り物…… ふ、は…… は、はははは」
ヒューベルトは目を丸くして、何度か瞬いた。それから、そんなくだらないことかと気が緩み、珍しく声をあげて盛大に笑った。彼の妻の純粋さに、先ほどまで身体を蝕んでいた疲労が一気に吹き飛んでいく。先ほどからの一連の行動も、相手が違えば腹もたっただろう。しかし、ヒューベルトは結婚する前からベルナデッタに対しては寛大だった。知的な探り合いを好むヒューベルトが一番嫌うのは、出し抜かれること、想定外のことである。妻に迎えたベルナデッタは意図せずにヒューベルトの想像の遥か斜め上を超えていく。それが、ヒューベルトが最初にベルナデッタという人物に興味を抱いた一つの理由であった。
「わ、笑わないでくださいよう」
「いえ、し、失敬。しかし、貴殿の行動力には驚かされるばかりですな。私の誕生日ごときにそこまで必死になって」
ヒューベルトはようやく笑うの止め。肩を竦めた。それから今さきほど思い出したような声で「お礼を申し上げるべきですな」と言った。
「じゃ、じゃあ……」
ベルナデッタはようやく安心したのか、目を爛々に輝かせながら、ヒューベルトに何かお願いをするように切り出した。それでもいくらか躊躇いがあるのか、なかなか次の言葉を切り出してこない。大胆なわりには、おねだりが苦手な彼女の扱いに、ヒューベルトは慣れている。努めて優しい声で問いかけるだけで、彼女は閉ざしかかった扉を開いてくれる。
「どうぞ、遠慮なく」
ヒューベルトが穏やかな声で促すと、ベルナデッタは両手を大きく広げた。
「ぎゅっとして労わってください」
「なるほど、承知しました」
ヒューベルトが素直にベルナデッタの求めに応じると、ベルナデッタはヒューベルトの胸にすりすりと頬ずりをした。眼下の彼女はうっとりとした上機嫌な様子で、ヒューベルトの背に両腕をしっかりと回したまま今にも眠りそうな勢いだった。
「明日の朝にはちゃんと帰ります。でも、どうしても、誕生日おめでとうございますって言いたくて」
「なるほど。そこまでして祝っていただけるとは。最上ですな」
ふっと笑ったときの鼻息で、ベルナデッタの髪が僅かに吹き上がった。「うそだぁ」と言いながらも、ベルナデッタもくすくすと笑っている。抱きしめた彼女からは土埃の香りがした。本当に今日の朝からずっと馬で駆けてきたのだろうと、ヒューベルトは思った。梳いた髪も風にあたりすぎたせいかぱさついていていて、いつものしなやかさは感じられず。軋んでいた。
「ところで、私は仮眠室で休む予定でして、貴殿の休む場所を準備させねばなりませんな」
「そ、そんなことで他の方の手を煩わせたくないです」
「では、貴殿が仮眠室で寝て、私は長椅子で休みます」
「それもダメです」
ヒューベルトに預けていた身体を離すと、ベルナデッタは拒絶の意思を顔に浮かべて、首を左右に振った。それから皮手袋に覆われたままの手でヒューベルトの頬を撫でると「仮眠室で一緒に寝ます」と小さな声で言った。
「仮眠室とは名ばかりではなく、本当に仮眠室でして、寝台も一人が眠れる程度の広さしかないのですよ」
「ぎゅっと寄り添えば寝れますよ」
「しかし……」
言い淀むヒューベルトに向けて向けられる懇願の眼差しは、懐ききった野良猫がすり寄ってくるものに近く、目を逸らしがたいものがあった。ヒューベルトは観念したような力ない声で「分かりました」と言うと、ベルナデッタは子供のようにはしゃいで喜んだのだった。
執務室のすぐ隣に設けられた仮眠室には燭台を乗せている小机と寝台しかない。窓もなく、時間の経過を感じづらい構造だ。仮眠室は執務室からしか入ることができず、内側から鍵がかかる仕組みで、一度鍵をかけてしまえば扉を破壊しない限り誰一人入室することできない。そういう構造のため、例えば扉が施錠された状態でヒューベルトが死んでいたとするなら、突然死か病死かそれとも密室殺人のどれかしか考えられない。外敵のみならず、政敵も多いヒューベルトにはうってつけの構造である。
部屋に入ってしまえば、物音ひとつ聞こえない。光も入らない薄闇の中、揺らめく炎に照らされたベルナデッタの影が石壁に浮き上がっている。本当に一日かけて馬を走らせてきたのだろう。ベルナデッタは「おやすみなさい」と言ったきり、すっかり眠ってしまったようだった。
「全く忙しい方だ……」
健やかな寝息に苦笑いを刻むと、ヒューベルトは蝋燭を吹き消した。それから、先に横たわったベルナデッタを後ろから抱きしめるような形で寝台に寝そべった。しばらくすると完全に寝ていなかったのか、ベルナデッタがヒューベルトの腕の中で僅かに身じろぎした。起こしたのだろうかとヒューベルトが丸い頭を見つめていると、ベルナデッタは身体をヒューベルトの方へと向けた。
「起こしてしまったようで」
ヒューベルトのバツの悪そうな顔に、ベルナデッタは眠たげな表情のまま笑って首を振った。
「いいんです」
ヒューベルトとベルナデッタは顔を見合わせると、引き寄せられるように唇を合わせた。口付けも交わさぬままに結ばれた二人だったから、自然とこうなるまでにはかなりの時間を要した。それでも、ベルナデッタの方は未だに照れくさいようで、口付けをかわした後は誤魔化すように笑う。ヒューベルトはそんなベルナデッタの初々しさが好ましく、他人には見せないような満ち足りた表情でベルナデッタの頭を何度か優しく撫でた。
久しぶりに会う夫婦が一つの寝台で共にすれば、ヒューベルトであっても妻が欲しくなった。二人の間に漂う甘い空気の中、ヒューベルトは背中に回した手を滑らせる。いつもは賑やかで子供っぽい彼女が、夜の静寂に見せる女の表情は、ヒューベルトの嗜虐心をそそる不思議な魅力があった。ところが、今日はそういう気分ではないらしく、ヒューベルトの手は、腰部にたどり着く前にベルナデッタに引き留められてしまった。
「ダメです。ここ仮眠室ですしぃ、そういうことするお部屋じゃないですから」
「おや、そうなのですか?」
ヒューベルトは惚けてみせたが、ベルナデッタは「とにかく今日は駄目です」と頑なに拒絶した。無理に妻を抱く趣味はなく、ヒューベルトもあっさり引き下がり、再びベルナデッタを抱きなおした。ベルナデッタの身体は柔らかく、身体を合わせているととくとくと緩やかに脈打つ心音が聞こえてきた。
「こういうのも新鮮じゃないですか?」
「しかし、久しぶりの逢瀬とあっては、いささか生殺しにも近いものがありますな」
「ヒューベルトさんでもそういうこと、あるんですか?」
「妻を抱きながら、それ以上踏み込めないのは……」
ヒューベルトがそこまで言うと、ベルナデッタはヒューベルトが言い終わる前に強くしがみ付いた。
「嬉しいです。えへへ、ベルもちょっとは大人の魅力が出てきたということでしょうか」
「……それは、何とも言えませんな」
「いいんです。ヒューベルトさんがベルのこと大好きでいてくれるのなら」
「それは確かなことだと言えますよ」
「ヒューベルトさん、大好きです」
ベルナデッタはそう言うと、身体を引き上げて、ヒューベルトと頬をすりすりと合わせた。
「愛らしい方だ…… 貴女は」
ヒューベルトはベルナデッタの頬を親指で撫でると、その唇に優しく触れ合うような口付け贈った。それから、二人はおやすみなさいを交わして眠りについた。
翌朝、ベルナデッタは本人が話していた通り、早朝に再び任務へと戻っていった。「行ってきます!」と元気良い声で部屋を後にした彼女の背を、ヒューベルトは朝の業務報告に来た部下と見送った。かつての彼女では全く考えられないことだった。そして、そんな彼女の成長を嬉しく思いながらも、どこか寂しい気持ちがヒューベルトにわだかまった。引きこもりの彼女を愛したわけではないが、離れていこうとすると子供のようにぐずった彼女のこともまた、ヒューベルトは愛していたのだった。
「すみませんが……」
「ええ、承知しております」
ヒューベルトは彼女の気配が完全に消えたところで、部下に目配せをした。彼もヒューベルトの指示を内容を理解しているようで、ゆっくりと頷いた。
「ある程度のところまで、無事を見届けていただければ。任地まで追う必要はございませんので」
「そうおっしゃらず。お許しいただければ最後まで見届けます」
「申し訳ありませんが、そうしていただけると助かります」
本当は自分が果たすべき役目だとは、ヒューベルトも理解している。ただ今すぐに自らの全てを彼女に捧げることは叶わない。身体は一つしかなく、やらなければならないことは山積している。ヒューベルトが少しぐらい帝都を離れたところで、主人をはじめ、誰も責めないだろう。しかし、ヒューベルトはどういう状況であれ、自らの果たすべきことと向き合い続けたかった。そして、ヒューベルトは妻に対して果たすべきこととして、水面下では常に彼女を見守っていた。ベルナデッタは気軽な気持ちで馬を走らせてきたかもしれないが、護衛もつけずに長距離を移動すること自体、誰に狙われるやも分からず、ヒューベルトは気が気でない。こうして部下が快く見守りを引き受けてくれるのは、何よりも有難かった。
「よろしくお願いします」
ヒューベルトが投げかけた言葉に応じるように部下が深々と礼をし、急ぎ足で執務室を出て行く。既に馬が用意してあるということなので、彼はこの指示を察して待っていたということだろう。ヒューベルトは立ち上がると、窓へと向かった。外は気持ちよく晴れ、朝の訓練中の兵士たちの声が聞こえていく。
一区切りついたら、今度は自分が連絡もなく妻の元を訪れよう。ヒューベルトはそう腹に決めて、仕事へと戻っていった。