経営指導でヴァーリ領に赴くようになってから一年がたつ。
はじめは頭が痛くなるほど統治に興味を示さなかったベルナデッタだったが、今では課題もしっかりと仕上げるようになった。
心配されていたヴァーリ領も思っていた以上に早く戦の傷跡から立ち直ろうとしている。オグマ山脈の麓に広がる領地で鉱物、木材という資源が豊富な領であったこともあり、復興景気に煽られるように、領地内は活気にあふれている。
――打てば響くとはこういうことなのだろうか。
いずれ泣き言をいうだろうと思っていたヒューベルトの当初の予想を、彼女は見事に覆してみせた。
はじめのほうこそ打ち合わせようの低卓に向かい合うようにして、不安げな表情で顔を曇らせた彼女がヒューベルトから一方的に指導を受けていたのだが、回を追うごとに少しずつ距離近くなり、彼女から質問も増えてきた。
そして、今では隣席に座って会話をし、お茶を楽しむ仲だ。
懐かれてしまったと例えると、彼女をまるで野良猫のように扱っているようで失礼な気がしなくもないが、間近で向けられる屈託のない笑顔に、ヒューベルトもかつての怜悧な顔はどこへやら、穏やかな表情で返すことも増えていた。
邸宅の門の前までの道のりで、何かを楽しげに話ながら歩くベルナデッタの声を、ヒューベルトは話半分にぼんやりと聞いていた。
彼女はとてもおしゃべりだ。
帰路に就こうとしているにもかかわらず、話したいことがあるらしい。最近あったことから、珍しい植物が咲いたこと、新しいレシピを思いついたなど、途切れる間もなく話は続く。
邸宅のエントランスから敷地内を抜け、正門までの人が二人並んで歩ける広さの固い石畳の上を、ヒューベルトが先に、ベルナデッタがその後に続く。その両脇にはベルナデッタが手入れを熱心にしている草木が鬱蒼と茂っており、植物独特の青く瑞々しい香りが鼻をくすぐる。
門のところまで来たところで、ヒューベルトはようやく振り返る。それまでは、彼女が一方的に話をしていて、ヒューベルトは相槌もうたずに背で彼女の声を受け止めていた。もちろん、話は一言一句聞き漏らさず、全て聞いている。楽し気に話すベルナデッタの声を聴いているだけで、気が休まった。帝都では引き続き緊張した交渉事や政が続いており、神経を尖らせる日々。そういったこととは全く無縁のベルナデッタとのこの短い時間は、ヒューベルトにとっては一時的な休息の時間だった。
ベルナデッタは、きっかり邸宅と外界との境界線で立ち止まる。
いつもの光景だ。彼女はここから出ようとしない。
「ヒューベルトさんが出してくれた宿題、次に来られるときまで、ちゃんとやりますね」
次に来る予定は決まっていない。
エーデルガルトの諸国遊説に同行するため、しばらくヴァーリ領を、彼女の元を訪れることはできないからだ。それで、先ほど、数節分の課題を与えたばかりだのだから。
「あの―― ベルのこと、あ、え、いや、なんでもないです」
馬車を待たせている。立ち去ろうにもベルナデッタは何かを伝えようと目を泳がせている。
「そろそろ時間です」
妙におどおどしているベルナデッタから視線を外して空を仰いだ。彼女が自分の機嫌を窺うようなしぐさを見せるのは本当に久しぶりで、かつての彼女を見るようだった。
だが、残念ながら、彼女に付き合っている時間はもうない。行かなければと、別れを告げようとしたときだった。
「もう、ここには来なくなるかもなんて、ううん、なんでもないです。待っているだけのベルが悪いんですから。」
追いかけようとしたのか、ベルナデッタは足を踏み出そうとする。
ヒューベルトは分かっていた。彼女はその境界線を、踏み越えられない。
これまでだって、何度か息抜きにと柄にもなく帝都での観劇や食事に誘ったことがあった。まんざらでもない様子で喜ぶものの、ベルナデッタは決してこの邸宅を出ることはなかった。そして何度目かの断りの謝罪でさすがに気が付いた。出たくないのではなく、行きたくないのではなく、ここから出られないのだろう、と。
戦が終わって、再び、ヴァーリ邸に引きこもった彼女の心理は尋ねたことも尋ねるつもりもなかった。ただ間違いなく、精神的な何かが彼女をそうさせているのだろうという憶測はあった。
この平穏は、学友と殺し合って勝ち取り、得たものだ。
それは、心優しいベルナデッタには耐えがたい事実に違いない。同盟側と初めて交戦したその夜、誰にも見られないように拠点の外れに座り込み、ハリネズミの刺繍がされた血濡れた道具袋を握りしめていたことがあった。
そのことを分かっていても、そういったものについては自分で乗り越えていくべきものだと、ヒューベルトは考えていた。だから敢えてそれには触れず、静かにその行く末を見守るに留めていたのだった。
「そりゃあ、来なく、なりますよね。ここから出られないあたしとなんて、付き合ってられないですもん」
ベルナデッタの呼吸が僅かに乱れている。
向けた視線の先にあった華奢な膝が小刻みに震えていた。萎れた花のように頭をたれながらも、ベルナデッタは境界線から足を踏み出そうとしている。手を引けば、自分がその手を取れば、境界線なんて簡単に超えてしまうだろう。
「私はもう来ないなどとは一度も申していませんが…… 全く―― 妄想が過ぎますな」
妄想を振り払ってやることぐらいなら容易く、それぐらいであれば、快く施してやれる。
「そ、そうですよね。考えすぎですよね。あっ、もう時間ですよ!気をつけて、お土産話を楽しみにしてます」
ベルナデッタの靴先にはいくつかの水滴が地に染みこんだ跡が残り、降り出した雨のように次第にぽとぽとと、落ち始めていた。涙声で真っ赤に目の縁を真っ赤にして瞼を腫らし、いつものように笑おうと頬の肉を動して無理に笑顔を作ったベルナデッタの姿に、ヒューベルトはその胸や喉のあたりが緩く締め付けられるような痺れを伴う痛みを感じた。
このまま立ち去っては夢見が悪そうだ。
自分の力で乗り越えられないものは、そのまま屈していればよい。しかし、ベルナデッタは自分を明らかに必要としている。ベストラの家に生まれ、他人から忌まれ、恐れられ、愛されるはずがない自分に対し、ベルナデッタは何故か心を寄せ、必要としている。その向けられた感情に対しては、戸惑いが大半を占めるものの、決して悪い気はしなかった。
その手をとって、僅かばかり引いてやっても良いと思わなくはない。だが、手を引いたその先の責任を取れるのか。そのことがヒューベルトを縛り付け、動けなくしていた。この先も血塗られた道を歩む自分に、ベルナデッタを巻き込んでも良いのか、決して普通の幸せを与えてやることはできないとわかっているからだ。
はぁ、と吐いた短いため息は自分自身に向けたものだ。
決断できない自分自身が情けなくなってきたというのがある。その手を取るか、選び取らなければならない時期に来ているのだろう。ヒューベルトは思った。
「無理に笑わずとも―― いえ、そうさせたのは、この私の罪です、か」
そう言いながら、ヒューベルトはベルナデッタに足早に歩み寄り、短く断りを入れたうえで、彼女の手首をとって引き寄せる。そして、そのまま抱きしめた。引き寄せられた彼女は、踏み越えられなかった境界線をいとも簡単に踏み越えた。そして、勢いのままに、ヒューベルトも彼の心の境界線を踏み越えた。
「ヒューベルトさんッ」
名を呼ばれ、返事のかわりに抱く力を強めた。
はじめて抱きしめたベルナデッタは、想像以上に華奢であった。腕の中の彼女は驚いたのか何も言わず、ただされるがままだったが、しばらくしてそろそろと肩のあたりに手を遠慮がちに手を這わせてきた。密着した身体を通して、彼女の乱れた鼓動が伝わってくる。
「ひゅ、ヒューベルトさん、あの、馬車が」
「分かっています。駄目、ですか?」
「え、ええっとお、だめじゃないです、嬉しいです」
「では、気にしないことです」
踏み越えてしまえば、後は気楽なものだった。どうしたあのように重大な問題になっていたのか。おかしくなって、わずかばかり唇が緩む。
恥ずかしがる彼女とは対照的に、ヒューベルトは馬車に間に合うギリギリのタイミングまでベルナデッタの体温を堪能した。
慌てて飛び乗った馬車の中で、ヒューベルトは目の前に差し出した両手を握ったり緩めたりを繰り返していた。いつもの一人きりの馬車の中で、先ほどの彼女の感触を思い起こす。ふっ、と口元を緩めて、代わり映えのしない木々を見つめた。二人でというのも悪くはない。別れて数刻もしないうちから、ヒューベルトは次の来訪が待ち遠しく感じてやまないのであった。