バレンタインぱにっく

 ベルナデッタは落ち着いて座っていられるような状況ではなかった。隣に置いた布製のトートバックの中のことで頭が一杯なのだ。
 店内はバレンタインフェアということで、すぐ後ろのカウンターではスペシャルドリンクを注文する人が後を絶たない。バレンタイン、という言葉がベルナデッタの背中からざくざくと突き刺さる。思わず両肩があがってしまいそうになるぐらいで、目が宙を泳いでいた。
 目の前のヒューベルトは甘いものは好まないので、いつもブラックコーヒーを注文する。賑やかな店内にあっても、彼の周囲はまるで図書室のように静かだ。ベルナデッタの挙動不審な様子にはすっかり慣れてしまっているようで、幸か不幸か気にも留めていないように思えた。それが、ベルナデッタにはとてもありがたかった。

 時は遡り、ヒューベルトとの待ち合わせの駅へと向かう電車の中で、ベルナデッタは暇つぶしにSNSを眺めていた。バレンタイン当日ということで、それに関する写真で埋め尽くされている。そして、ベルナデッタ本人もその最中にある。
 しっかりと抱えた鞄の中には控えめにラッピングした小さな箱―― そこには、ヒューベルトへの手作りのバレンタインチョコが入っている。昨晩、両親が寝静まった後にこそこそと台所に這い出てきて、鼻歌をこらえながら作ったものだ。
 人差し指でするすると液晶画面をスクロールしていくと、とある投稿がはた、とベルナデッタの目に留まった。
”手作りのチョコレートやお菓子は不衛生で迷惑だ。手作りなんて何が入っているか分からないから、受け取れないし、そういうものを渡す人は無神経だ”
 震える指先で止せばいいのにコメント欄をタップして展開した。そこにはほとんどの人が賛同の声を書き込んでいた。
 ベルナデッタは顔が真っ青になって、座っていなければその場に膝から崩れ落ちていたかもしれなかった。幸せの時間への梯子を外されて、谷底へと叩き落されたような気分に陥った。批判の的のそのど真ん中のものを準備して、今日これからヒューベルトに渡そうとしている。彼も、やはり不衛生だと思うのだろうか、迷惑だと感じるのだろうか。これまでに何度も彼に手作りのお菓子や食べ物を贈ってきているが、それも全て迷惑だったのかもしれない。色々な妄想がどっと溢れて頭の中をぐるぐると巡り出した。ベルナデッタは軽い眩暈を覚えながら、力ない足取りでヒューベルト合流したのだった。

「ベルナデッタ殿? どうかされましたか。先ほどから顔色が優れないようですが……」

 さすがに黙っている時間が長すぎたようだ。ヒューベルトの眉根は僅かに寄せられ、ベルナデッタの顔をまじまじと観察するように眺めている。ベルナデッタは我に返って、首を左右に力強く振った。

「そんなことないんです。ちょっと色々と考えごとをしていて」
「左様ですか、であれば良いのですが。店内も混雑してきましたし、そろそろ行きますか」
「あっ、はい!」

 ベルナデッタの飲みかけのドリンクを手慣れた様子でてきぱきとトレーに乗せると、ヒューベルトは返却口へと歩いて行った。ベルナデッタは慌ててトートバックの紐を肩にかけて、邪魔にならぬよう先に店を後にした。

 気まずいぐらいに街は恋人たちのイベントで埋め尽くされている。チョコレートやお菓子とはおおよそ関係のない店まで、商魂たくましく、バレンタインのポップを出して、イベントに参加している。
 先ほどから歩くたびにトートバックの中でかさかさと音をたてている小箱の存在を肩にずっしり感じながら、ベルナデッタは項垂れた。ヒューベルトがチョコレートを期待しているとおも思えないが、ことあるイベントごとにこまめにプレゼントを渡してきた経緯もあり、ベルナデッタの口から何も出ないことを不審に思っているかもしれなかった。
 様子を窺うように目線をあげると、いつもと同じあまり感情が読み取れない横顔があって、視線に気が付いたのか、僅かに目を合わせると彼の口元が僅かに緩まった。

 時折強く吹く乾いた冷たい風を頬に感じながら、ベルナデッタとヒューベルトはよく過ごす公園で一息つくことにした。週末とイベントが重なったせいか冬場はあまり外に出ないような人たちも今日ばかりは外出しているようで、人でごった返していた。ベルナデッタはともかく、ヒューベルトも必要以上の街の喧騒は好まない。住宅街と商店街のちょうど境目にあるこの公園のベンチは、ベルナデッタとヒューベルトにとっては言わば逃げ場所だった。
 冬場の日没は特に早く、時計はまだ夕方の4時を指しているが、薄暗くなってきた。門限もあるし、電車で移動を考えると、そろそろヒューベルトとさよなら時間が近づいている。
 ベルナデッタは小動物のように臆病であったが、一度腹を決めると、まるで別人のように行動的になるところがあった。せっかく作ったものだし、もし不衛生だと思われても、自分が知らないところで捨てるなりしてくれればよい。ええい、と心の中で最後の決断の槌を振り下ろし、ベルナデッタはぎゅっと拳を強く握った。

「あっ、あのう!」
「どうかされましたか? 急に」

 裏返った声に対して、ヒューベルトの声は夜の海のさざ波のようだ。ベルナデッタはトートバックに手を突っ込むと小箱をやや握りしめ、素早い動きでヒューベルトの膝に置いた。

「おや、これは?」
「ば、ば…… バレンタインデーですからぁ、そのう。あたし、ちゃんと準備はしてきたんですけど」
「けど?」

 ヒューベルトは今にも小箱の紐を解こうとしているので、ベルナデッタは慌てて手で制した。

「ちょ、ちょっとまってください!」
「しかし、これはいただけるのでしょう?」
「そうなんですけど、えっと、これにはぁ、深い、じじょーがあってですね」
「はぁ?」

 細い切れ長のヒューベルトの目が僅かに丸くなっている。意味が分からないといった表情で、僅かに唇がへし曲がっている。

「その、それは、手作りなんです!」
「それが深い事情と何が関係でも?」
「大ありです!」

 ベルナデッタは声を張り上げてベンチから立ち上がると、ヒューベルトに向き直った。ヒューベルトには手作りであることの深刻さが伝わっていないようだった。

「手作りのものは不衛生だって、その、あたし、ちゃんと台所は綺麗にしてから作ってますし、でも、あたしの手は触れちゃってるので、汚いかもしれないですし」

 先ほどまでずっと腹の中で抱えていたものを一気に吐き出してしまえば、後は脱力するだけで、へなへなと力なくヒューベルトの隣に座ると、膝のあたりでぎゅっとスカートを握りしめて、口を噤んだ。

「何を心配されていると思えば、そういうことですか」
「そういうことって」

 ベルナデッタが涙目でヒューベルトを見上げると、彼は先ほどまでの困惑の表情を解いて、穏やかな笑みを浮かべていた。それから「貴殿が触れたものが受け取れないのであれば、おおよそ、私は貴殿に触れることすら叶わない。それは―― 堪りませんな」と言って、ヒューベルトは肩を竦めた。

「ふ、触れる?」

 ベルナデッタは憑き物がとれたような表情で、ヒューベルトを見返したが、彼は何か思うところがあったのか気まずそうに眼を逸らしてしまった。それからそんなに時間がたたないうちに、何となく彼が考えたことを察して、ベルナデッタは顔を真っ赤にした。
 未成年のうちは、とベルナデッタとヒューベルトは清い関係で、口付けを交わしたのも数える程度の間柄だ。触れる、という言葉の中にヒューベルトが本心では何を望んでいるのか、ベルナデッタもそれとなく察してしまったのだった。

「とにかくそういうことですから、私は気にしておりません。これは有難く、家に帰ってから楽しませていただきますよ。安心してください」
「はい!」

 ベルナデッタはようやく元気を取り戻すと、ちょうどそろそろ電車の時間が近づいてきていた。ヒューベルトの呼びかけに応じて立ち上がると、気恥ずかしそうに手を差し出した彼の手をぎゅっと握って歩き出した。