悪戯なkiss

 ヒューベルトの背後にある月がやけに大きく見え、ベルナデッタはゆっくりと瞬きをした。
 乳白色の闇に滲むような輝きが闇に遮られたかと思ったそのとき—— ベルナデッタはヒューベルトと唇を触れ合わせていた。それからすぐ、ベルナデッタの心の昂りを知って、心臓が駆け出していく。嵐で搔き乱される森の木々のように、ベルナデッタの心は大きく揺さぶられる。

(ヒュー、ベル、トさん?)

 視界に入ったヒューベルトは瞼を浅く伏せていたが、その奥にある黄金色の鋭い瞳がじっとベルナデッタを捉えていた。そのまま彼に飲み込まれてしまいそうに感じられ、ベルナデッタはぎゅっと彼の衣服を握りしめた。





「あの、えっと」

 唇が離れてすぐ、ヒューベルトに何かを問いかけようとしたが、ベルナデッタはどうしていいのか分からなかった。戸惑いながら視線を左右に迷わせ、落ち着かない様子で僅かに唇を湿らせる。彼がどんな顔をしているのか確かめるのが何故かとても恐ろしくて、ベルナデッタは顔を背けた。
 沈黙もそれはそれで気まずい。
 そこで意を決して「あのッ、あたしたち、キ、キス」と切り出したところ、それ以上何も言わせたなくなかったのか、ベルナデッタの顔はヒューベルトの胸に強く押しつけられていた。
 衣服越しに伝わるヒューベルトの心臓の鳴動に、ヒューベルトも動揺しているのだろうとベルナデッタは察した。

「それ以上は言わないでいただけますと。言葉にされると、どうにも耐えがたいのです」

 ヒューベルトの声はいつになく上擦り、動揺しているように感じられた。好きだの愛しているだの、その類の言葉をヒューベルトから贈られるとは微塵も思っていないし、期待もしていない。だから、ベルナデッタはヒューベルトの態度に悪い感情を抱かなかった。

 しばらくして、ヒューベルトの力が緩まると、ようやくベルナデッタは顔をあげた。そして、酷い顔だな、と心の内で感想を述べながら諦めの表情で薄く笑みを刻んだ。

「大丈夫です。びっくりはしましたけどぉ…… なかったことにしてくださいと言われれば、そうします。きっと、気持ちがおかしくなるぐらい、今日はお月様が綺麗でしたから。そのせいです」

 ベルナデッタは横髪を耳にかけながら、ヒューベルトに問いかけた。それから、こんな情けない顔の彼を見るのははじめてかもしれないと思った。

「明日になったら忘れていますから、平気です」

 何故かそういう時は自分の方がしっかりしていないといけない等と勝手な心理が働いて、はじめてのキスにもかかわらず、ベルナデッタは努めて大人の女性を演じてみせようとした。

「決して、そのような薄情で無責任な気持ちであのような行為に至ったとは―— ですが」

 一回り年齢を重ねたように見えるぐらいヒューベルトはすっかり焦燥しきった様子だった。それでも続きはどうしても聞いておきたい。ベルナデッタは続きを促すように「ですが?」と投げかける。

「ですが…… 貴殿があまりにも儚げでしたので―— ですから、今のうちに私の手の内に閉じ込めてしまいたいと、つい魔が差したのです」
「ほ、ほぇ」

 あまりにも直球が投げ込まれたので、ベルナデッタは叫びだしそうになりながら、両手で顔を覆ってしまった。そんな感情が彼にもあったこと、それから、そうした情愛が自分に向けられたことが、雷に打たれたかのような衝撃的な出来事だったからだ。

「嗚呼、やはり、お許し、いただけない、と?」

 ベルナデッタはヒューベルトに問いに、首を左右に振った。許すも許さないも、今度はベルナデッタの方が返す言葉が無くなってしまった。

「では、許していただけると?」

 ベルナデッタは首を縦に何度も振った。

「それは良かった。しかし、もう、顔は見せていただけないので?」
「そういうわけでは、ないんですけどぉ……」
「では、見せてはいただけませんか?」

 ヒューベルトの手がベルナデッタの手首を包み込み、ベルナデッタを促すように優しい力で手が引かれた。

「あっ、あんまり、み、みないでぇ…… は、恥ずかしいです」
 
 抵抗する気もなく、ベルナデッタの顔を覆っていた掌が外され、動揺と羞恥が浮かぶ表情があらわになっていく。

「顔を見てはいけないと?」

 夜目が利く方だという彼には他の人間に比して鮮明にベルナデッタの表情が映ったかもしれない。これ以上は見られたくないと、ベルナデッタは顔を背けて極力ヒューベルトと目を合わさないようにしようと試みた。

「そういうわけじゃないんですけどぉ。だって、さっきのこと、思い出しちゃうから」

 またキスしてしまいそうな予感がしてと言い出しそうになって、ベルナデッタは言葉を止める。
 彼との身長差をはじめてありがたいと思った。顔をしっかりと上げないと、彼とは視線が合わない。目を合わせたら、先ほどの様子が頭の中で鮮明に蘇ってきそうだった。妖しく笑みを刻む薄い唇、触れる唇の柔らかさと、彼の体温―—

「思い出してはいけないのですか?」
「恥ずかしくて死にそうですよう、ベル」
「なるほど、お嫌ではなかったと考えても?」

 ヒューベルトは楽しげに笑ってから、ベルナデッタの手首を解放すると、ベルナデッタの丸い頭を何度か撫でた。ヒューベルトの方が先にいつもの調子を取り戻しつつあったので、ベルナデッタは面白くなくなってきた。恥ずかしさが苛立ちにかわり、一人だけ余裕がない状況であることが悔しくも感じられた。

「か、勝手にしてください!もうっ。ベルはもう部屋に帰りますから!」

 ベルナデッタがそう言い捨てるや否や「ベルナデッタ」と、あの静かで夜の闇に溶け込むような低い声でヒューベルトに名を呼ばれる。釣られ、ふと顔をあげると、金縛りにあったように硬直した。
 彼の作戦にまんまとはまったと気付いたときには、もう遅い。
 ベルナデッタはまたそれから、今度はもう何をされるか理解し、観念して、瞼を伏せた。