「さて、それでは貴殿はこちらでお待ちを」
「えっ、ええ!! ベルを置いてくんですかぁ」
空は漆黒が薄墨色に朱が差し、朝を迎えようとしている。真夜中の行動を避けるために、ヒューベルトとベルナデッタは屋敷の気配を伺うためにも待機し、突入するそのときを待っていたのだった。
ベルナデッタの情けない声に、ヒューベルトはため息をつくと、無情にもその腕をするりとベルナデッタから引き抜いた。
「この場所が安全であることは確信しておりますが、屋敷の中は状況が不明です。ですから、先に行ってまずは中を確認してまいります」
でもぉ、と口を開こうとするベルナデッタを見越してか、ヒューベルトは古びた屋敷の方へと目を向けて言葉を続ける。考え直すつもりなどないということを彼女に示すためだ。
「それに、オバケがでるやもしれませんからなぁ、ククク」
白々しい声音でヒューベルトはベルナデッタを揶揄うと、彼女を差し置いて扉の方へも歩きはじめた。
「ここで一人も危ないんじゃないかとぉ…」
「万が一のことがあっても、貴殿は屋外の方が立ち回りやすいでしょう。実力は信頼しております。偵察が終われば戻りますから、貴殿はどうかそちらでお待ちを。なに、すぐ戻ります」
ヒューベルトはわずかにベルナデッタの方を振り返り、彼女に少しでも安心してもらおうも試みる。過去の自分であればそのような気遣いなどしなかっただろうなどと心の内で自嘲しながら、浅く笑んだ。
「う、ううう。ひゅ、ヒューベルトさぁーん。ベルを置いてかないでくださいよう」
去り行く親に子が縋り付くような勢いで、ベルナデッタが声を弱々しい声で呼び止める。ヒューベルトはもう振り向くことはせず、手を挙げて応じるだけに留め、両開きの屋敷の中の片側を開けた。
屋敷を取り巻く木々たちが風に揺られてざわめきたてる。あれからどのぐらい経ったのかわからないが、ヒューベルトは屋敷から一向に出てこない。ベルナデッタは落ち着かない様子で渡された短剣を握り締めていた。こうしていれば少しばかり恐怖で縮み上がった感情をどうにか抑え込むことができるようである。
「ヒューベルトさん、遅いな」
ぽつり、独り言。
それから敢えて口には出さなかったが、彼に何かあったのではないかと考えしまう。
「ヒューベルトさんってばー!」
屋敷に向かって、ベルナデッタは声を張り上げた。そうすれば、彼がうるさいといって姿を見せてくれるのではと淡い期待が胸にあった。
しかし、その声はただ虚しく轟いただけで、固く閉じられた扉は開く気配を見せない。
もうずっと待っているような気がする。
時間を測ることができないというのもそう感じる原因のひとつだと、ベルナデッタ本人も理解はしている。木々の影は刻一刻と伸び、すっかり明るい。つまりそれは、彼が屋敷の中に姿を消してから、それなりに時間が経過していることを示していた。
「どうしよう、ヒューベルトさんに何かあったら」
エーデルガルトやベレトに何と伝えればいいのか。助けを呼びにいくべきか。ベルナデッタの頭の中で色々なことが飛び交った。
それから、少しばかり冷静になろうとして、ヒューベルトが自分をここに留め置いた理由を考えた。
「これはもしやヒューベルトさんがピンチなのでは?だとしたら、あたしが、ヒューベルトさんを助けなきゃ」
彼が聞いたら吹き出してしまうかもしれないと思いながらも、ベルナデッタは真剣に考えた上で決断した。足は力がうまく入らないぐらい恐怖で震えてるが、逃げ出したくはなかった。
ヒューベルトが手こずるということは、それなりの相手なのだろう。ベルナデッタは覚悟して、唾を飲み込む。それから彼が消えて行った扉の取手に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
「おっ、お邪魔しまーす」
そんなことを言っても意味がないのは分かっていても、ベルナデッタは律儀に挨拶した。反応がないのはわかっているので返事を待つまでもなく、開かれたエントランスホールを見渡した。
誰も住まなくなってからはそれなりに経っていると聞いていたが、思いの外、荒れ果てていない。空気中に埃は舞っているものの、床に敷き詰められたカーペットは激しく汚れているようには見えなかった。ヒューベルトと思しき靴の痕がうっすらと確認できるが、それは一人が作ったにしてはいささか乱れているようで、ヒューベルトに何かあったのではと、ベルナデッタの不安を掻き立てた。
「ヒューベルトさん」
不用心だと言われるのを覚悟で、彼の名前を呼んでみるが、しばらく待っても返事も物音ひとつしない。いよいよ不安が胸を締め付け始めた。もう一度独り言のように彼の名前を読んだ。思いかえすと、もうすっかり呼び慣れている。だから一層、ベルナデッタは心細くなった。
「ダメよ、ベル。あたしがヒューベルトさんを助けるんだから。しっかりしなきゃ」
ベルナデッタはくじけそうになる心を蹴って、短剣を握り直す。少し息を吐いて緊張を解きほぐすと、五感を研ぎ澄ませた。微かな物音すら聞き逃すまいと、神経を集中させる。
その時だった。
それはベルナデッタの頭上からの物音だった。腐った木が擦れ合って軋むような音ーー それから、其れはベルナデッタの目の前に滑り落ちるように姿を表した。
「ひぇっ、な、なに?!」
数歩後退りして、ベルナデッタは身構えた。操り人形のような糸で四肢を引かれた何かが、グギギと音を立て、それから首が捩れ、ありえない方向にぐるりと回り、骨が潰れるような嫌な音が響いた。
其れは、ひとなのか、人形なのか。
カッと見開いた目と左右に引き裂かれた口。目玉があるべき部分はぼっかり穴が空いていて、歯が全て抜け落ちたのかありえないぐらい開いているのに何も見えない。人だったとしても生きてはいない。
ベルナデッタは本能的に拒絶した。
タ、タスケ、テ……
隙間から漏れる風音のような音で、其れはベルナデッタに救いを求めた。骨と皮だけの枯れ枝のような手が震えながら伸びてくる。
「ひっ」
ベルナデッタは、喉を握りつぶされような声で悲鳴をあげた。息肌が全身に立ち、ベルナデッタはいよいよそれどころではなくなった。
「い、い…… いやああああ!!」
発狂したように叫んで、ベルナデッタは一目散に逃げ出した。わけもなく屋敷の向かって左に伸びる翼棟の廊下を駆ける。ほどなくして、どうぞと言わんばかりに開かれた部屋が目に入った。
罠だ。
いくら錯乱していたとしても、それぐらいは分かる。あからさますぎた。しかし、ベルナデッタの背後からはアレが四つん這いになって獣のように追ってきている。
ベルナデッタは、ええいままよと、部屋に滑り込むと扉をしっかりと閉め、全体重をかけるようにして背中を押し当てた。
「こないで、こないで、こないで、こないでよう」
ベルナデッタは祈るように震える声で唱え続けた。背中にはびっしょりと汗、肩を上下させながら呼吸を少しずつ整える。アレは扉は開ける術がないのか、しばらく待っても何も起こらなかった。
「に、逃げ切れたんでしょおか。でも、これからどうしまょう」
部屋は仄暗い。応接間として使われていたのか、火のない暖炉に天板に埃が積もったローテーブルーー それを挟むように布ばりの三人がけの長椅子が二対。窓にはしっかりとカーテンが引かれてるが、屋敷からの脱出口として使えそうな大きさのようだ。
ヒューベルトはアレに消されたのだろうか。そんなわけがない、彼ならきっと遠慮なく破壊しただろう。しかしそうであるなら彼はどこへ?ベルナデッタが現状を整理しているところだった。
そうしていると、扉のノブがぐるっと回る音がした。
「ひゅ、ヒューベルトさん?! ご、ご無事で……って、だ、誰っ?!」
喜び勇んで駆け寄ろうとして、踏みとどまった。彼とは正反対といってもいいような男だったからだ。
「誰と尋ねられて名乗る間抜けはいないだろう、なぁ、お嬢ちゃん」
卑下た笑みを浮かべた髭面の中年男が、後ろ手で扉を閉めながらそう返した。ベルナデッタはわずかに身を沈めて、短剣を握りしめる。そのとき、相手が扉の鍵をかけたような音がした。
「おおおっと、あまり扱いに慣れていないようで?」
「ち、ち、近寄らないでくださいっ」
相手は恐れる様子もなく、ゆっくりとベルナデッタへと近づいてきた。鞘を抜こうにも手が震えてうまく動かせない。ヒューベルトの忠告を聞いておくべきだったのだ。自分が満足に扱えない武器など持っていても無意味なのだ。ベルナデッタは必死にどうするかを考え始めた。
「残念だが、逃げらねぇよ。まあ、まずは価値を確かめさせてもらおうか、へへ」
「な、何する気ですか?!」
ベルナデッタは後ずさりした。引きつけるだけ引きつけて油断を誘い、横をすり抜け突破する腹積りだ。
「カマトトぶってるのかしらねぇが、男を知らねえなら残念だったな」
「え、えっちなことするつもりですかぁ?! ベ、ベルはそういう魅力はぁ……」
わざとらしく身を縮めながらあと数歩の我慢とベルナデッタはその時を待つ。ヒューベルトがいないのなら自分で何とかするしかない。足に力が入る。汗でぐしゃぐしゃだった背中はすっかり冷、緊張で喉がカラカラだった。
いわゆるこれが貞操の危機か。
父親にあてがわれた男に捧げるよりも、より最悪の結末を迎えるかもしれない。こんなことになるのなら好きな人にでも捧げておきたかった。ふと脳裏に過った黒衣の強面に、まさかそんなとベルナデッタは首を振る。
「逃げ場はないぜ?痛い目に遭う前に大人しくするんだな」
今は余計なことを考えている場合ではない。いよいよベルナデッタにその毛むくじゃらの丸太のような腕が伸びたそのときだった。
「伏せてください!」
その声をベルナデッタは聞き逃さなかった。
聞き慣れたその低音に、即応して床に伏せる。ほどなくしてジュ、という音と鼻につく肉が焦げる匂い、真っ黒に炭化した人間だったモノがベルナデッタのすぐ横にグシャリと崩れ落ちた。
「ひっ」
やり過ぎでは、という疑問がベルナデッタの頭によぎる。適度に痛めつけてからただの野盗なのか、傭兵くずれなのか、いつものヒューベルトなら尋問したはずだ。ぷすぷすと煙をあげた人だったそれは、明らかに事切れている。その瞬間を彼は理解しなかったかもしれない。
「全く。ふざけた真似を…… 」
カーペットを踏み締める重厚感のある軍靴がベルナデッタへと近づいてくる。顔をあげると、眉間に深く皺を寄せたヒューベルトは手袋を手首のあたりで整えなおしながら、不快感を露わにしたまま、ベルナデッタの前でかがみ込んだ。
「ご、ごめんなさい。待っててくださいって言われたのにベルってばあ。でもぉ、ヒューベルトさん、いつまでも出てこないし、それでぇ」
ヒューベルトのあの顔は明らかに怒っている。さらに彼の機嫌を悪化させないためにも、彼の指示を破ったことについて弁明し、彼の許しを請おう。ベルナデッタは頭を抱えて蹲りながら謝罪した。
「大丈夫ですか、ベルナデッタ殿。立てますか?」
「え、ほえ、お、怒って…… ない?」
ぎゅっと瞑った目をおそるおそる開けてみると、目の前にヒューベルトの手袋をはめた白い手が差し出されていた。
「さあ、お手をどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ベルナデッタはしばらく迷ってから差し伸べられた手を取り、身体を起こした。それからゆっくりと息を吐く。アレのこととか、ヒューベルトはどこにいたのか、尋ねたいことはたくさんあるが、頭の整理が必要だ。
「色々あったんですよう。どこ行ってたんですか、ヒューベルトさん。本当に危なかっ、た…… って、わわ」
彼に笑顔を見せたところで緊張から一気に解き放たれた。心地よい安堵感と同時、ベルナデッタから力が抜けていく。ふらつき立っていられずによろめいたところに、ヒューベルトの腕がすかさず伸びてきた。
「どうやら大丈夫ではないようで?」
「そ、そ、そうです……ね、はは、は。すみません」
あのヒューベルトに抱きとめられている。
彼の腕がベルナデッタを支えるように腹部に添えられていて、わずかに屈んだ彼の昏い黄金色の瞳がベルナデッタのすぐそばにあった。
ベルナデッタはこんなに近いところで、彼の顔を見たことはなかった。彫刻のような明暗のはっきりした顔立ちに、その薄い唇が浅い弧を描いている。丸焦げ死体がすぐ横に転がっているにも関わらず、ベルナデッタの心は昂って、その鼓動は急速に高まっていく。彼の胸に手を添えて身体を支えているが、足に力が入らない。じっとベルナデッタを見定めるその瞳に囚われてしまっている。
「あのぅ、すみませんが…… しばらくこうしていてもいいですか。その、すぐに落ち着きますから」
ベルナデッタはぼそぼそと小さな声で尋ねた。戸惑っている様子を知られたくなくて、顔を背ける。
「どうぞご遠慮なく、しかし……」
「しかし?なんでしょおか」
「こうしたことは、私以外の方にはなさらぬように」
たびたび口にする彼の忠告はなんだろうと思いながら、ベルナデッタはわかりました、と返した。