私の大切な眠り姫

 少し散歩に行かないかと誘われて、ヒューベルトはヴァーリ領にある第二の邸宅を出た。
足取りが軽い妻の背中を眺めながら、足首ほどの草が伸びた土地を歩き進む。僅かな傾斜に気が付いたときには、あとはどんどん登っていくだけ。草原はいつしか林に変わっていた。

 ひらひらとワンピースの裾を揺らしながらも、坂をもろともしない妻の体力には驚かされる。
反対に此方の方は書類仕事が増えたせいか、すっかり体力が落ちたらしく、息がすっかり上がっている。背の高い木々の間の小道を抜けた先で、妻の足が止まり、ヒューベルトはその隣に並び立った。視界の先は草花が生い茂った草原が広がるものの、すぐに行き止まりで、その下にはヴァーリ領が誇る森林地帯が広がっている。
彼女についていった結果、小高い丘の上に出たようだ。息を整えるように、ヒューベルトは短く息を吐いた。

「たまにはこういうのもいいですよ。帝都じゃあ味わえないですから」

 とてとてと子供のように駆け出して振り返り、手にしたバスケットを両手に持ちかえ、小首をかしげながら笑いかけてきた。ヒューベルトはただ笑みを返して、妻に続いた。

 スカートの裾を織り込むようにしながら座る妻の横に、ヒューベルトは腰を下ろした。早速と言わんばかりに、彼女は蔓性の植物で編み上げたバスケットからサンドイッチを取り出して、ヒューベルトに手渡してきた。

「さ、まずは食べてください。そのあとにその手に持った書類を読んでくださいよ」

 お化けでも見るような怯えた目で、距離を置いて此方の様子を窺っていた人物と同一だとは思えない。
押し付けるように差し出される其れを受け取らないという選択肢はない。
白く柔らかいパンの間に、たくさんの野菜と、焼いた獣肉が挟まれている。その割には手にとっても崩れないように見事に整形されているので、彼女の器用さにはいつも驚かされる。
 焼いた匂いが鼻が取れてしまいそうだと例え、ひどく調理を嫌がっていたはずなのに、いつの間にかそれも克服してしまったのか、獣肉を絶妙な焼き加減で提供してくれるようになった。
己への恐怖はいつしか恋慕に変わり、それがいつなのかは尋ねたことはないが、今はこうして寄り添って過ごしているのだから、過去の自分が聞いたら卒倒するぐらい驚くに違いない。

「どうですか?」

 そういえば、先ほどから一言も発していないとヒューベルトは思った。
 もともと口数が多い方ではないが、表情や様子だけで察してくれる妻に甘えて、すっかり口数が少なくなってしまっていた。いつだって彼女が作る料理はおいしいのに、気を抜けばそれを表現することを忘れてしまっている。しまったと思うときには、返事のない時分に何か言葉を要求してくるのだから、ヒューベルトは、なかなか自分も学習しないと思うのであった。

「いつも通り、貴女が作ったものは美味しいですよ。ベルナデッタ」
「えへへ、へへ。そうですよねぇ。なんせ、旦那様への愛がこもってますから」
「成程。それでは間違いなく美味しいはずです」
「本当にそう思ってるんですか!?何だか適当に合わせられた気がしますけどぉ」

 少しでも褒めてやれば、頬を緩めて恥ずかしそうに笑う妻。
コロコロと表情を変えて話す様子を見るのは心地よい。
このような穏やかで静かな時間を持つことになるだなんて未だに信じられなくなるときがある。

 妻の手料理を堪能した後は、場所の割には穏やかな風と、柔らかい日差しに包まれながら、持ってきた書類に目を通すだけだ。
隣の彼女は鼻歌を歌いながら、時折立ち上がっては周囲の草花を観察しているようで、気が付けば何か花の飾りを編み上げはじめているようだった。
考えていることが声に出るタイプの彼女は、色合いやら、形やら、試行錯誤を吐き出しながら、器用に一人遊びをしている。

 うるさいと思ったことは一度だってない。
 どんな腹がたつ報告書ですら、彼女が隣にいると一度は穏やかな気持ちで目が通せる。
しかし、何度か読むうちに腹の中より沸々と怒りがわいてきて、結局は破り捨てたくなってしまうのであるが、書斎で目を通すよりかは幾分その怒りも抑えられているような気がする。

 それから、どのぐらいたったのか分からない。
集中するとすっかり周りが見えなくなるのが自分の悪いところだ。
報告書のすべてに概ね目を通したところで、隣にいる妻がすっかり静かになっていることに気が付いた。彼女は無防備に体を仰向けに横たえ、完成させた花の飾りを潰さないように緩やかに握りしめたまま、すっかりと眠りの世界に落ちていた。僅かな寝息ですら愛おしく、情けないぐらいに頬が緩んでしまう。このような姿は、誰にも見せたくない。

「これまた、器用なもので…」

 自分に飾ろうと思ったのだろうか。
妻が手にしている飾りを拾い上げ、間近でしげしげと観察した。
植物の茎を痛めないよう絡め合わせ、いわば、草花でできた冠といったところだ。
しかしこれが似合うのは、自分ではなく、間違いなく隣の眠り姫に違いない。

ヒューベルトは、そっと草原に広がった紫色の髪のいくつかを掬い、愛でてから、彼女の丸い頭にそっと冠を飾り付けた。
そして、自分も彼女の隣に体を横たえると、彼女を包みこむように抱き寄せ、その頬に唇をい寄せるのであった。