おかえりなさい

「くくく、それは重畳です、なーんて、ちょっと似てましたかね」
 主不在の執務室に不釣り合いの菫色が一人。
 ベルナデッターは夫の真似をして一人はしゃぐ。元引きこもりに一人遊びをさせれば誰よりも上手だ。
 主人の身体に合わせて作らせた椅子は彼女には大きすぎる。臀部に遊びがある其処に両腕を置き、掌を座布団がわりにして、床面に届かない足を子供のようにばたつかせる。
 掃除に訪れたはずがとんだ寄り道だ。ここ数日顔を合わせていない夫はいつ戻るのか分からない。
 ここはヒューベルトの気配が、香りが、残されている。寂しくなるとこうして入り浸ることがたびたびあった。
 しばしの間、瞼を伏せ、魔法をかけるように心の内で夫の名を何度か呼んでみる。呼び重ねるたびに胸の痛みは増して、今すぐにでも会いたくなる。残念ながら、瞼の裏に焼き付いてるはずのヒューベルトの姿は、薄くぼやけていた。
「ヒューベルトさん、会いたいです…… ぎゅっとしたいです、ヒューベルトさん」
 願望は声になって滑り出る。ヒューベルトの前では言えないことも、一人きりならするりと飛び出す。
「はい、何でしょうか」
 幻聴だろうか。
 聞き間違えるはずがない、ヒューベルトの声だ。
「にゃああああああ!! ひゅ、ひゅ……」
 ぱちりと目を開けると、開け放たれた扉の向こうに、ヒューベルトの姿があった。顎が外れそうになるぐらい口を開けて驚きの声をあげると、ヒューベルトは笑顔で応じた。
「ヒューベルトです、ええ。貴女の夫の」
 授業中に居眠りを注意された学生のように飛び上がり、ベルナデッタは慌てて執務席の区間から離れた。
「お元気そうで何よりで」
 ヒューベルトは、涼しい顔でベルナデッタとすれ違い、外套を掛けて先程までベルナデッタが占拠していた椅子におさまった。

「それで、私の執務室で何をされていらっしゃったのですか?見たところはお掃除をされていたようですが……」
 その顔に浮かぶのは、意地の悪さが滲み出た薄い笑み。分かっていて敢えて問うていると、誰だって分かる。掃除道具はそのあたりに放り出したままで、手にしていない。
「何をって…… ヒューベルトさんはいつからこちらにいらっしゃったんですか?」
 見られている、確実に。
 確信があるから、カマをかけてきていることぐらいはベルナデッタでも分かる。
 ヒューベルトはベルナデッタの問いに、ふふ、と不敵に笑って肩を竦めた。
「貴女が一人遊びをされていたときからですよ。私を真似ていたときから……ずっと」
「うそ、うそうそ」
 さっと顔が青くなる。
 ヒューベルトは黙って、人差し指を扉の方へと指し向ける。それに釣られるようにベルナデッタも頭をゆっくりと動かした。
「部屋にいるときはきちんと扉が閉まっているか確認しておくべきですな。僅かに開いておりました。それで、楽しくしているところお邪魔になると思い、少しばかり観察させていただきました」
 嘘だ。
 ベルナデッタは心の中ですかさず突っ込んだ。ぷっくり頬を丸く膨らませ、不貞腐れる。
 不在が長い夫が恋しくてその名を呼んで彼を求めたことを覗き見されていたこともひっくるめ、全てが面白くない。
 「いじわる!いじわるいじわるいじる!!!」
 食ってかかる勢いで捲し立てて怒り散らしていると、今度は無性に悲しくなって涙が出てきた。
 冷静を欠いた身体は勝手に敵前逃亡を選んだらしい。ベルナデッタは退室しようと半身ほど翻した。
「ベルナデッタ、どうかお待ちください」
「なんですか! そうやってあたしのこといじめて面白がってればいいんです」
 ヒューベルトは長椅子に移動して腰掛けると、その隣の座面を優しくぽんぽんと何度か叩いた。
「こちらに来ていただけませんか?」
 やりすぎたと思っているらしいことは、それとなく伝わってくる。不器用な彼のことだから、扱いに困っているのだろう。
「じゃ、じゃあ…… べ、別にかまいませんけどぉ」
 素直になれないまま、ベルナデッタは隣に腰を下ろした。
「失敬」
「えっ」
 すぐさま彼の長い腕が伸びてきて、ぐっと抱き寄せられた。すっぽりと腕の中におさまって、ベルナデッタは身体を縮こませる。
 妻となった今でも、ヒューベルトに対しては、恋する乙女になってしまう。怒りの炎は急速に勢いが衰え、燻ることなく鎮火してしまった。
 求めていたヒューベルトの体温に、今度は胸が弾み始めた。
「あの、あのっ、あたし…… さっきは」
 言い過ぎたような気がした。謝らなくては、と何か言おうとしても良い言葉が浮かんでこない。慌てていると、しーっとヒューベルトが耳元で囁いた。
「静かに。申し訳ありませんが、少しだけ休ませてください。貴女に会うために休まずに職務をしたものですから」
 毛布に擦り寄るように、ヒューベルトがベルナデッタを抱きすくめる。頭に頬擦りして、穏やかな鼻息が髪を揺らした。
 疲れているのだろう。
 突然のことで体調を気遣えずにいた。
 確かにヒューベルトの顔は、いつになく疲労の色が濃く浮き出ている。ただでさえ悪い目つきが青黒いクマで縁取られ、さらに鋭くなっていた。
 おかえりなさい。
 ベルナデッタは心の中でそっとヒューベルトに投げかけた。久しぶりに顔を合わせた夫の顔を輪郭を慈しむように撫でると、ベルナデッタも瞼を閉じた。