すみれのおはなし - 2/5

 学生の真似事で戯れたのは一年もなく、当初の計画通り、エーデルガルトは戴冠し、その親政のもと、仕組まれた社会を根底から覆すため、大きな痛みを伴う戦が始まった。
 ヒューベルトは裏切り者に終焉を贈り、反エーデルガルト派のフェルディナントとベルナデッタの父親を、蟄居という扱いにした。必要以上の粛清は帝国領内の混乱を招くという事情もあったが、各人の毒親の始末は、彼ら自身に決めさせるべきだろうという、ヒューベルトの歪な配慮もその裏にあった。
 ベストラ家という生まれのもと、ヒューベルトが他人から心を許されたり、懐かれるようなことはなかったが、黒鷲学級で偽りの学生生活を共にした人間だけは、ヒューベルトを必要以上に警戒しなかった。
もとより、ヒューベルトは主君以外の人間に、心を許すつもりは毛頭ない。
唇に乗せるのは、本心の半分にも満たず、紡がれるのは死を呼ぶ魔の旋律が、はたまた、人を不愉快にさせる嫌味か。父親の粛清を、嫡子自らが実行して飄々としているというのは、なおさら、ヒューベルトの悪評を高めた。
ヒューベルトにとってみれば、それは、父親からの最初で最後の贈り物で、ヒューベルトを恐れ、遠まきに見るその視線は、心地良いとすら感じた。
 ベルナデッタは、ヒューベルトの生まれや本性の底知れぬ昏さを分かっているのか、そもそも分かっていてもなお、知らないふりを決め込んでいるのか、あの日からなんら変わらず、ヒューベルトにつきまとい続けた。
 なんとしてでも引きこもることを決行した彼女の意思は、他人の噂話や評価に靡くことも、色が変わることもなく、確かであり続けた。ヒューベルトと共にいることで、彼女自身が他の人間から避けられるのではとヒューベルトは危惧したが、それはいらぬ心配のようだった。そもそも他人とかかわりたくないベルナデッタにとっては、困ることよりも、むしろ、利点のほうが多いようで、彼女はその状況を歓迎しているようにも見えた。
 足音をたてることすら憚られるヒューベルトの執務室は、ベルナデッタが在室しているときに限り、部屋を間違えたかと思われるほど賑やかで、その時間を狙って伺いをたてに来る者もいるぐらいだった。
 ベルナデッタにとって、ヒューベルトは恐怖の対象ではなくなったのか、未だに怖がるそぶりは見せるものの、それはヒューベルト個人に対してというよりも、発生している事象や、言動に対してのみのようだった。ただし、ベルナデッタが克服したのはヒューベルトと、黒鷲遊撃隊に属する者だけであり、彼女の極度の人見知りと、他人に対する恐れからくる妄想は、未だに改善していなかった。
 帝国軍の拠点は、かつての教団本部、士官学校があった場所にある。学生時代の気楽な身分から、ヒューベルトを含め、黒鷲学級の主要な生徒は、皇帝エーデルガルトに忠心を捧げる一将だ。ベルナデッタも、当然その一人だ。そのこと時代、学生時代の有様を思えば、驚嘆に値すると言ってよいだろう。
 ベルナデッタの拠点での主な役割は繕い仕事と書類仕事だ。当初は、繕い仕事だけ依頼するつもりが、どうしてもと言ってきかず、ヒューベルトの書類仕事の一部を受け持つようになった。書類仕事は文官である彼女の母譲りであるのか、殊の外素養があった。ちらほら間違えることはあっても、書類仕事ができる人材が少ない中で、ヒューベルトの仕事をいくらか軽減するのに役立った。

「あ、ヒューベルトさん!」
 ベルナデッタの唇から滑らかに名が紡がれる。名を呼ばれて、ヒューベルトは意識が浮上した。考え事をしていたせいか、向かう場所だけ定かな状態でただ歩いていただけのようだった。不注意極まりないと己を叱咤し、ヒューベルトは正面から手を上げて存在を示す菫色の娘の姿を確認して足を止めた。
時刻は一日の終わりへと向かいはじめ、鍛練を終えた兵たちが、夕食の献立の当てあいで盛り上がっている。
「何用ですかな、ベルナデッタ殿」
「あの、報告書のことで相談にのってもらえないでしょうか? あ、でもっ、ヒューベルトさん忙しいですよね。えっと」
 ベルナデッタは頼み事を言いかけて躊躇った。じっと目を向けて、ヒューベルトの機嫌を窺っているように見える。確かに、最近は頭が痛いことが多く、沈黙している時間が増えている。そのおかげか、誰からも声をかけられず、更なる面倒事から遠ざかっていた。
「伺いましょうか」
「ありがとうございます!」
 眉間にしわを寄せた顔を見れば、今の関係性をもってしても、ベルナデッタは頼み事をしづらいのだろう。ヒューベルトは助け船を出してやることにした。軍議続きで軽い脳の疲労を覚えていたヒューベルトは、テフを飲みながらベルナデッタの話を聞くことにした。

 相談というのは、ベルナデッタの方で集計して把握している矢の在庫と、実際に倉庫におさめられている数が合わないということだった。ベルナデッタの弁によると、何度も倉庫を確認したうえで、計算が誤っていないことまでは確認したということだ。
「べ、ベル、ちゃんと確認したんです」
「承知しております。確かに計算は間違っていないようですな」
 ヒューベルトは計算の過程を辿り、彼女に誤りがないことを確認した。
「そっ、それでえ、倉庫も見たんですけど、一つや二つどころじゃなくて、何十単位で合わないんです。在庫のほうが少なくて。もしかして……」
 ベルナデッタは言葉を止めて、舌で唇を湿らせた。
 裏切り者がいて、軍の物資を横流ししているなどという物騒なことを考えたのだろうか。そのようなことは、ヒューベルトの目が黒く確かなうちは、あり得ない話だ。彼女に向ける回答は、既にヒューベルトの内にあった。
「ふむ。倉庫を増設したと聞いております。手狭になったので使わなくなった部屋を倉庫に改装したという話のようです。そちらを確認されてはいかがでしょうかな」
「ほんとですか! さすがヒューベルトさん。頑張ってお声をかけて良かったです」
 ベルナデッタは、両掌を合わせて音を立てると、晴天の青空のように微笑んだ。
 ヒューベルトは「どうも」と、手短に返し、ベルナデッタとは対照的に淡々とした様子でテフを口にした。目の前で焼菓子をちまちまと食べはじめた彼女は、ネズミの類の小動物を想起させた。一口で食せばいいものをいちいち割って食べているその様子に、ヒューベルトは愛らしさを感じた。
「あ、その飾り、身につけてくださっているんですね」
「ええ。取り外したりするのも面倒ですからな」
「そっ、そうですよね」
 更にそこから「そっかあ」と続けて、ベルナデッタは口籠った。ヒューベルトにすればただ事実を述べただけだが、彼女は何か思うところがあるようだった。
 先日、ベルナデッタから贈られた刺繍の飾り。これまでの失礼の詫びの品だという。意中の人物にでも贈るべきだと忠告したそれは、その道の専門家が製作したと評価してよいほど精緻にできている。指で弄べば、滑りのよい糸が指を擽り、鼻を寄せれば、香りが漂ってきそうであった。身に着けていれば恐怖も和らぐという彼女の弁は半信半疑だったが、ヒューベルトは悪い気はしなかった。
 不思議なことに、その刺繍の飾りは、もとよりそこで咲いていたかのように黒いキャンバスに馴染んでいる。黒衣に咲かせたその花は、軍内でひときわ話題をさらったようだが、主君と身近な人間を除き、好奇の目は送られるものの、敢えて尋ねてくる人間はいない。何が楽しくて人が寄り付かない男に、贈り物などしようと思ったのか。天変地異が起きたとしても、ヒューベルトには理解できない。
「やっぱりご迷惑です、よね。ベルからの贈物なんて」
 薄々気がついていたのかもしれないが、ベルナデッタはこのような贈り物を男性にすると、他人がどう思うのか、ようやく理解したらしい。男女の間で交わされる特別な感情が彼女の中にないということは、そういったものに疎いヒューベルトでも分かっていることだ。純朴なベルナデッタは、仲間内の誰かに揶揄われて、戸惑っているのだろう。
「迷惑でしたら身につけることはないでしょうな。そちらについてはご安心を、ベルナデッタ殿」
 円卓の向かいで項垂れられると、さすがのヒューベルトも居心地が悪く、せっかくのテフも不味くなる。深く考えずに向けた言葉をヒューベルトが言い終えるや否や、曇りきったベルナデッタの顔がぱっと晴れ、彼女に再び日差しが戻った。
「それは良かったです。じゃあ、ベル、倉庫を確認しにいきますね! ありがとうございました、ヒューベルトさん」
「ええ、あまり慌てないように。では、また……」
 思い出したかのように慌てて残りの焼菓子を口に放り込んで、ベルナデッタは立ち上がり、勢いよく頭を下げた。地にめり込んだ自尊心は、自分とかかわる他人を不幸にしたり、迷惑をかけたりするとでも思っているのだろうか。それにしても、ころころとせわしなく表情を変える娘だと、ヒューベルトは僅かに口元を緩ませた。 
 彼女が弾むように歩いて行く様子を見届けながら、ヒューベルトはふと、思った。彼女との関係性についてだ。
 
 必要以上に近づきすぎている。
 ベルナデッタがいる景色を見慣れすぎて、それが常態化してきている。ベルナデッタを信用しすぎていないか。ヒューベルトは、何故か彼女を警戒しない。派手さはないが、温かみのある笑顔は、ヒューベルトを花冠の節の微風のように、揺さぶっている。
 名を呼んだとき、何かに擽られているかのように頬を緩めるベルナデッタ。その光景が視界の中に入ってくると、まるで陽だまりの中で午睡しているかのような心地になる。そこには、いつもの宮内卿ヒューベルトの姿はない。緩み切った自身の姿を想像しただけで、ヒューベルトは吐き気を催し、胃のあたりに鈍い痛みを感じた。
 ヒューベルトはテフを飲み干して、茶請けに音も立てずに茶器を置く。その手元に目を向けたときに目に入った鮮やかな飾り。このようなものを身に着けているからだと、苛立ちを込めて、手を伸ばす。ところが、もぎ取って捨ててしまおうとすると、寸でのところで、ヒューベルトの脳裏に、ベルナデッタの顔が過った。握りしめようとしたヒューベルトの手は震え、結局、外すことができなかった。左胸に飾られた刺繍の飾りが、まるでヒューベルトの心臓に根を張っているようにも思えた。手製の贈り物ひとつで絆されたというのであれば、情けないことこの上ない。ヒューベルトは、下唇を浅く噛んだ。
 ベルナデッタは、ヒューベルトをヒューベルトであり続けることを阻害する要注意人物だ。野良猫が一方的に懐いているだけで、彼女をヒューベルトの飼い猫にしたつもりはない。彼女の世界に飲まれてはならぬと、外套を翻し、ヒューベルトは気難しそうな表情を取り繕って。歩き出した。