すみれのおはなし - 3/5

 自らを害する人物だと、ベルナデッタを警戒しながらも、ヒューベルトはベルナデッタに仕事を頼み続けた。そこには、決して主君以外の人間に影響されないという、絶対的な自信があったからだ。彼女はそんなことは知る由もなく、ヒューベルトを旧知の兄と慕う人間であるかのように接し続けた。
 ところが、ここのところ、ベルナデッタの様子がおかしい。
 声をかけると肩を跳ね上げ、悲鳴にも近い返事をしては、慌てふためいてヒューベルトから視線を逸らして、目を合わせようとしない。ベルナデッタのことだ、ヒューベルトが手を下さなければならないようなことに、手を染めているとは思えない。必要以上に懐かれて迷惑だったことを思えば、歓迎すべき状況のはずが、ヒューベルトは思いのほか困惑している自分自身がいることに気づいていた。
ベルナデッタの急変は、いつまでも解けないパズルのように、ヒューベルトの心を捕らえて、乱しはじめた。

「ベルナデッタ殿、先日依頼した件ですが……」
「ひゃ、ひゃい。え、ぅ、えっと、あの。よっ、夜にはお持ちしますから!」
 依頼した繕い仕事の進捗状況を尋ねようと思ってヒューベルトは声をかけたが、ヒューベルトが言い終える前に、ベルナデッタの方から一方的に話を打ち切ろうとする。隠し事をしている子供のようだ。声が震え、挙動不審で落ち着きがなく、動揺しきっている様子が丸わかりだった。彼女は、つくづく隠し事が下手だった。
「あの、ベル、用事がありますので」
「承知しました。では、お待ちしております」
 眉尻を下げ、おどおどとした様子で、ベルナデッタはヒューベルトから逃げようとしている。背中を丸めて、ヒューベルトが返事を言い終える前から、コソ泥のように歩き出しはじめた。
 その背を呆れた表情で見送りながら、ヒューベルトは胸の飾りに触れた。この飾りの効果は切れてしまったのだろうかと思いながら、そうであれば無用なものだというのに、それを外してしまわない理由を辿る。
 ヒューベルトは、ベルナデッタの変化を受け止め切れていない自分が存在していることを、自覚している。彼女が五年前の状況に戻ってしまったとしても、一笑に付して終わりにすれば良いだけのことだった。それが、ヒューベルトにはどうしてもできなかった。
 ヒューベルトは長く息を吐いて、橙色と藍色が混ざりあう夕暮れ時の空を見上げた。他にもやらなければならないことが多い中で、どうしてこのような物憂げな気持ちを抱えなければならないのかと、人知れず、問いかけた。

 ベルナデッタは、約束通り、繕い終えた衣服の束を抱え、ヒューベルトの執務室にやってきた。夕食の時間も終わり、見張りや見回り当番ではない兵は、各自の部屋で眠りにつきはじめるような時間だった。
「ここに置きますね」
 ベルナデッタは愛想笑いを浮かべ、不自然さをごまかそうとしているように見えた。
「ベルナデッタ殿、伺いたいことがあるのですが」
「へぇやっ、なんでしょうか」
 繕い終わった衣服を置こうとしたベルナデッタの肩が、びくりと大きく跳ね上がった。彼女は、ヒューベルトの方を振り向こうとせず、魔法をかけられたかのようにそのままの姿勢で硬直している。
「最近の貴殿の態度のことです。私は何か貴殿を不快にするようなことを致しましたか?」
 ヒューベルトは、職務質問をするかのように問いかけた。ベルナデッタに関することであれば、本人に聞いて解決するまでだ。それが、ヒューベルトの出した結論だった。その結果、再び穏やかな休息の時間がかえってくるのであれば万々歳である。
「ええっと、あの…… そ、それについてですが」
 ベルナデッタは、困り果てた様子で、何かを告げようとしては、言葉を詰まらせている。彼女も他の人間同様、黒い噂ばかりしか聞かないヒューベルトが、恐ろしくなったのだろう。ようやく理解したのかと、ヒューベルトは皮肉めいた表情で、口角を上げた。
「私のことが恐ろしくなりましたか。でしょうな、無理をして接することはないのですよ。貴殿には他の職務を担当していただきましょう」
 手向ける言葉すらないのであれば、もういいではないか。心の中の淀みを綺麗さっぱり洗い流してしまおう。ヒューベルトは、考えうる妥当な理由を代弁し、強引に会話を終わらせようとした。
「ち、違い、ます。違うんですっ、ごめんなさい。あたし……」
 ベルナデッタが、ようやくヒューベルトの方へと身体を向けた。胸のあたりで両手を祈るように組み合わせ、頭を何度か振り、何かを言いかけて、再び言葉を詰まらせる。彼女がこだわる理由が分からず、ヒューベルトの腹の内に、もどかしさと苛立ちが積もっていく。
「良いのです。ああ、処されるとお思いですか? そちらでしたらご安心を。貴殿はもう立派な帝国軍の一将です。陛下のために働いていただかなくてはなりません」
 ヒューベルトから滑り出した言葉は、ベルナデッタの困惑を受け止めることなく、棘となって向けられた。まくしたてるように言い終えてから、ヒューベルトは思い出したかのように冷静になった。必死になって否定したいものが自らの中にあったのか、ムキになって火種をもみ消そうとしている余裕がない自分自身に、ヒューベルトは恥ずかしくなった。
「あたし、ヒューベルトさんを傷つけるつもりなんてなくて」
 ベルナデッタに向けられたヒューベルトの言の葉の棘は、彼女の柔らかな心にそのままぷつり、と突き刺さったようだった。灰色の瞳はどんどんと潤んで濁り、今にも決壊しそうだ。
「傷ついてなどおりません。取るにたらないことです」
 ヒューベルトは、馬鹿にするなという風に笑い、首をゆっくりと左右に振った。ヒューベルトのすべては、主君たるエーデルガルトだった。それ以外の人間は、皆、一緒のはずだった。
「ごめんなさい、ヒューベルトさんのお顔を見ていられなくて、そのこ、怖いとかじゃなくて、ですね……」
 ベルナデッタは未だ真意を伝えるときではないかというように、慎重に言葉を選んでいるようだった。彼女の革の手袋から、さやかな悲鳴をあがった。
 ヒューベルトはここではじめて、ベルナデッタに向けられている感情が嫌悪や恐れではない可能性を目した。ベルナデッタの頬が熟れた果実のように色づき、向けられている視線はどこか熱を帯びていて、それは確かに恐怖ではなく、別の感情である可能性を示していた。ヒューベルトは、身体が凍り付いていく感覚に囚われた。指先の感覚を感じないが、それは寒さのせいではないだろう。
「貴殿がおっしゃりたいことは、先ほどからよくわかりませんが……」
 ——分かりたくなかったのかもしれない。
 ベルナデッタの想いが、一般的にいう恋や愛という類のものであるなら、育ちはじめてしまった芽を、枝葉を、蕾を、早々に全て摘んでしまわなければならないというのに、表面的には冷静を装いつつも、その内ではどのように対処すべきか全く浮かばず、ヒューベルトは焦りを感じた。
「そっ、そうですよねえ。ごめんなさい、変なこと言っちゃいまして」
 ヒューベルトが言葉を探しているうちに、ベルナデッタから話題を終了させた。彼女は、誤魔化すように視線を泳がせ、何とかこの場をやり過ごそうとしているようだ。
「全く…… この私を煙に巻こうなどと考えないことです」
 ひとまず冷静になろうと、ヒューベルトは瞼をふせ、視界からベルナデッタを消し去った。
「と、とにかく…… 今日のことは忘れてください。じゃ、おやすみなさい!」
 曖昧な態度は、ベルナデッタに希望の種を見出させたようだった。その種を育てればいいとでも思ったのだろうか。石風呂で茹だった後のような真っ赤な顔をして逃げ出したベルナデッタを、ヒューベルトは返事もできずに見送った。扉が重厚な音を立てて閉じられ、外界とヒューベルトとの隔たりを作った。

 静寂が訪れた部屋に、平穏は戻らなかった。
消し去れない動揺の残渣が、ヒューベルトの心を蝕む。独り言のようにベルナデッタの名を紡ぐと、胸のあたりに鋭いもの食い込んだように、鈍い刺激が走った。根付きはじめた彼女への感情をどのように始末するのが最善か。ヒューベルトは羽ペンを遊ばせながら、しばし瞼を閉じ、深い思考の森へと踏み込んだ。