その一件があってから、ヒューベルトは、ベルナデッタと自分の関係の再構築に腐心した。
まずは、ベルナデッタに書類仕事を依頼することを止めた。繕い仕事だけはどうしても担当してもらわなければ軍の資金面で回らず、部下を通じて依頼を出そうかと考えている。ヒューベルトは、彼女との接触を可能な限り断つことで、一番平和な方法で、育ちはじめた感情を零に、無に、還そうとした。
ところが、一筋縄ではいかなかった。
「どうしてなんですか、書類仕事はもういいって……」
書類仕事を取り上げられたベルナデッタは、執務室に押しかけ、ヒューベルトに詰め寄ってきた。仕事が減って楽になったとでも思ってくれればよかったのだが、ヒューベルトの描いた筋書通りに、彼女は動いてくれなかった。
先日までの彼女は別人だろうか。逃げ回っていた彼女は、今度は一転、ヒューベルトの領域に踏み込んできている。思い込んだら一直線の気太さを、ヒューベルトは完全に見誤った。どうしたものかと腹の内で考えながら、ヒューベルトは腕を組み、嫌悪感を示すように、わざとため息を漏らした。
「他に適任の方がいたのです。他意はございません。そのかわり、貴殿には繕い仕事に専念していただきたい……」
「嘘、です。うそうそうそ、嘘です」
ヒューベルトが話し終える前に、ベルナデッタの感情は暴発したようだった。首を振って荒々しく髪を振り乱し、感情が高ぶって今にも沸点に達しそうな声は、みるみる大きくなってきた。
よからぬ噂話がたっても面倒だと、ヒューベルトは席を立ち、開け放たれたままの扉を閉めた。そして、扉を背にし、表情を硬くしたまま、ベルナデッタへと向き直った。
「そのように声を張り上げていただかなくても聞こえておりますよ」
ベルナデッタと心の距離を取りたくて、ヒューベルトは呆れた声で言い放った。全く話を聞く様子もないヒューベルトの態度に、たちまちベルナデッタの顔は曇り、興奮で赤らんだ頬の上に雫が滑り落ち始めた。
「ヒューベルトさんのこと嫌いで避けたわけじゃないんです、分かってください!」
「ええ、承知しております。ですから、先ほど申した通り、他に適任の方がいたと言っているではありませんか」
ベルナデッタの弁明を端的にひねりつぶして、ヒューベルトは、今一度、彼女を書類仕事から遠ざけた表向きの理由を告げた。
「ち、違いますよね、絶対、絶対ちがいます。だって、ずっとベルにお願いしてくださっていたじゃないですか」
ベルナデッタの中の真実と一致しない限り、引き下がらないというのか。ヒューベルトは軽い眩暈を覚えて、前髪を掻き上げ、前頭部を掌で抑えると、顔をしかめて首を振った。
「それでは、どのようにお伝えすれば、納得していただけるのですか」
うんざりした様子が窺える強い口調で尋ねると、気圧されたのかベルナデッタの勢いは止まり、押し黙った。それからしばらく間があき、彼女の喉が上下して、何かを告げようとしているのか、柔らかそうでつぶらな唇が震えた。
「あ、あ…あたし、あたし、ヒューベルトさんのこと怖いんじゃないんです」
ベルナデッタはそこまで言って、言葉を切る。潜水をする前のように息を大きく吸ってから、全てを放出するように長く吐いて、それから、乱れた表情を整えた。
「好きなんです、ヒューベルトさんのこと」
そう言って、ベルナデッタは物憂げな表情を浮かべて笑うと、反射的にヒューベルトの頬は、引き攣った。
展開を読み違えたことは、明らかだった。ベルナデッタの話にはまだ続きがあるようで、次は何を言い出すのかと、ヒューベルトは身構えた。
「でも、それだけなんです。ベルの一方的な感情だってことは、ちゃんと分かってます。だから、ヒューベルトさんにはご迷惑はおかけしません。お仕事もこれまで以上にちゃんとやります」
ベルナデッタは、悲劇の主人公になるどころか、奇妙なぐらい晴れやかな表情で言い切った。ヒューベルトは拍子抜けして息を吐き、心の内で安堵した。
「なるほど…… ですが、そのような気持ちを抱えて、務まるのでしょうか。書類仕事とはいえ、遊びではございませんよ」
ヒューベルトは、事務的な硬い声で、ベルナデッタをたしなめた。ベルナデッタの告白など何一つ響かず、心は揺さぶられないと、氷のような冷徹さをあからさまな形で見せつけた。
それが、ヒューベルトなりの彼女への憐憫の情だった。
「あ、遊びなんかじゃ…… あたし、そんなつもりないです、違います」
ベルナデッタの声は震え、戸惑い、悲しみに満ちていた。受け止められず、否定され、ベルナデッタの心は痛めつけられたに違いない。愛を告げた相手から向けられた刃で深く傷つけられ、瞬きをするたびに、大きな瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
ベルナデッタの声は、ヒューベルトにとって雑音だった。
心を乱す余計な音で、今すぐ耳を塞ぎたい。泣きじゃくる姿は目にするだけで不快で、目を閉じて視界を遮ってしまいたい。嵐の中で避けるものもない中、激しい雨に叩きつけられ、暴風に煽られ、ひたすら耐えているかのように苦痛を感じる。
ベルナデッタから逃れるように落とした視界の中に、彼女から贈られた刺繍の飾りが、暗闇の中の灯火のように存在した。今のこの状況に至っても外せない理由を、ヒューベルトは心の内でゆっくりとなぞり、想いを馳せる。
不覚にも、ベルナデッタを愛してしまった。不釣り合いな可憐な花に、自らの傍で咲いて欲しいと願ってしまった。
「ベルナデッタ、殿」
「ヒューベルトさん?」
ヒューベルトは歩み寄りながら、ベルナデッタの名を呼んだ。彼女が応じるようにヒューベルトの名を呼んで、ヒューベルトを見上げる。
泣き腫らして真っ赤になった両の目が、ヒューベルトに向けられている。水分が残っている滲んだ灰色の瞳の中には、ヒューベルトの顔がゆがんで映っていた。彼女の惨状に、ヒューベルトは胸のあたりが詰まる思いがした。
「私は実の父親すら手にかける男ですよ。そんな男は、恋人も手にかけるかもしれません。私は多くの人間の血で汚れているのです。もはや、人とは形容しがたい、獣なのかもしれません」
その細い首に手をかけ、死なない程度に締め上げれば、ベルナデッタは心の底から嫌ってくれるのだろうか。ベルナデッタは簡単に退いてはくれない。追い詰められたヒューベルトは、物騒な感情を胸に、ベルナデッタをあからさまな言葉で脅した。少しでも気を緩めれば、ヒューベルトの手は、涙に濡れた彼女のなだらかな頬に、差し伸べてしまいそうだ。ヒューベルトは触れてはならぬと、心の内で強く言い聞かせ、奥歯を強く噛みしめた。
「ヒューベルトさんは、優しいですね。あたし、たとえヒューベルトさんがそんな人だったとしても、それでいいんです。普通に考えたら、おかしいですよね」
ベルナデッタは双眸を細めて笑い、ヒューベルトの罠にはかからなかった。
「私に心を向けるなど…… 大きな勘違いされているのではないでしょうか」
ヒューベルトは、ベルナデッタを見ていられずに、拳を握って、目を背けた。
「お慕いしている気持ちに、嘘はありません」
ベルナデッタは頑なに認めようとしなかった。笑顔を打ち消し、柔らかそうな唇をきゅっと引き結んで、首を左右に振る。そういえば、名を呼びたいと言われたあのときも、彼女は頑なだったとヒューベルトは苦笑した。
「道を誤る前に、引き返すのも一つですよ、ベルナデッタ殿。それが、貴殿のためというものです」
ヒューベルトは、なかったことにしたかった。それがベルナデッタにとって一番良いことだと思いこんでいた。まだ兄と慕われた方が気楽だった。
「とにかく、絶対に、勘違いなんかじゃないんです。大丈夫です、あたし、こう見えてもたくましいですから」
ゆっくりと話すベルナデッタは、確信をもって告げているように見えた。
「全く」という言葉が、ヒューベルトから零れ落ちた。ヒューベルトの態度が和らいだのを感じたのか、鼻の先まで真っ赤にさせて照れ笑うベルナデッタの、飾り気のない野に咲く花のような愛らしさが、ヒューベルトを光の世界へと誘った。うっかりそのまま足を踏み入れていきそうな自身を察し、ヒューベルトは唇を閉ざして表情を硬くした。手のかかる劣等生は、今やヒューベルトを無意識のうちに脅かしている。
「私の心が主君たるエーデルガルト様のみに向けられていると知っていても、ですかな。耐えられますまい、そのような痛みを敢えて感じる必要などないのです。貴女は私を克服された。それは素晴らしいことです。であれば、他の方も克服できるでしょう。私にこだわる必要などないのです」
申し訳ない気持ちを抱えながら、ヒューベルトは更にベルナデッタを突き放しにかかった。これ以上強い言葉で、彼女を傷付けるのは、ヒューベルトが耐えられそうにない。息をするように嘘を吐くのは、ヒューベルトの得意分野だ。嘘も方便。平和な形でベルナデッタの愛の花を摘み取るつもりで、彼女に失恋を伝え、綺麗に片付けようとした。
「あたしなんかが、ヒューベルトさんの隣に並び立てるはずがないってことも、ぜんぶ、ぜんぶ…… 分かってます。あたしなんかじゃ、エーデルガルトさんには勝てません。はじめからから無理だって、分かってます」
そう言って、ベルナデッタは言葉を一度切った。こみ上げてくる感情を押さえ込むように、喉を震わせ、苦しげに息を吐いた。彼女は、胸元を強く抑え、泣きそうになるのを必死に堪えているようだった。
「せめてこの戦が終わるまで、傍にいさせてくれませんか。戦が終われば、あたしはヴァーリ領に戻って、綺麗さっぱりヒューベルトさんのことは忘れます。だから、これまで通り一緒に仕事をさせてください。お願いします」
ベルナデッタはそこまで言い切って、深々と頭を下げた。
ヒューベルトは、ベルナデッタのひと時の情けを求める姿に心を打たれた。返す言葉が見つからず、ただ呆然と彼女の下げられた頭を見つめた。その心の内で、彼女の決断を、気高く美しい、と評した。
顔を上げたベルナデッタの穏やかな水面に戻った灰色の水晶に、ヒューベルトの戸惑う顔が、小さく映り込んでいる。彼女の美しい強さに、ヒューベルトは自身の卑しさと直面した。
「承知しました。それでは、これまで通り、仕事をお願いします。ですが、それだけです、それでもよろしければ」
ヒューベルトは、冷静を装う自分自身を、心底嫌いになりそうだった。胸が熱く、締め付けられ、ひどく痛む。
ベルナデッタに向けるさまざまな感情を押し込んで、ヒューベルトは彼女の申し出を承諾した。押して駄目であれば引けば良いという言葉があるように、仕事上の形式的な付き合いを続けていれば、そのうち彼女も諦めるだろうと思った。今日のようにいたずらに彼女を傷つけて、その愛らしい顔が悲しみに崩れる様を目にするのは、二度と御免こうむりたかった。
ベルナデッタには、エーデルガルトとは異なる種類の魅力がある。彼女の意思の強さは見目から発せられるものではないが、エーデルガルトに負けず劣らず強く逞しく、こうして想い人にそっけなくあしらわれて踏み潰されても萎れない、野草のような気高さがあった。
愛してしまったと素直に告げて、ベルナデッタを抱き締めてやれれば良かったが、ヒューベルトにはそれが決断できなかった。ベストラ家という出自が、他人と実親の血で穢れた手が、他人を傷つけることしか吐き出せない唇が、ヒューベルトを構成するその全てが、ベルナデッタにふさわしくないものだと、ヒューベルトは思い込んだ。
ベルナデッタは、年頃の娘だ。美しく成長した彼女を放っておくような男はいないだろう。人の道に外れた過酷な獣道を敢えて歩く必要などない。まっとうな人間と結ばれて、彼女に似合う陽光の中の花畑を歩くべきなのだ。穢れきった手では、美しい花に触れることは憚られる。
ベルナデッタへの想いも、手をかけずに放っておけば、過去の事実となる。若い時分の苦い思い出と化すのを、ヒューベルトはひたすらに堪えるつもりだった。
―——好きなんです、ヒューベルトさんのこと
あのときのベルナデッタの声が、ヒューベルトの中で繰り返され、ヒューベルトは震える唇を噛んだ。彼女のことで、頭がいっぱいだった。
愛を知った。知るべきでなかったのに、知ってしまった。触れてはならぬ宝石を、ヒューベルトは欲してしまった。
様々な思いを胸に、ヒューベルトは、ベルナデッタへの想いを、心の奥深くに仕舞い込んだ。
未だ希望の種が未だベルナデッタの小さな掌に託されていたままでも、植えたところで芽は出ない。潤いの足りない大地で種は萎むか、涙で湿りきった大地で種が腐るか、どちらかの末路を辿るはずだった。