すみれのおはなし - 5/5

 ヒューベルトとベルナデッタは、共に、統一戦争を生き抜いた。
 エーデルガルトは、ベレトをと婚約し、彼を伴って一足はやく帝都アンヴァルへと凱旋した。そして、拠点整理のためにガルグ=マクに滞在しているヒューベルトは、早々に拠点から引き上げるため、眠る間も惜しんで残務処理に取り組んでいた。そしてそこには、ベルナデッタの姿もあった。

 背中に何かがかけられた感触で、ヒューベルトは目が覚めた。書類仕事をしたまま、眠りに落ちてしまったようだ。利き手には、しかと羽ペンが握られたままだ。項垂れていたためか、首の筋が張って傷む。頭痛を予兆する重い頭を振って、硬くなってしまった体を僅かに捩る。
「起こしてしまいましたか、すいません」
 体を冷やさないようにと、ベルナデッタが毛布をかけてくれたようだった。ベルナデッタの温かみのある眼差しに、ヒューベルトの目尻も自然と緩む。
「いいえ、ご心配をおかけして申し訳ありません」
 ヒューベルトは眉間を揉んで、目の筋肉をほぐすと、けだるげな声でベルナデッタに謝罪した。
「あまり無理しないでくださいよ。お気持ちはわかるんですけどね。エーデルガルトさんには先生がついているんですから、大丈夫ですよ」
 ベルナデッタは仕方がないですね、と呆れた様子で眉尻を下げ、苦笑している。
「もうそろそろですね」
 ベルナデッタは書類の山に目を向け、双眸を細めた。蝋燭の炎に照らされた彼女の横顔は寂しげで、ヒューベルトは、返事もろくにしないままぼんやりと見惚れていた。
「そう、ですな」
 ベルナデッタの呟きからしばらく間を置いて、ヒューベルトは噛み締めるように答えた。短い言葉のうちで、さまざまな想いが去来した。
 テフを淹れてくると席を外したベルナデッタの遠ざかる背中に、ヒューベルトは届くはずもないのに、その手を伸ばしたい衝動に駆られた。彼女は灯りの少ない通路の闇に溶け、その鮮やかな菫色の髪でさえも、あっという間に見えなくなった。
 ベルナデッタは、あの一件から、何事もなかったかのように、ヒューベルトを手伝い続けた。その間、彼女はヒューベルトへの想いを口にすることも、示すこともなく、ヒューベルトとの約束を堅持した。
 ベルナデッタは、書類仕事を手伝うだけではなく、書類仕事をしたまま眠りについてしまったヒューベルトを慮って毛布をかけ、滞りがちな食事を気にして軽食を準備し、合間をみては声をかけテフを淹れて小休憩を作り、ヒューベルトの闇に燈を灯し続けた。決して言葉にすることはなかったが、彼女の存在は、孤独なヒューベルトの心の支えになった。
 ヒューベルトはベルナデッタが淹れてくれたテフを片手に一息ついた。意識がようやくはっきりとしたところで、やけに静かだと思ってベルナデッタへと視線を向けると、今度は彼女が長机に突っ伏したまま、眠りに落ちていた。

 手を伸ばせば簡単に届くところに、ベルナデッタがいる。
 許されるのであれば、野に咲くベルナデッタという菫の花を、根こそぎ掘り起こして、自らの手元に永遠に飾っておきたい。毛布をかけながら、無防備な彼女の華奢なその背に、ヒューベルトは熱の籠った視線を注いだ。美しい花に誘われた蜜蜂のように、節くれだった指の先が、彼女のなだらかな頬の稜線に伸びたが、触れるか触れないかのところで、ぴたりと動きを止めた。
 数節前にベルナデッタの想いを受け止めもせず、非情に突き放し、嵐の中に晒しておいて、今更、都合の良い話というものだった。質量のある熱い感情をベルデッタが知ったところで、彼女はどう思うだろうか。どのような角度から考察しても、喜ぶはずがなく、気味が悪いと思われるのが関の山だ。
捨て去ったはずの感情は、戦が終わると同時に、ヒューベルトの内で再び芽吹いた。皮肉なものだと、ヒューベルトは自分自身に辟易する。今さらどうしろというのだと、気が付けばため息ばかりついている。
 愛を告げても、時すでに遅し。
 ヒューベルトは心の内で言葉をなぞって、毛布越しにベルナデッタの背に触れ、彼女の鼓動に耽り、瞼を閉じた。

 ヒューベルトの書類の山も次第に低くなり、広げられたままの書類の数も減った。あと数日のつもりが、あっという間にこの拠点から引き上げる日が翌日となっていた。
 息つく間もなく、ヒューベルトもベルナデッタも新たな役目が待っている。ベルナデッタは、正式にヴァーリ伯を拝命し、自領の経営が待っていて、ヒューベルトには宮内卿として、エーデルガルトの懐刀として、新生アドラステア帝国の影の守護者となる。
 視界からベルナデッタがいなくなってしまえば、ヒューベルトの心に張った根も腐れるであろうか。行き場のない感情を胸に、ヒューベルトはひたすら熱心に作業をするベルナデッタの背に、物憂げな視線を投げかけた。
「貴殿も疲れたでしょう。出立の準備をされてはいかがですかな。こちらはもうほとんどなすべきことが終わっております」
 帝国に送る書類を木箱に詰めているベルナデッタの背に向けて、ヒューベルトは声をかけると、ベルナデッタは手を止めた。腰を両手で叩いてから両手を空に突き上げて背筋を伸ばし小さな声で唸ると、ヒューベルトへと振り返った。
「ありがとうございます。実はもうほとんど荷物はまとまっているんです。それならせっかくですし、休憩しませんか。ベル、テフとお茶をいれてきますね」
 ベルナデッタはそう言って、慌ただしく部屋を後にした。

「覚えていますか。えっと、ベルが学生のとき、ヒューベルトさんのお名前が好きだって言ったこと」
 ベルナデッタは白く立ち昇った湯気に鼻を寄せ、瞼を閉じたまま尋ねてきた。ヒューベルトには、彼女が過去に想いを馳せているように見えた。
「そのようなことがあったかもしれませんな」
 ヒューベルトは、思い出話を好まない。ベルナデッタが何を言いたいのか見えないが、話の先を聞いてみたくなった。ヒューベルトは曖昧な返事を返しながらも、目で話の続きを促した。
「ヒューベルトさん、その時、ご自分の名前を忌々しいと言ったんです。今でもお嫌いなんでしょうけど、ベルもこの名前、そんなに好きじゃなかったんです」
 ようやくベルナデッタの瞼が上がる。僅かに頭を傾けて、彼女は頬を緩めた。ヒューベルトの目には彼女が自嘲しているように映ったが、遠い捨て去った過去のことをただ振り返っているだけのようにも見えた。
「ふふ。だって、ベルにあんなひどいことするお父様が名付けたんですよ。好きになるわけないじゃないですか。名前を呼ばれれば叱られる、罵られる。だから、嫌いだったんです、名前で呼ばれるの」
 ヒューベルトが呼びかけると、ある年齢から成長が止まったかのような身体をこれでもかと縮こませ、悲鳴なのか返事か判別がおおよそつかない反応をしていた学生時代のベルナデッタのことが、ヒューベルトの脳裏によみがえる。とても目の前の女性と同一人物だと思えず、重ならない。五年の歳月を経て突如現れたベレトですら、彼女がベルナデッタだとすぐに分からなかったぐらいだ。
「その様子ですと、今は克服された、と?」
 眉を上げて、ヒューベルトはベルナデッタに尋ねた。
「多分、ですけれど。少なくとも、もうヒューベルトさんに呼ばれても、ベル、怖くないですよ」
 ベルナデッタは、わざとおどけて強がっているように見えた。ヒューベルトは決まり文句で返事をして、テフを一口含む。はじめてベルナデッタがテフを淹れたときは、正直なところ薄くて飲めたものではなかったが、何度も淹れてすっかり慣れたのか、言うべきことは何もない。ベストラ家の執事が淹れたものと変わらぬ深い旨みが口内に広がると、ほろ苦い味が喉を過ぎ、胸部がじんわりと熱を帯びる。
「それで、ヒューベルトさんのお話に戻るんですけどね。ヒューベルトさんがご自分の名前を忌々しいって例えたことで、ベル、そのとき思ったんです。ヒューベルトさんも人間なんだなって」
「何となくけなされている感が否めませんが」
「ベルにとって、あのときのヒューベルトさんはとーっても怖い人だったんです。背も高いし、笑ってくれないし。あ、笑ってくれていたのかもしれませんけど、笑っていませんでした。あれ、よく分からないですね」
 言っているうちに混乱するベルナデッタと目があい、示し合わせたかのように、ふっと息を吐くように笑い合う。
「私は学生の役を演じていただけですので、他の方とは最低限の関係を築けば良いと考えていました。貴殿に関してはそうですな。正直に申し上げますと、面倒だと思いました」
 ベルナデッタはひどいと零して頬を膨らませたが、すぐさま肯定し、恥ずかしそうに身を捩って頬を緩めた。
「確かに大騒ぎしていましたよね。だって、ベルは学校に行きたかったわけじゃなかったんです。最低限の関係どころか、関係を築きたくなかったんですって、あれ、何だか似てますね、あたしたち」
「形は違えど。しかし、認めざるを得ませんな」
 ヒューベルトは、ゆっくりとした動きで頷いた。
「話を戻すとですね。あれ、ヒューベルトさんももしかしたらベルみたいにご両親と何かしらあるのかなと思ったんです。あ、別にその話が聞きたいんじゃないんです」
 ヒューベルトの顔色が曇ったことを察したベルナデッタが、慌てて話の本質がそこではないと否定した。
「ヒューベルトさんも色々あるんだなって思って。だけど、ベル、ヒューベルトってお名前の響き、好きなんです。あれは口から出まかせじゃなくて本当のことです」
「なるほど。それで何かにつけて私に付きまとうようになったのですかな」
 ヒューベルトはベルナデッタを揶揄って、にやりと笑った。聊か意地の悪い問いかけだと思いながら、描いた通りに頬を赤らめた彼女を視界におさめ、身体を寛がせる。
「つ、付きまとうなんてとんでもない。でも、ベル、克服してみようって思ったんです。ヒューベルトさんを克服できれば、他に怖いものはないって」
「先ほどから何かと私のことをけなしていませんか」
 ヒューベルトがすかさず指摘すると、ベルナデッタは肩を揺らして不敵に笑った。
「でも、ヒューベルトさんと一緒にいて、楽しかったです。ヒューベルトさんはつきまとわれて迷惑だったかもしれませんけど、色々と学ぶこともありましたし、実際、書類仕事はずいぶんと慣れましたから、領の経営にも少しは役に立つと思ってます」
 しんみりとした様子で、ベルナデッタは茶器を茶請けに音をたてぬように置いた。両手を膝の上に乗せて、今度は柔らかく微笑む。細められた双眸は穏やかで、彼女が静かな気持ちであることを、ヒューベルトは察した。
「そうこうしているうちに、好きになっちゃったんです。気づいたのは、ちょっとしたことなんですよ。ヒューベルトさんに名前を呼ばれるの、嬉しいって、それだけなんですけどね」
 名前など、他者との区別のためのものだと、ヒューベルトは思っている。何か意味があるとするなら、親が勝手に込めた無責任な鎖でしかない。それでも、ベルナデッタのことを否定したいとは思わなかった。奇しくも、ヒューベルト自身が、彼女に呼ばれることを好ましいと感じていることを否定できないからだった。そして、もうすぐその彼女から名を呼ばれることがなくなると思えば、身体の力が一気に抜けていくような強い喪失感を、ヒューベルトは覚えた。
「なるほど。それで貴殿が名前で呼ばれることを克服され、その一助となったのであれば、勿体ないことです」
 ヒューベルトはベルナデッタが自身に向けていた好意がどうなってしまったのか、気になった。しかし、情けないことに、そのことを尋ねることができなかった。もっともらしい返事をして、さも平然としているように取り繕う自分自身を、ヒューベルトは意気地なしだと心の内でなじる。
「それも、もう今日で終わりですね。なんだかあっという間でした」
「ええ」
 会話の終了を告げるかのように、ヒューベルトとベルナデッタのテフとお茶も空になっていた。向かい合ってしばし見つめ合い、そろそろ部屋に戻らなければとベルナデッタが席を立った。
「ヒューベルトさん、あの……」
 ベルナデッタを見送ろうと立ち上がり、執務室の扉のところまでやってきたとき、ベルナデッタがはにかみながら、ヒューベルトへと振り返った。そして自身の衣嚢から何かを取り出して両掌に乗せ、そっと差し出した。
「今度はお詫びの品じゃなくて、お別れの品、になるんでしょうね。ベルのわがままに付き合ってくださってありがとうございました。これ、いらないかもしれませんが、ヒューベルトさんに作りました。えっと、それで、あ、えっと……あれ、おかしいですね」
 掌に乗せられた花束を模した刺繍の上に、涙が落ち、浸み込んでいく。淡い色は濡れ、深く濃い色へと変容していき、それはまるでベルナデッタの髪の色を思い起こさせた。言葉に詰まったベルナデッタは、ちょっと待ってくださいと言って、ヒューベルトに背を向けてしまった。
「ダメですね。ちゃんと笑ってかっこよくお渡ししたかったんですけど。あーあ、さっきまではうまくいっていたのに。ほんとダメですね」
 震える声で、肩を揺らしているベルナデッタに、ヒューベルトの手は自然と伸びていた。
「全く……」
 ヒューベルトはベルナデッタに向けるべき言葉が見当たらなかった。最後の最後まで、ベルナデッタは希望の種を捨てず、一人でただ見守り、世話をしたのだろう。たとえそこから何も生じなくても良いと思い、ひたすらに反応のないものに心を砕いたことは明白であった。向けられた深い愛情に、ヒューベルトはいたたまれなくなった。そして、ここまできても、決断できない自分自身を心の底から恥じた。
 嘘をつき続けるのは、うんざりだ。
 ヒューベルトは瞼を閉じて深く息を吐いた。そして、奥歯を噛みしめ、自身をがんじがらめに縛り付ける鎖を断ち切った。これまで縛り付けていたものが立ち消え、自由になったヒューベルトは、思うがまま、愛しさを込めて、ベルナデッタを包み込んだ。壊れ物を扱うように、強くなりすぎないように気を配って腕を回す。人を殺めることに長けた腕だ。力の加減を強く意識した。
 はじめて触れたベルナデッタの身体は、想像以上に柔らかく、陽だまりのかおりがした。どんなに踏み潰しても死に絶えず、傍で咲き続けた健気な菫の花に、ヒューベルトの胸は強く締め付けられた。
「許されるのであれば、貴女という花を傍に置いていつまでも愛でていたい。ベルナデッタ、私の伴侶になっていただけないでしょうか」
 ヒューベルトはベルナデッタを抱きすくめたまま、彼女の耳元で熱く囁いた。
「はっ、は、は…… 伴侶、あたしが、ヒューベルトさんの? うそ、だって、あたしなんて」
 ヒューベルトの中で、ベルナデッタとの関係は十分に熟しており、彼女という人物を確かめる時間など不要だった。ベルナデッタとであれば、夫婦となってから、男女としての関係を育んでいける。何より、その声で、その笑顔で、自身の名を呼ばれなくなることも、菫色の髪を視界におさめられなくなることも、何もかもが狂おしいくらいの喪失で、誰かに摘み取られる前に、ヒューベルトの手で摘み取って自らのものにしてしまいたかった。
 腕の中のベルナデッタはいたく動揺し、手が震えている。好意を告げられると同時に伴侶になれと請われれば、誰でも驚いて当然だ。不規則な息を吐いて、灰色の瞳をこれでもかと大きく見開いている。
「まさか断られると? 私のことを愛してくださっているのではないのでしょうか」
返事もなくただただ驚いているベルナデッタに、ヒューベルトは追い討ちをかけるように耳元に唇を寄せ、そよかぜが蕾を揺らし、開花を誘うように囁いた。
「だって、だって、全然そんなそぶりなかったじゃないですか」
「いいえ、実はずっと示してはおりました。分かりやすい場所で常に貴殿の視界の中に入っておりました。分かりませんか?」
 全てを白状するときが来た。ヒューベルトはベルナデッタを向き直らせると、双眸を細めてベルナデッタに問いかける。そして、彼女の掌から菫の花の刺繍を受け取り、胸元に飾り付け、これでわかるだろうと告げるように、小首を傾げて笑ってみせた。
「あ、あ、あ……。えっと。もしかして」
 ベルナデッタはぽっかりと口をあけ、唇をわなわなと震わせている。探し物を見つけたかのように差し伸べられた小さな手が、ヒューベルトの胸元にそっと這わされた。
「でも、でもッ、外すのが面倒なだけだったんじゃ……」
ベルナデッタの手が折り重ねられた糸の一本一本を慈しむように撫でる。花に誘われた蝶を捕らえるように、ヒューベルトはそっと彼女の手を包み込んだ。
「当初はそうでした。ですが、貴殿を突き離しても、冷たくあしらっても、私はこの飾りを外すことはできませんでした。それは何よりも、貴殿への想いを示す証拠なのです」
ヒューベルトはそのままベルナデッタの手を取って、自らの唇へと寄せ、花弁のように繊細で瑞々しい肌に、唇をそっと押し当てる。
「う、う、う。うううッ。ヒューベルトさん、ヒューベルトさん!」
 ついにベルナデッタは大粒の涙を零しはじめた。唇を噛み、肩を揺らし、堪えきれなくなったのか、ヒューベルトに飛びついて、ぐっと身体を押し当てた。ヒューベルトはよろめきながらも、彼女を抱きとめ、その肩口に顔を埋めていきながら「申し訳ありませんでした」と、これまでの非礼を謝罪した。
「ベルナデッタ。貴殿を傷つけた私を許してください」
「いいんです。これから沢山愛してくだされば、それで十分です。あたし、幸せです。大好きです、ヒューベルトさん」
 ヒューベルトとベルナデッタは、蔓が絡み合うように抱き合った。そして、涙で濡れたベルナデッタの頬を、手の甲でなぞって涙を拭ってやると、応じるように目蓋を閉じた彼女の唇に、ヒューベルトは自身の唇を優しく触れさせた。

 冷たい風にさらされても、涙の雨で頭を垂らしても、踏み潰されても、視界に入れられなくとも、懸命にただひたすらにヒューベルトの傍で咲き続けた菫の花は、いつまでも大切に愛され、暖かい陽だまりの中で、枯れることなく終わりの日まで咲き続けた。