その背を追いかけて

 ヒューベルトに特別な感情を抱いている。気がついたときには、その背中を追うようになっていた。彼の傍にはいつもエーデルガルトが居て、二人がただ並んでいるだけでも目を奪われた。堂々とした高貴な気高さを感じされる姿は自分にはないもので、ヒューベルトは遥かに遠い存在だった。
 一日の中でヒューベルトと会話をかわす時間は僅かだ。言伝や報告の類で、雑談や個人的な会話ではない。たったそれだけでも、大切な時間。その時ぐらいしか顔を向け合うこともなく、たとえ彼が険しい表情だったとしても、それでもよかった。
 少し前までは、帝国将として未熟である自分を指導育成する目的だろうか、接触する機会もあったのだが、最近はかなり減っている。
 ヒューベルトにしてみれば仕事が減って肩の荷がひとつ降りたのだろうし、彼を恐怖の対象として平伏していたときの自分なら、それは神様に感謝したいぐらい喜ばしいことだったのに。
 ちっとも嬉しくない。ベルナデッタは八つ当たりするように、足元の石ころを蹴り飛ばす。
「はぁ」
 ため息が板についてきた。これが恋煩いなのだろうか。もっとキュンとしてハラハラしたりドキドキしたりするものではないのか。恋する人を目にする機会に極端に恵まれないせいなのか、叶わぬ恋と初めから諦めているのか、楽しいと思えない。綺麗になるどころか、やつれていきそうなぐらい食欲が落ちている。
 ガルデ=マク修道院だった拠点の中庭の木製のベンチに腰かけ、地に向けてベルナデッタは息を吐いた。
 厄介な人を好きなってしまった。刺繍仕事も進まない。アイデアが破滅的に思い付かない。
 軍議の場で、ヒューベルトの横顔を見すぎて、自分に質問が来ているのに全く気がつかなかった。事情を知っているドロテアや先生からは失笑を買うだけで済んだが、当のヒューベルトからは集中力が足りないと、叱りつけられてしまった。
 好かれる以前に嫌われていく一方。頭を抱えてくなって、ううう、と唸る。
「ベルナデッタ。そんなにため息ばかりついていたら、不幸になってしまうよ」
「えええ! ほ、ほんとですかぁ!」
 ベルナデッタは立ち上がりそうな勢いで声をあげた。
「不幸は引き寄せられるとか言うからね」
 昼寝場所でも探しにきたのだろうか、通りがかったリンハルトにため息を聴かれていたようだ。彼はそれだけを言いたかったのか「そんなあ」と呟くベルナデッタの前を素通りして、近くの木製ベンチに寝そべった。
「あたし、ため息はやめます!」
「いや、そういう問題じゃないと思うんだけどなぁ、僕は…ふぁあ、ああ眠い。昨日も遅かったから疲れたよ」
 リンハルトは謎かけが好きなのか、話の要点が見えにくい。もやもやとした気持ちのままでは、終われない。なんとしてでもリンハルトから答えをえなければ。ベルナデッタは立ち上がると寝そべる彼の前で仁王立ちして、顔の上に乗せられた本を取り上げた。
「わっ、何するのかな、君は」
「ベルに話を振っておいて、答えを言わずに、逃げるつもりですか」
「逃げるって…… うーん、面倒くさいな」
「そう言わずにお願いします!」
 前のめになって頼まれれば、さすがにそのまま眠れなかったらしい。リンハルトは上半身を起こして、大あくびをした。
「そんな難しい話じゃないんだけどね。物事の捉え方っていうか…… 悪いことばかり考えて行動して、果たしていい結果になると思うかい?」
「お、思いません…」
 ベルナデッタは瞠目した。
「だろう? そういうこと、じゃ、もういいね。僕を寝かせてくれよ」
 ぼんやりとしたままのベルナデッタから本を取り戻すと、リンハルトは改めて眠りに入ろうとした。
「おや、そんなところで昼寝ですかな、リンハルト殿」
 ベルナデッタはその声に過剰に反応して、綺麗に刈り込まれた植木に身を隠した。
 ヒューベルトだ。
 過去の癖から彼が現れると姿を隠してしまいたくなる。逃げる必要もないのに、身体が勝手に動いてしまう。
「やぁ、ヒューベルト。少し休憩してるのさ。肝心なときにちゃんと働くためにね」
「ククク、ものはいいようですな。さて、隠れていても無駄ですが ……ベルナデッタ殿」
 本人が現れてから姿を隠しているのだから、さすがにばれて当たり前。声をかけられてそのまま無視をするわけにはいかない。ベルナデッタは上半身だけ覗かせて、苦笑いを浮かべた。
 ヒューベルトと会話はしたい。こんなことをしたいわけではない。顔は引き攣っているだろう。うまく笑うことができない。
「ベルナデッタ殿……」
 凄まれ、ぴゃっ、と悲鳴が漏れた。
 何を言われるのか分からない。ヒューベルトの笑顔が妙に不気味で、足が地にすいつけられていて、出ていくことができない。
「ひぃいい! べ、ベルはなにもしてませんよ!!ちゃんとやることやってここに来てます」
「嫌だな、僕もやることはやってるよ」
 リンハルトが抗議の声をあげた。
「仲がよろしいんですね」
 妙に刺々しい言い方だった。
 ヒューベルトにしては、妙に笑顔だ。ベルナデッタとリンハルトを交互にみて、肩をすくめた。
「お邪魔してはいけませんから、これにて失礼します」
「じゃ、邪魔なんかじゃ!」
 言いかけた言葉を遮るように、ヒューベルトは片手を上げた。
「ご遠慮なく」
 帝国貴族流の挨拶を優美に済ませると、両手を後ろ手に組んで、何事もなかったかのように立ち去ってしまった。
 違うのに。話したいのは、ヒューベルトなのに。リンハルトと話すように話せない。
 ベルナデッタはヒューベルトの姿が見えなくなり、足音もしなくなったところで安全を確信し、ようやく姿を現した。
 リンハルトに一言言わなければ気が済まない。大股をどんと踏んで、大きく息を吸う。彼はそんな物音にはびくりともせず、満足げに船を漕いでいる。
「どっ、どーしてくれるんですかぁ!!」
 ヒューベルトからあらぬ誤解を受けてしまった。この責任を問いたくて、ベルナデッタは改めて眠りに入ったリンハルトの顔の上の本を取り上げた。
「わっ、今度はまた何だい? 僕が何をしたって言うんだよ、ヒューベルトに怒られずに済んだじゃないか。感謝してほしいぐらいだよ」
 眠りを邪魔されたリンハルトが、半眼で睨みつける。ベルナデッタも負けじと睨み返した。
「そんな問題じゃないんですよお!! 誤解されちゃったじゃないですか」
 リンハルトは当然、ベルナデッタの恋心など知らない。何を非難されているのか分からず、彼の口はぽっかりとあいている。
「えっ、ええ?! どういうことなのかな」
「ええ、じゃないんですよ! ひどい! ベルはおしまいです。リンハルトさんのせいですよう」
 ベルナデッタは一方的にまくしたてると、涙目でリンハルトの襟首を掴み、がくがくと揺すった。肉体労働が苦手なリンハルトは、弓兵であるベルナデッタには勝てないのか面倒なのか、一方的に揺さぶられている。
「戯れるのであれば、どちらかの部屋になさってはいかがですかな」
 背後からかけられた冷たく低い声に、リンハルトの襟首を掴んだまま、ベルナデッタは凍りついた。そのままぱっと、手を放し、おそるおそる振り返ると、そこには満面の笑顔のヒューベルトがいた。
「なっ、なんでぇ…… さっきあっちに行ったんじゃないんですかあ。どうして!」
「私がどこを彷徨こうが自由です」
「いやあ、助かったよ、ヒューベルト」
 襟元をなおしながら、リンハルトが平和な表情で笑った。ベルナデッタは少しも笑えなかった。身体が凍りついている。指先がとても冷たかった。
 ヒューベルトから更なる誤解を受けている。言葉では弁解のしようがない。私が好きなのはヒューベルトさんなんですとは、この場では決して言いたくない。
「ち、違います! ほんとに違うんです。ベルは、ベルは……っ」
 これ以上ここには居られない。何を話せばいいのやら分からない。
 混乱したベルナデッタは自室へと逃亡することにした。ベンチの片隅に置いたままの刺繍道具が後ろ髪を引いたが、それは深夜にでも取りに行けばいいと思った。

 部屋に入るや否や、大きなくまのぬいぐるみを抱き締めていた。子供っぽいと言われるのは覚悟の上で、こうしているととても落ち着くのだった。
「はあ。最悪ですよ。ベルが好きなのは、ヒューベルトさんなのに……」
 眦に涙が滲む。悔しくて、歯痒くて、くまの頭に顔を埋める。
「好きになったらもっとお話しできると思ったのに、今度はうまく話せなくて…… あたし、何やってるんでしょう」
 返事をしてくれることがないぬいぐるみ。それでもぽつぽつと悩みを吐き出せば、少しばかり楽になってくる。
 しばらくして、木扉をノックする音がした。顔を上げて力なく誰かと問えば、返ってきたその声はヒューベルトであった。
「ひゅ、ひゅ…… ヒューベルトさん?!」
 意外な来訪者に驚きで思わず声が裏返ってしまう。
「ええ、ヒューベルトです。手芸道具をお忘れではないですかな。私が怖いようであれば、ここに置いていきますが」
「まっ、待ってください。今、開けます。」
 前髪を撫で付けて服を整え、眦の涙を袖で拭った。ヒューベルトが帰ってしまわないように、急いで部屋の扉を開ける。
「ぅ、ひゃあああ!」
 靴の先が板目にひっかかった。扉をあけると同時、体は前につんのめる。迫るはヒューベルト。避けられなかった。
「慌てるからですよ。大丈夫ですか?」
 逃げられるかと思っていたが、ヒューベルトの片腕にしっかりと受け止められ、そのまま胸に頬を埋める形になった。
「ご、ごめんなさい」
 怒られると思い慌てて顔を起こしてヒューベルトを見上げると、不思議なことにあまり怒っていないようだ。
「気になさらず。大丈夫ですか?」
 すぐ近くでヒューベルトの声がした。男性に抱き止められるなんて、はじめてのことだった。思いの外逞しい胸に目が泳いでしまう。
「大丈夫です。お詫びにお茶でも出させてください!」
 顔も耳も熱い。ヒューベルトの顔がまともに見られず、挙動不審な動きで彼の背中を押すようにして室内に通すと、お茶の準備をすると告げて、慌てて部屋を飛び出した。

「どうぞ、その…… 先程のお詫びと、手芸道具のお礼です」
 アンナから譲ってもらった貴重なテフ豆で入れたお茶に、テフに合うと思って選んだ茶菓子。テフは彼の好物だとフェルディナントから聞いて、こっそり淹れ方を研究していたのだ。
 「頂きます」と告げて茶器に口をつけるヒューベルトを、ハラハラとした気持ちで見ていた。思わず、ぎゅっと両の拳を握る。
 ヒューベルトのために、細心の注意を払って入れたとはいえ、テフを振る舞うのははじめてだったし、並々ならぬこだわりがあるとフェルディナントから聞いていたからだった。
「どっ、どうでしょうか」
「ふむ。これはなかなか…… 貴殿はテフを淹れたことがあるのですかな」
「あの…ヒューベルトさんが好きだって聞いて、ちょっとだけ勉強しました」
 立ちのぼる香りを楽しみながら満足げに話すヒューベルトに対して、素直に事情を話をしたところで、大胆すぎる自分の発言に気がついた。内心で頭を抱えながら、彼が好意に気が付かないことを願った。
「なるほど。この茶菓子もテフの苦さによく合いますな」
「そ、それは…… 良かったです!」
 ほっと胸を撫で下ろしたのは、テフと茶菓子が褒められたことだけではない。
 ヒューベルトは先程の大胆発言を気にしていないようだった。考えに考え、悩みに悩んでセレクトして茶菓子も合わせて褒められて、ベルナデッタはつい嬉しくなって、頬を緩めて微笑んだ。
「貴殿も私を前に、そのように笑うことがあるのですね」
「えっとぉ…… すいません」
 笑顔を指摘されて気まずくなって、ベルナデッタは両手を組み合わせてもじとじと身体を揺する。
「ああ…… 全く、私としたことがいけませんな。怒っているわけではないのです。うまく言えませんが、貴殿が笑っていることを不快に思っているわけではないのですよ」
「ヒューベルトさんが悪いんじゃないんです。何をしても怒られて、お父様の機嫌を窺うようになって。謝ればお父様は許してくださるかなって。それで、謝る癖がついちゃって」
 ベルナデッタは自分の悪癖に苦笑いを浮かべて、ヒューベルトの言葉を否定するように首を振った。
 父親から受けた教育のせいで、他人の表情や発言を過度に気にするようになった。染み付いたものはなかなか消えない。相手の顔色をみて、自己判断して、すぐに謝ってしまう。
「えへへ、笑って、いいんですね」
「ええ、気兼ねなく」
 うまく笑えなかったが、固くなっていた頬は柔らかくなっている。頷いたヒューベルトの眉間の縦皺は珍しくすっきりしていた。
「ベルももうちょっと自信をもたないといけないですね。いつまでもお父様を理由にしちゃいけないんでしょうけど。あたしなんて、エーデルガルトさんが辿ってきた道に比べればちっとも楽な方なんでしょうし。あんな風に…… なれたら、ならないと」
 ヒューベルトはきっと振り返ってくれない。ベルナデッタは心の中で続けて、瞼を浅く伏せた。
 脳裏に、エーデルガルトが佇んでる姿が浮かんだ。その隣には優しげな瞳でエーデルガルトを見守るヒューベルトの姿。遠い背中、ダメな自分にはあまりにも遠い。たとえ、今、目の前にヒューベルトがいても、彼の胸に贈った花の刺繍がかざってあっても。
 服の裾を握る。手のひらは緊張で汗ばんでいた。
「エーデルガルト様は特別な御方です。あの方は振り返ることもなく、覇道の道を歩まれることでしょう」
「そうですよね……」
 エーデルガルトを非情な独裁者と罵る声があることも彼女は当然知っているだろう。それでも、決意は揺るがない。皆の前で迷いをみせたことは一度たりともない。自分にはそんなことはできないだろう。ヒューベルトの想い人はそんな高潔な麗人。天と地、伸ばしても手が空に届かないように、彼女のようにはなれない。
 分かりきった言葉。事実を辿れば辿るほど、胸はきりきりと締め付けられる。
 服をぎゅっと握って、こくん、と喉を鳴らす。口の中がカラカラに乾いている。ベルナデッタは、短く同意を示すことしかできなかった。
「ああ…… どうにもうまく言えませんな。貴殿は貴殿、エーデルガルト様はエーデルガルト様。異なる人間、同じようにはなりますまい。ベルナデッタ殿、貴殿はそれでいいのです。ここまでよく頑張ってこられた、それは違いないわけです。私のことを恐れて逃げ回っていた方にテフと茶菓子を振る舞われることになるとは…… ククク」
 ヒューベルトなりの気遣いだったのかもしれない。彼は受け皿から茶器を持ち上げて、いつもの意地の悪い笑い声で答えた。
「そ、そうですよねぇ。あたし、ヒューベルトさんに成仏してくださいとか言ったんですよね…… えへへ、ほんと、目があったりしただけで逃げちゃったり……」
 ヒューベルトとの苦々しい思い出を振り返る。目が合ったヒューベルトの視線はどこか優しく、薄く笑んでいる。話しているうちに、我慢ができずに涙がぽろぽろと零れた。
「泣かせたい訳ではないのですが……」
「ごめんなさい、なんだか嬉しくて。ヒューベルトさんに認めてもらえるなんて、あたし、すごく頑張ったんだなぁって」
 顔の前で掌を合わせて、ベルナデッタは目を細める。頑張らなくても、唇は緩やかな弧を描く。目尻に溜まった涙がいくつか頬の上を滑りおちたが、ちっとも悲しくなかった。
「貴殿の笑っている姿をこの目におさめるのは、貴重ですな。ベルナデッタ、殿?」
「もうっ、あたし、そんなに怖がってます?」
「ククク、ご想像にお任せしますよ」
 差し出されたハンカチ。つい手元がぶれて、ヒューベルトの手に触れてしまった。
「あ」
 まずいと思い手を離そうとしたそのとき、その手はヒューベルトに囚われていた。
「どうぞ、気になさらず。それとも、私に触れるのは死ぬほど恐ろしいですかな?」
 顔が熱い。熟れきった果実のように真っ赤に違いない。俯いたまま首を振って、少しだけハンカチごとヒューベルトの手を握り返す。
 節くれだったごつごつとした感触。自分の手の大きさとは違う、肉感のない掌。ヒューベルトの指が僅かに甲を撫でた気がした。心臓がばくばくして、急に止まってしまいそうだった。
「あっ、ありがとうございます」
 手と手が握り合わせた時間は僅か。名残惜しかったが、ヒューベルトの手からハンカチを受け取り、目尻を押さえる。
「泣かせたのはきっと私ですからな、当たり前のことです」
 手が握り合わさったこと、その細く長い指が甲を撫でたこと、ヒューベルトは何事もなかったかよように平然としている。
 あの時間をどう定義したらいいのか、今は考えないことにした。
「あれ、この手袋、ここが解れてますね」
 名残惜しさでヒューベルトの手に目を向けると、一部縫い目がほつれているところをみつけた。
「おや、これはいけませんな。身だしなみの乱れは心身の乱れ、私としたことが……」
「忙しいですからね、仕方ないですよ」
 気恥ずかしそうにするヒューベルトの手をとって、どこをどう繕うかと思案する。
「どこかにひっかけたのかもしれませんが……」
 ヒューベルトの視線に気がついて、ぱっと彼の手を離す。やだ、と声をあげて、ハンカチを握りしめた。簡単に踏み越えた見えない障壁。何よりベルナデッタ本人が驚いて、目をぱちぱちとさせた。
「あっ、あたし!! やだやだやだ。ごめんなさい」
 壊れたように何度も頭を下げると、ヒューベルトは両掌をむけて、首を振る。
「結構ですよ。そこまでしっかりと確認されるということは、繕っていただけると期待しても?」
 混乱と妄想の世界から飛び帰って、慌てて座り直し、力強く頷いた。
「ベルに任せてください。ちゃんと直します」
「それは助かりますな。その時は、私が貴殿に茶を振る舞いましょうか」
「じゃあ、ベル、頑張っちゃいますね!」
 ヒューベルトは満足気に頷いた。
 遠い背中。少しだけ、近くなった気がする。待っているだけでは追い付けない。もう少し近づいて、それから、この不器用な人に想いを告げたい。ベルナデッタはそう思うのだった。