ハリネズミの反撃

「あの二人って近いですよね。」
 ベルナデッタの視線の先には、エーデルガルトとヒューベルト。身体がふれあう寸前の絶妙な立ち位置で話し込んでいる。
 絵になる二人だ。
 ベルナデッタは人物画は書かない主義だが、廃墟と、この二人を一緒に描けば素敵な風景画になるだろうと思った。なのに、滑りでたのは声混じりのため息だった。
「あらぁ、ベルちゃん。もしかして、恋煩い?」
 隣にいたドロテアに声をかけられて、我にかえる。すっかり彼等に釘付けになっていた。ベルナデッタは慌てて首を左右に振る。
「ち、ちっ、違いますよお。思ったことを言っただけです!!変なこと言わないでください」
 言っているうちにも恥ずかしくなって、頬を赤らめた。
 恋なんて知らない。それも相手はあの、ヒューベルト?そんなはずはない。疑問を丸ごと打ち消すように、必死になって否定する。
「でも、前からじゃない? エーデルちゃんとヒュー君の距離感って。5年前もそうだったし。そうね、きっと彼等からしたらその前から。珍しくもなにともないことなのに、ね?」
「た、確かにそうですよねえ。珍しくないですよね」
 言われてみれば容易に浮かぶ光景。ちくりと心を刺したのは、ドロテアの指摘する所以か。
 5年前もそして現在も、あのヒューベルトは父に代わる恐怖の象徴いってもいい。なぜ二人の距離を気にし出したのか。
 視界の端に彼等を留めながら、ベルナデッタは悩ましげに息を吐いた。

「あ、あのっ、あの…ヒューベルトさん。」
「用件は手短に頼みます。」
「は、はい。」
 あれから数日後、ヒューベルトに対する言伝を預かったベルナデッタは、廊下を颯爽と歩くヒューベルトを小走りで追いかけて、その背中に声をかけた。
 足を止めたヒューベルトが振りかえる。それから「ああ」と言って、思い出したようにベルナデッタが贈った花の飾りを身につけた。
 学生時代に比べて背は伸びたが、それでもようやくヒューベルトの肩のあたりまでの上背しかない。あの鋭い鷹のような眼差しで見おろされると、足が竦む。
「それで何か?」
「え、えええっとぉ」
 もたもたしているせいで、ヒューベルトは苛立っているようだ。強い重低音に鼓膜が震え、ひぃ、と悲鳴が出た。
 こうしてヒューベルトと相対すると、先日、ドロテアに煽られたことが浮かんでくる。
 この胸の鼓動は恐怖や恐れからではないのではないか。息が苦しい。身体中がくすぐられているかのようにそわそわして、次の言葉が出てこない。
 忙しい彼はベルナデッタの言葉を待っている。組んだ腕を指がトントン叩いて、暗に急かしている。
「先生が作戦室に来てほしいと言ってます」
「それだけを言うのに、貴殿は何分かかりましたか?」
 ぎくり、と両肩を跳ね上げた。
「ひいいっ!!ご、ご、ごめんなさい」 
 それだけとあっさりと切り捨てられ、腰もお尻も引けてきた。今にも唸りだり出しそうなヒューベルトに、手を出されることなどないのに、頭を抱えて小さく縮こまってしまう。
「まぁ、いいでしょう」
「へぇ?」
 ヒューベルトの纏う気配が和らいだ。釣られて、変な声が滑り出る。
「以前に比べれば幾分改善されてほうかと思いましてな」
「ほ、ほんとですか?!」
「まあ、普通の方よりは劣りますが」
「そ、そうですよね。」
 褒められてのぼせ上がって、すぐさま崖下に突き落とされる。ヒューベルトはそんな様子を楽しんでいるのか、喉を鳴らすように笑っている。
 ベルナデッタは気がついた。
 ヒューベルトのその唇が緩やかに弧を描いていることを。恐怖と奇妙な感情が同居して、ヒューベルトの顔をきちんと見ていなかった。
 ヒューベルトの横顔はどこか憂いに満ちた穏やかな顔だった。
「それでは、失礼」
 ヒューベルトとベルナデッタの間に訪れた僅かながらの和やかな時間は打ち切られ、ヒューベルトは闇色のマントを翻し、あっという間に廊下の向こうの方へ消えていく。
 ベルナデッタは、その様子をぼぅっと、見つめていた。

 夢を見ていた。
 霞がかかった向こう側に誰かがいる。その人物がどんどん近寄ってきて、鮮明になってきた。闇色のマントを靡かせたその男は…ベルナデッタがよく知る男であった。
「ひゅ、ヒューベルトさん?」
「ベルナデッタ」
 確認するように問いかけると、名を呼ばれた。いつもと異なる熱の籠った視線にベルナデッタはどきりとした。恐怖ではなく、全く別の感情が芽生えて、胸がうるさく鳴っている。彼の手袋をはめた手が自分の頬に伸びて、手袋越しに頬を撫でられる。そしてそのまま、ヒューベルトの顔が近づいてきて、それから……

「えっ、えっ、えっ… だ、だめです!!」

 悲鳴と共に目が覚めて、飛び跳ねるように上半身を起こした。
 汗をびっしょりかいていて、寝衣が肌に張り付いている。生々しい夢に、熱があるように頬が熱い。
 とんでもない夢を見た。
 ベルナデッタはその残像が頭に残らないように、強く何度も首を振った。

 こころのところ、ベルナデッタは完全に寝不足だ。
 趣味の針仕事に熱中していたといえれば、幸せだった。あれから同じ夢を見てしまいそうで、怖くなった。ヒューベルトに迫られる夢を見たことを否定したくて、そうなると全く眠れなくなってしまったのだった。
 恋煩いで身体を壊す人がいるときいてそんなことはないと思っていたが、身をもって体験している。
 少しでも小指の先ほどでも、ヒューベルトにときめいた自分を否定したい。
 目の下には盛大に青黒いクマ。5年前ほど前ではないが、髪も乱れたままという有り様だ。
「ベルナデッタ殿」
 背後から声をかけられた。
 その声は間違いなくヒューベルトだ。
「はぃ。な、なんでしょう」
 ベルナデッタは振り向かずに答えた。
 夢で見たヒューベルトの顔が浮かんでしまいそうで、顔を見ることができない。
 自分の頬を撫でた手袋、近づく顔。熱い吐息、甘く蕩けるような眼差し。あの映像がまるでつい先ほど見てきたかのように、鮮明にこびりついている。
「身だしなみが乱れていますよ。貴殿も帝国軍の一将。自覚を持っていただかなければ…… 全く、困りましたな」
 辛辣な言葉に現実に引き戻された。
「す、すいません」
 ベルナデッタは冷静になった。だからもう大丈夫だと思い、振り返った。
 しかし、すぐに後悔することになった。
 見せられるような状態ではなかったことを忘れていた。目の前のヒューベルトは、あまりの顔面の惨状に固まっている。
「睡眠も仕事のうち。なんという…… 」
 心配されているのか、呆れられているのか。
 ヒューベルトは頭に手を添えて、首を振っている。今すぐ逃げ出したかったが、そうはいかない。
 すぐ側には同じくあきれているエーデルガルト。彼女の方は、ベルナデッタにも増して責任もあれば多忙にもかかわらずそうしたものが外見上に一切現れていない。
 より一層、恥ずかしくなった。
「えっとぉ、その、し、失礼します!!」
 これ以上その場にいられなくて、ベルナデッタは慌てて逃げ出した。
 自室に閉じこもろうしたところで、ドロテアに呼び止められた。ドロテアの顔を見た瞬間、安心したのか、涙がたくさん溢れてきた。
「あら、ベルちゃん。どうしたの? ここじゃあ不味いわね。私の部屋にいらっしゃい」
 ベルナデッタは小さくうなずいて、ドロテアの好意に甘えることにした。

「あの、ごめんなさい」
「いいのよ、放っておけるわけないじゃない」
 涙が収まってきたところで、ベルナデッタはドロテアに謝った。ドロテアはさして気にしていないという様子で、ベルナデッタに優しく微笑みかけ、暖かい紅茶を差し出した。
「何があったか聞かないんですか?」
「話したくないようなことまで聞きません。でも、聞いてほしいのなら話してね」
 湯気たつ紅茶の表面をじっと見つめ、差し出された紅茶に息を吹き掛けて冷ましてから口に含んだ。暖かいものが身体を流れていく。
 少しすうっとして、心が穏やかになってきた。深く長く息を吐いて、心の波を静めていく。
「ドロテアさんはなんでベルがヒューベルトさんのこと好きだと思ったんですか?」
 自分でもよく分かっていない未熟な気持ちを、なぜ他人であるドロテアが分かるのだろうか。自分が子供だから、わからないだけなのだろうか。
 ヒューベルトを思い浮かべながら、僅かに減った紅茶へと視線を落とした。
「そうねぇ、勘、かしら」
「勘、ですか?」
「あら、信じてないみたいだけど、当たるのよ」
 ふふふ、と妖艶に笑うドロテアは美しくて魅力的な女性だ。同性でも思わずため息が出て、心が奪われそうになる。
「そうだとしても、ベルなんか無理ですよね。相手にされないです」
 現に先ほども全く相手にされていない。心の内で辛い現実を確認する。
「たしかに難儀な人を好きになっちゃったわね、ベルちゃん」
「そ、そうなんですよね。そこで、その…… あのぅ、どうやったら諦められるんですか?」
 ベルナデッタは顔をあげて、悲壮に満ちた表情でドロテアを見た。ドロテアはベルナデッタの問いかけに目を伏せて、ゆっくりと首を左右に振った。
「あのね、そんなことできないわよ。好きなんでしょ、彼が」
「でもでも、ベルなんかじゃあ、相手にされないです。絶対にぜーったいに無理なのに、どうして。 自分でもよくわかってるのにおかしいじゃないですか」
「でも、人の気持ちって、そんなものじゃないかしら。」
 ドロテアは鏡台の前に立つと、椅子を引いて、ベルナデッタに着席するよう手招いた。おずおずとそちらへ向かい、彼女に勧められるまま腰をかける。目の前の鏡には涙で腫らしたさんざんな自分の顔があって、見ていられない。見れば見るほど気が滅入ってくる。
「さあて、たくさん、オシャレしましょう」
「ぴぇ、え? えっ」
 ドロテアの意図がわからずに、変な声が出た。その間にもドロテアは化粧道具を並べて、あれこれ呟いている。
「ベルちゃん、ヒューくんも男性です。身だしなみはいい女性の方がいいと思います」
「は、はい。そ、そうですよね」
 それは今日、ヒューベルトに指摘されたばかりのことであった。彼の呆れた表情が思い浮かぶ。
「ほら!その顔がいけない。ねえ、笑ってちょうだい。貴女は笑顔がとっても可愛いのよ」
 ドロテアが両肩に手をのせて、肩越しに鏡に写るベルナデッタに問いかける。それから、ベルナデッタの髪をといて、香油でさらに磨きをかけていく。
 髪には艶やかな光の輪。ほんのりと薔薇のかおりが漂っている。
「わあ、いい香りです」
「ふふ、素敵でしょう? ほら、その顔。とっても可愛い。ね?悪くないでしょ 」
 ベルナデッタは褒められて気分が上がってきた。
「じゃあ、ドロテア様が思いっきり、はりきってベルちゃんを素敵な淑女にしちゃうわよ」

 ベルナデッタは上機嫌で歩いていた。全てドロテアのお陰だ。
「ヒューくんとの恋が実らなくても、綺麗にしていれば、きっと素敵な人と巡り会えるから。」
 送り出される前に、ドロテアからもらった言葉。心のなかはチクリと痛んだが、前向きにな気持ちを授けてくれたドロテアに感謝している。
 とはいえ、せっかくメイクきて着飾っても行くアテもなく、少しだけ散策してみたものの、結局、自室に帰ることにした。
 見て欲しい相手は忙しいだろうし、きっと何も言ってはくれない。
 胸が痛い。ヒューベルトが好きなんだ。
 ベルナデッタは物憂げに瞼を浅く伏せる。
「あれ、ベルナデッタ。どうしたんだい?」
 そのとき、ベレトから声をかけられた。
 ふと、ベレトの感想を聞いてみたくなった。あの教師なら何か気分があがるようなことを言ってくれるかもしれない。
 期待を胸に優雅に回って、どうですか?と問いかける。それから上目遣いにベレトの反応を伺った。
「随分と大人っぽくなったね、ベルナデッタ。どうしたんだい?」
「わ、分かりますかー!!さすが先生!嬉しいです、ふふふん」
 ベルナデッタが学校生活の中で一番最初に心を許したのは、先生として着任したベレトであった。それまでは、学級の他の生徒とも馴染めず、授業に出ることも少なく、級長のエーデルガルトとその従者のヒューベルトの二人から叱責されることも多かった。ベルナデッタの今があるのは、ベレトのおかげと言っても大袈裟ではない。
「でもね、ベルじゃないんです。ドロテアさんにやってもらったんです。」
「そうか。でも、とてもよく似合ってるよ。ベルナデッタ」
 兄がいたらこんな感じだったのだろうか。
 頭を優しく撫でてくれるベレトを見上げて笑ったところで、背後から誰かがゆっくりとした足取りで近づいてくる音が聞こえた。
 恐る恐る振りかえると、ヒューベルトだ。涼しげな顔で遠慮なく近寄ってくる。
 ベルナデッタは慌てて、ベレトの後ろに隠れて、マントをしっかり掴んだ。
「おや、先生ではありませんか。それに……くくく、隠れなくても大丈夫ですよ、ベルナデッタ殿?」
 ベルナデッタの顔から血の気が引いていった。それもそのはず、何故かヒューベルトの顔は明らかに怒りに満ちている。
「そんな顔をしなくても。怖がってるじゃないか」
「べ、ベルが何したっていうんですかああ」
「二人してあんまりですな。さすがの私でもいくらか傷つきます」
 ベレトと対峙するヒューベルト。そのベレトの後ろにベルナデッタという構図。ベルナデッタはベレトのマントを引きちぎらんばかりに握りしめた。
 ドロテアに施してもらった今の姿を、本当はヒューベルトに見てもらいたかった。しかし、目の前のヒューベルトの不機嫌さといったら間が悪いこと、このうえない。おそるおそるベレトの背後から怯え切った顔をのぞかせるのがやっとだった。
「おや、朝に比べればいくらか見えるようになりましたな」
「あんまりな言い方だな。ほら、ベルナデッタ、出て来てヒューベルトに見せてやればいい。せっくく素敵になったんだし」
 ベレトにマントを引っ張られ、ベルナデッタはベレトとヒューベルトの間によろよろと追い出される形になった。
 見上げた先には、腕を組んだヒューベルト。これでもかといわんばかりに自分を睨んでいる。彼の影に覆われて消えてしまいそうだった。
 怒られる。
 ベルナデッタは反射的に頭を抱えた。
「あの、あ、朝はすいませんでした」
「私に謝ることではございませんよ。しかし、一体、どうされたのやら。もしや、先生の気でも引こうとされたのですか?」
「ちっ、違います!!」
 自然と大きな声が出た。
 ヒューベルトはわざとらしく目を見開いた。
「ほう、違う、と。そうは思えませんな。色恋に現を抜かす暇があるのであれば、他のことに注力するべきではないですかでしょうか」
 冷ややかで嘲るような声音に、傷心が逆撫でされた。
 想い人にあらぬ誤解をうけ、いつになく意固地になった。拳をぎゅぅと握って、下腹に力を込めた。
「だから違うって言ってるじゃないですか!」
 ベルナデッタはひときわ声を張り上げた。
 その声の大きさにベレトもヒューベルトも驚いて目を見開き、ベルナデッタへと注目した。
「そ、そんなんじゃないですっ。ヒューベルトさんのバカ、わからずや! 大嫌いです。」
 ベルナデッタは身を乗り出すようにヒュー
ベルトに食ってかかった。面食らった顔の彼は珍しかったが、それをゆっくりと見ているような心境ではなかった。
 誤解を受けたこともそうだが、何も分かってくれないヒューベルトに腹が立った。
 どうしてそこまで言われなければならないのか。少し飾っただけではないか。何が悪い。
「あたし、そんなつもりなないです」
 防衛から一転、反撃に出た。強い言葉の勢いに押されたのか、ヒューベルトの頰が引き攣った。
「いえ、私はその……」
 ヒューベルトが言い訳をするように何か言い出しかけたところで、ベルナデッタは引き戻された。
「あっ、えっと…… あたし!」  
 勢いはそこまでだった。感情が逆流していて、目が熱くなってきた。当初の目的を思い出し、全く逆方向に走り出していることに、後悔の大波が押し寄せた。
「ちっ、違うんです。嫌いじゃなくて、ベル、ベル……」
 唇を戦慄かせながら、首を何度もふった。結局、言葉にならなくなって、押し黙る。
 大粒の涙をぽろぽろと溢してしばらく唸ると、弾かれたように二人を置き去りにして、背を向けて走り出した。

 部屋は落ち着く。ここにいれば、誰も自分を傷つけない。完璧で閉ざされた平和な世界だ。
 泣きながらシーツにくるまった。
 どうしてあんな人を好きになってしまったのか。いずれにせよ何もかも台無しにしてしまった。あのヒューベルトにバカと罵ったうえに、大嫌いなどと言ってしまった。
 全部終わったと思った。しばらくすると泣きつかれて、うとうととしていた。そして、そのまま夢の世界へと旅立っていった。

 また、ベルナデッタは夢を見ていた。
 今度の夢は甘い夢ではない。自分が佇んでいるところより少し先に、ヒューベルトとエーデルガルトが寄り添っている。
 ベルナデッタはそこから逃げ出したかった。しかし、足が動かない。自分には見せないヒューベルトの優しげな表情が頭に焼き付く。
 夢だとわかっていた。恋はこんなに辛いのか。だったらいらない、知りたくない。
 起きたらまた、泣いていた。

 部屋の扉をノックする音が響き、ベルナデッタは靄がかかった意識を急浮上させた。
 在室を呼びかけるその声は、ヒューベルトだった。
「先程は失礼いたしました。私としたことが、徒に貴殿を傷つけるようなことを申してしまい」
 ヒューベルトは珍しく早口だった。
「べ、ベルの方こそ、ごめんなさい」
 扉を隔てて、謝罪の言葉を交わし合う。出て行こうか行くまいか迷ったが、せっかく部屋まで来てくれたヒューベルトを出迎えないのは失礼だと思った。
 ベルナデッタはそろそろと起き上がると、扉をあけた。
「散々ですな」
 涙でぐしゃぐしゃの顔をみて、ヒューベルトは苦笑いを刻んだ。
 外は真っ暗で、夜の帳が下りていた。
「ヒューベルトさんのせいなんですからね」
 鼻をすすってから、ベルナデッタは言い返した。もう怒ってはいないが、拗ねて彼を困らせてやりたかった。
「左様。その通りです」
 そう言いながら、ヒューベルトはハンカチをベルナデッタの頰に押し当てた。肌を傷つけないように布を押し当てるように涙が拭われる。とても闇夜に密やかに人を殺めている者とは思えない、母親が子供にするような優しい手つきだった。
「せっかくドロテアさんに素敵にしてもらったのに。台無しですよ」
 ドロテアの傑作は痕跡すら残っていない。鼻の頭を赤く染め、目は真っ赤に縁取られ、頬は乾いた涙でかさついている。
 変身は涙ですっかりとけてしまった。
「もっとじっくり見ておくべきでしたな」
 目をぎゅっと瞑ってから、また、鼻を啜る。
 ヒューベルトからハンカチを受け取って、ベルナデッタはぎゅっと握りしめる。
「本当ですか?」
「ええ、嘘を申しても仕方がありませんからな」
 ヒューベルトはゆっくりと頷いた。少し気恥ずかしいのだろうか、彼は目を合わせようとはしなかった。
 何かを期待するには不確かな態度だが、淡い仄かな希望の燈がベルナデッタの胸にひっそりと灯された。
「それに…… このまま謝罪せずに休むと、悪夢を見そうですからな。貴殿に呪い殺されそうで」
 フェルディナントにでも呪いの人形の噂でも聞いたのだろうか。ヒューベルトはにやりと口の端を吊り上げた。
「ひどい、ベル、そんなことしません!」
 むくれっ面で言い返すと、ヒューベルトはくつくつ喉を鳴らした。手のひらの上で弄ばれて、悔しくて仕方ない。
 むしろ呪い殺すより、そんな呪いが自在に使えるのなら、彼の心を魅了してしまいたかった。
「さて、そろそろ失礼いたします。このような夜分に長居はよらかぬ噂の温床となりますからな」
「あの!」
 立ち去ろうと背を向けたヒューベルトを、ベルナデッタは呼び止めた。
「今度また…… があれば、そのときはちゃんと見ていただけますか?」
 扉に手をかけたまま、問いかける。踏み込んだ問いかけに、心臓がばくばくとしている。立ち止まったヒューベルトの背中をじっと見つめ、返事を待つ。
「その機会をいただけるのであれば」
 ヒューベルトは振り返らなかった。
 彼らしい返事に、扉を支える手に力が篭る。こうなったら必ず見てもらい、あっと言わせてやる。行くところまでまた行き着いた。あと、向き直って立ち向かうしかない。
 ベルナデッタは決意を胸に一人ゆっくりと頷くと、やるぞと言うように片方の腕を振り上げた。