その夜、エーデルガルトは、帝国領内の査察から帰還したベレトと、久方ぶりの夫婦水入らずのひと時を過ごしていた。寝室に続く二人の部屋の長椅子に並んで座り、エーデルガルトは、甘えるようにベレトの腕に頭を擦り寄せる。夫の体温に身体が安らいでいくのを感じながら、エーデルガルトは耽るように目蓋を閉じた。
皇帝エーデルガルトである間は、このような油断は許されない。自身も固く誓っているし、ヒューベルトも目を光らせている。解放された心地で、エーデルガルトは足を投げ出し、ぷらぷらと揺らして身体を寛がせながら、端正なベレトの横顔を、うっとりとした表情で見上げた。
「ねえ、ベレトさんに聞きたいんだけど、ヒューベルトって変わったと思う? なんていうか、そうね、ベルナデッタと結婚してから」
ベレトは、エーデルガルトに目を向け、何度か瞬いてから口元を緩めた。
「変わったな、と思うときと、ああやっぱり変わってないじゃないと思うときとあるのよ。どちらが本当の彼なのか興味があるの」
「君が俺にしか見せない姿があるように、彼にもそういう姿があるんじゃないのか。どちらも彼だろう」
エーデルガルトはぎくりとして、投げ出した脚を慌てて揃えると、頬を染めた。
確かにベレトの言うとおり、人にはそういう部分があることを理解はしている。表に出ている姿だけが、その人の全てではない。それでも反論したくなるのは、エーデルガルトとヒューベルトの因縁めいた絆のせいなのだろうか。エーデルガルトはどうにも腑に落ちず、僅かに頬を膨らませて下唇を指で摩る。
「妬いてるのかい?」
ベレトから投げかけられた言葉は、意外なものだった。彼の声に嫉妬の色はなく、エーデルガルトを、静かな眼差しでじっと見据えている。
「そんな! そんなわけないわ」
エーデルガルトの声は、意図せず大きくなった。一体全体ベレトは何を言い出すのかと、エーデルガルトは顔を顰めて首を振る。
問われてみれば、ヒューベルトの知らない姿を見せつけられるのが面白くないと感じる理由が、エーデルガルト自身にも分からない。ムキになったエーデルガルトに対し、ベレトはその動揺を受け止めるかのように、穏やかな表情で、ただ静かに口元を緩めている。
「思い上がりかもしれないけれど、私はベルナデッタよりも長くヒューベルトといるの。それなのにヒューベルトは、一度たりともあんな姿を見せることはなかったわ」
エーデルガルトは、視線を絨毯に向け、親指の爪を噛みながら、記憶をなぞるように呟いた。
記憶の中のヒューベルトは、いつも気難しい顔で眉根を寄せ、引き結ばれた薄い唇は緩やかな弧を描くことは稀で、意地の悪い笑みを形作るほうが多かった。決して、自身のあり方を崩さず、他人に影響されなかった。そんな彼が、エーデルガルトには、今は別人のように違って見えるときがある。
「そういうことなんだろう」
ベレトの声は、何もかも見透かしているかのように温かく、エーデルガルトの胸にしみこんでいく。腿の上で握り合う手にベレトの手が添えられ、親指で何度も撫でられる。
「君はこんな姿を彼に見せたことはあるのかい? だとしたら、俺は面白くないな」
「ないわ。あるわけない、じゃない。でもね、ベレトさんが行方知れずだったあの時、ほんの少しだけヒューベルトに寄りかかりたくなったときがあるの。でも、彼はそれを受け入れなかったわ」
「そうか。そのときは本当に君に心配をかけたね、すまない」
「いいの、今こうしているから、いい」
エーデルガルトはベレトの手を取って頬に寄せると、瞼を閉じる。少しでも思い出すだけで、当時の絶望が蘇ってくるようで、エーデルガルトは彼の存在を確かめたかった。
ベレトの行方が知れず、大規模な捜索を諦める決断をした夜。エーデルガルトはヒューベルトにしがみつくようにして涙したことがあった。しかし、彼は決して、エーデルガルトの背にその腕を回すことなく、ひとしきり受け止めたところで、何事もなかったかのように礼をして退室したのだった。
あのときのヒューベルトが何を感じたのか、エーデルガルトには分からない。知らぬふりをしてくれているのはありがたかったが、もし、あの夜、ヒューベルトがエーデルガルトを正面から受け止めていたら、今と全く異なる未来となっていたのだろう。
それが、エーデルガルトとヒューベルトの境界線だった。
飛び越えられそうであって、互いに超えられぬように防衛線を張っている。その理由は分からなかった。それは、父からヒューベルトを従者として紹介されたその日から、運命づけられているようにも思えた。
「ヒューベルトはいつだって君の従者だ。そしてこれからも」
「そうね。そこから超えられないのね、私たち」
エーデルガルトは、物憂げな表情で瞼を伏せると、ベレトが労わるように頭を撫でた。
ヒューベルトと共に素足で鮮血の花畑を歩き、腐肉を踏みにじり、他人の血と涙の泥にまみれてきたのは、ただの主君と従者では説明ができない固い絆があるとしか思えない。そうであるのに、一個人として彼と交流できないのは寂しいことではないかと、エーデルガルトは心を痛める。
「彼らを宮城に招いて、お茶会をするのはどうかな。ヒューベルトが堅牢な金属の壁を建造しているのであれば、彼をそこから誘い出せばいい」
「それは素敵な提案だけど、ベルナデッタは来てくれるかしら」
エーデルガルトは、ヒューベルトが妻としたベルナデッタにも個人的な興味があった。ベルナデッタはヒューベルトを怖がっていたし、ヒューベルトの方もベルナデッタに対して特別な思い入れがあるようにも思えなかったからだ。それがどうしてか、彼等は結ばれて、夫婦となった。
彼等の変化を感じたのは、ヒューベルトが胸に刺繍の飾りを身に着け始めた頃だった。そこではじめてエーデルガルトは、ヒューベルトとベルナデッタの関係が変わったことを知ることになった。それまでの二人は、ベルナデッタがヒューベルトを必要以上に怖がっていたり、ヒューベルトがそれに対して距離をおいてみたりするような間柄で、相性は最悪といってもおかしくなかった。腕利きの星見だって、彼等の結末の予想は不可能だったに違いないと、エーデルガルトは言い切りたいぐらいだ。
「でも…… 彼女、私のこと苦手でしょう? 来ないんじゃないのかしら」
ベルナデッタはヒューベルトを克服したのには違いないが、ベルナデッタはエーデルガルトを苦手としているのは分かっている。彼女は自己評価が低いせいか、エーデルガルトが話し出す前に妄想で話を塗りかえていってしまうため、何度も強い言葉で諭したことがあったからだ。引きこもりだった彼女が、最近はヒューベルトの仕事を精力的に手伝っているという話は聞こえてきているが、そういった経緯もあり、エーデルガルトからの誘いに彼女が乗ってくるとは、到底思えない。エーデルガルトの脳裏に浮かぶのは、怯え切った彼女の表情と、耳をつんざくような悲鳴だった。
「来るとも。君を恐がっても、君が彼女もとヒューベルトに声をかければ、彼はその指示に忠実に、それこそ無理矢理にでも連れてくるさ」
ベレトは肩を竦めて苦笑した。さすがは元担任だけあると、エーデルガルトは感心したが、ベルナデッタのことを思うと、彼女がかわいそうに思えてならなかった。
「でも、それはあんまりね。よくそんな関係で結婚したわね…… 信じられないわ」
ベレトは、肩を揺らして笑う。まるでエーデルガルトが知らない事実を、教師であった自らは知っているとでも言うようでもあった。エーデルガルトはベレトの言いたいことが分からず、預けていた頭を起こして、真意を探るように彼の横顔を見つめた。
「俺たちが知ってる二人と、本当の彼等は違うんじゃないのかな」
ベレトは仲睦まじい二人の姿を想像しているのだろうか。瞼を閉じて頬を緩めると、エーデルガルトの側頭部に掌を添えて、再びエーデルガルトを自らの肩へと導いた。
「もしかしたら、こうして私たちのように寄り添っているのかも、と? ほとんど自邸に帰らない彼が、そんなことするかしら」
その場の流れに任せて、エーデルガルトはベレトに腕に自分の腕を絡めて頬を寄せ、飼い猫が主人に愛撫をねだるように頬を擦った。
「もちろんその可能性もある。フェルディナントのように詩集の一節のような愛を囁いているかもしれない」
そんなヒューベルトを想像する否や、エーデルガルトはぷっと吹き出した。「それだけは絶対にないわ」と、ベレトに告げて、エーデルガルトの髪を梳いて弄んでいたベレトの指を絡め取る。愛しい温もりを求めて頬に寄せれば、胸のあたりからベレトへの想いが広がっていく。
「ちょっと想像できないけれど、二人でいるときはこうしているかもしれないわね」
「そうだな」
誘われるように唇の隙間にベレトの親指が触れ、僅かに押し広げられる。会話よりも、温もりが欲しい。求め合う感情が交差して、エーデルガルトとベレトの顔は近づいていく。ベレトに背を抱えられながら、折り重なるようにエーデルガルトは長椅子に横たわった。彼の影に覆われていきながら、その身体を求めるように両手を差し伸べる。二人の雑談の時間は終わり、夜の帳がおりていく。