ホワイトデーの祝福
鏡の前で、ベルナデッタはリップを片手にじっと自分の顔を見つめていた。
「キスされちまうかもしれないぜ」と言ったユーリスの顔が思い浮かぶ。
小ぶりの唇を人差し指で押して、感触を確かめ、付き合ってもいない相手に対して何を考えているのかと息を吐く。
「ベルナデッタ、そろそろ時間よ」
廊下で待たせているエーデルガルトからお呼びがかかって、ベルナデッタは肩を跳ね上げた。
このまま逃げるとでも思われているのか、先に行っててもいいはずのエーデルガルトは、尾行任務中の刑事のようにベルナデッタに張り付いている。
「もう?! どうしよう。えっと」
少しばかり前のめりになって顔を鏡に寄せ、ゆっくりとリップスティックで唇をなぞっていく。品良い艶感のある薄桃色のリップは、ユーリスが選んでくれたものだ。
『キスを誘う恋するリップ』の謳い文句は本当だろうか。それを知ったうえで手に取った自分の浅はかさに、鏡に向かって苦笑いを刻む。それから何度か瞬きをして、「よし」と言って、ゆっくりと頷く。
「エーデルガルトさん、お待たせしました!」
ベルナデッタは鞄を肩にかけると、小走りでお手洗いを飛び出した。
「急ぐわよ」
「は、はいっ。待ってくださいよう」
エーデルガルトの背を追って小走りについていく。校舎を出ると、外は夕陽で橙に染まっていた。車寄せには見慣れぬ黒塗りのスポーツカーが止まっていて、長身痩躯の男がそのすぐそばで背筋を正して立っていた。
エーデルガルトを送迎するいつもの車ではなく、ヒューベルトの所有車のようだ。足音に気づいた彼が、エーデルガルトとベルナデッタの方へと向き直って、軽く頭を下げた。
ベルナデッタは途端に足が重くなって、二、三歩歩いてから立ち止まった。
本当に大丈夫だろうか。
不安になって、ベルナデッタは鞄を持つ手をぎゅっと握る。
「ベルナデッタ?」
「あの、あたし……」
異変に気づいたエーデルガルトが歩み寄ってきて、ベルナデッタの顔を覗き込んでいる。
「彼のこと、嫌いなの?だったら無理は言わない」
ベルナデッタは唇を噛んで首を振った。
「そんなことないです……」
「勇気を出して。ああ見えて、ヒューベルトはこの日をとても楽しみにしていたのよ」
「ほんとですか?」
ベルナデッタは顔を上げると、エーデルガルトは力強く頷いた。
「これまでに私が嘘を言ったことは?」
「ないです」
「ならば、信じなさい」
エーデルガルトに肩を抱かれて、二人で並んでヒューベルトの方へと向かう。どんどん近くなるその姿に、心臓の打つ強度が高まっていく。よく見ると、ヒューベルトはスーツではなく、シャツとジャケットスタイルの私服のようだった。細身の身体によくフィットしていて、腰の細さと脚の長さが際立って見えた。
「お待ちしておりました、ベルナデッタ殿」
「あ、あの……えっと」
ベルナデッタ、とエーデルガルトが耳打ちした。しっかりしろという意味だろう。しどろもどろを繰り返していると、ヒューベルトが薄く微笑んだ。
「よ、よろしく……おねがい、します」
「こちらこそ。そう緊張なさらずに」
「もう、今日はこれからなのよ。今からそれでどうするのかしら」
ベルナデッタは、ちらちらと苦笑いを刻むヒューベルトと呆れ返っているエーデルガルトを交互に見た。
「では、こちらへどうぞ、ベルナデッタ殿」
助手席側のドアをヒューベルトが開けた。その席にはちょこんとくまのぬいぐるみが鎮座していた。
「わっ、たれくまさんだ。かわいいです。あっ……えっとぉ」
ベルナデッタが慌てて口を噤むと、ヒューベルトもエーデルガルトも示し合わせたかのように見合わせて、品よく笑っている。
「貴殿が好きだと申しておりましたので。今日のお供にされてはどうでしょう。無論、差し上げます」
「でも、そんな……」
「いいのよ、素直に受け取っておきなさい。じゃ、頑張ってね!」
背後から両肩に手を置いて、車へと向かわせようとするエーデルガルトに、ベルナデッタは慌てふためいた。エーデルガルトも一緒なのかと思いきや、ヒューベルトと二人きりになるらしい。
「え、エーデルガルトさんは?!」
「この車、二人乗りなの。残念。ということで、頑張ってね」
エーデルガルトの楽しげな声に、ベルナデッタは短い悲鳴をあげる。
「いいから、さあ乗りなさい。ヒューベルト、安全運転で頼むわよ。くれぐれもベルナデッタに気を取られないようにね」
「エーデルガルト様!」
「お小言は明日聞くわ」
「全く……」
ヒューベルトの困惑する声を、エーデルガルトは軽く受け流す。
「お、お邪魔しまーす」
たれくまのぬいぐるみを抱きしめてから車高の低い車に滑り込むよう乗り込むと、逃すまいとエーデルガルトにすぐさまドアを閉められた。背中越しに投げられた言葉に不安が募って窓の向こう側の親友に縋るような目を向けても、彼女は車から数歩下がったところで、満面の笑顔で手を振っている。スターターがかかっていない車は窓ガラスの操作ができず、開けることができない。
車内に風が吹き込んできて、ベルナデッタは運転席側を振り向くと、ちょうど、ヒューベルトがちょうど乗り込んでくるところだった。
「シートベルトを締めてくださいね、ベルナデッタ殿」
「あっ、はい」
シートに身体を委ねるヒューベルトは、目に毒だと思わせるほどに色気があった。じっと見入っていると、視線に気付いたのかヒューベルトは目を細めて応じた。
「ひゃ、ひゃああ」
「はて、私の顔に何かついていますか?」
ヒューベルトの問いかけに、ベルナデッタは肩を跳ね上げた。
「ひっ、え、えっと、違います」
思いの外間近にあるヒューベルトの顔に、ベルナデッタは恥ずかしくなって顔を背けた。ヒューベルトは自らの頬を掌で擦りながら、考え込んでいる。
「身だしなみには気を付けているほうですが。剃り残しでもございましたでしょうか」
上背がある彼の胸ほどの身体しかないベルナデッタにとっては、同じぐらいの高さで彼を見ることなどほとんどなかったのだった。
このままではドキドキが過ぎて死んでしまうかもしれない。誰か助けて欲しいと願いながら、ベルナデッタはたれくまを抱きしめた。
「それとも、もしや、お加減でも悪いのですか?」
ベルナデッタは顔を上げて、勢いよく首を振った。
「ちがいます! あ、あのう。そんなにみられると、ベル……恥ずかしくて」
「なるほど。しばらく運転しておりますから、貴女の方は見ることはございませんよ、ご安心ください。では、参りましょうか」
「よろしくお願いします」
エンジン音に心音が重なる。手を振るエーデルガルトに顔を引き攣らせて笑いかけ、ベルナデッタはヒューベルトの横顔を見た。
すらりとした鼻筋に、品の良さを感じさせる薄い唇。薄い頰に、鋭い眼差し、襟足からのぞく首筋ーー 彫刻のような造形に見惚れて、思わず口がぽかんと開いてしまう。
車はゆっくりとした速度で校内を進む。帰宅途中の学生たちがその車に注目して騒いでいるのが車内からでも分かった。大人の男の人と二人きりで、車で外出。ユーリスにデートだな、と揶揄われたことを思い出してハッとする。
思い上がってはいけない。
ベルナデッタは再びヒューベルトを見た。この人は私のことを女性としては見ていないと言い聞かせていると、どんどん悲しくなってきて、お供のぬいぐるみに顔を埋めた。
車は大通りを走りぬけていく。帰宅時間と重なり、車が多い。ラジオでもつけようかとうヒューベルトに、ベルナデッタは遠慮した。
「あのぅ、ベル、助手席に座っててもいいんでしょうか」
話をする機会が訪れたと思い、ベルナデッタは口を開いた。
「悪いのであればお誘いしませんよ」
ヒューベルトの声は語りかけるように温かい。罪悪感は薄れていくも、その回答はベルナデッタが求めているものと違っている。質問の意図が伝わっていないようで、ベルナデッタは「そうなんですけど」と決まりの悪い返事をした。
「何か気掛かりでも?」
「ヒューベルトさんの彼女さんとか、お嫌ではないかなあとか、ベル、子供ですけど、やっぱりここは特等席なような気がするんです」
「なるほど」
ちょうど長い信号に捕まったようだ。ヒューベルトの視線を感じて、ベルナデッタは顔を向けた。
「今はおりませんよ」
「今は、ですか」
「気になりますか?」
「そっ、そ、そんなことは」
返答に困り、ベルナデッタは目を逸らした。プライベートのことを無闇に詮索してしまったと、後悔の波が押し寄せた。
「気にしないことですよ」
「はい……」
信号が代わり、ヒューベルトも再び運転に集中し始めた。
この助手席に座ったヒューベルトの恋人たちはどんな女性だったのだろうか。車中で洗練された会話をして、大人の時間を過ごしたのだろうか。過ぎゆく街並みを呆然と見つめながら、ベルナデッタは夢想した。
同じ大学に通うひとだろうか。彼のことだから、ビジネスで知り合った年上かもしれない。数々の妄想の中には、子供っぽい姿の女性はいない。きっと相手にされてない。ベルナデッタは胸を傷ませながら、ヒューベルトの横顔を見つめた。
ところどころで渋滞に巻き込まれながら、ベイエリアのモールまでやってきた。車は地下駐車場に吸い込まれるように入っていき、ほどなく停車した。
移動中、ぽつりぽつりと会話をするものの、ベルナデッタは緊張でうまく話すことができなかった。何もしていないのにすっかり気疲れしてしている。
シートベルトを外すのに手こずっていると、ヒューベルトが身を捩って外すのを手伝った。間近にみるその顔に、どきりとした。地下駐車場で光源が乏しいため、顔が赤いのを気取られずに済むことをありがたく思いながら、ベルナデッタは車から降りた。
地下駐車場は地上から生暖かい風と車の排気ガスの吹き溜まりてで、空気は澱んでいる。ベルナデッタは鼻をつく排気臭に顔を顰めながら、ヒューベルトの少し後ろを歩く。
「さて、参りますか」
「はっ、はい!」
ヒューベルトをてくてくと小走りで追いかけながら、モールに続くエレベーターホールへと向かう。途中、ヒューベルトが歩行速度を緩めて、足並みを揃えてくれた。
「少し早く歩きすぎましたね、申し訳ありません」
「とんでもないです」
足を止めて振り向いたヒューベルトに慌てて駆け寄ると、ベルナデッタは微笑みかけた。つい彼の手をとってしまいそうになって、いけないいけないとかぶりふる。
平日のショッピングモールは人はまばらで、制服姿の学生や仕事を終えた社会人なのか大学生なのかわからない若者たちが思い思いに過ごしている。
ベルナデッタは人混みが苦手だった。人の目が気になるのに加え、五感から入ってくる情報に敏感に反応してしまう。今日は人は少ないとはいえ、男女の組み合わせが目に入ると、ぞわぞわとした。少し前を歩くヒューベルトの襟足を見上げながら、自分とヒューベルトの関係にどんな名前がつくのかつい考えてしまった。
「さて、こちらのお店を予約しています」
先程まで沈黙を貫いたまま歩いていたヒューベルトが立ち止まった。
ベルナデッタはその店名を見ただけで、めいっぱい目を見開いて、表情を輝かせる。
「わぁ、ここ、予約とれたんですか? 人気のカフェなのに」
「ええ、まあ」
「すごぉい、ひゃああ」
女子高生の間で話題のカフェに、ベルナデッタの声も弾む。行列に並んで何時間も待つしかないような店に、どうやって予約をいれたのかは分からなかったが、店員に導かれるままに奥まった席に案内された。
この店は旬のフルーツをふんだんに盛り付けたパフェが有名な人気店だ。想像以上の値段の高さに、どこまでが許容範囲なのかわからず、ベルナデッタはひたすらメニューのページをめくっては戻すを繰り返していた。
食べたいものが決まらないというより、注文したいものの値段次第で、ヒューベルトからどう思われるのかが気になるところで、同じようにメニューをめくるヒューベルトをちらちらと盗み見た。
「おや、お決まりですか? どうぞ、なんでもお好きなものを頼んでください」
「でも、そんな、申し訳ないです」
「せっかくの機会なのですから。エーデルガルト様におすすめいただいたのですが、予約をとるのには些か骨が折れましたからな」
ヒューベルトはくつくつと楽しげに笑った。
悩んでいるようで、食べたいものは既に決まっている。ベルナデッタが食べたいのは、いちごのパフェだったのだが、これが有名なブランドいちごをテーマにしたもので、食事をするぐらいの値段設定がされている。バレンタインの日に手作りのチョコレートを贈ったそのお返しにしては、過剰な気がした。
それでも食べてみたいものは食べてみたいのが乙女心。ベルナデッタはもじもじとしながら、メニューを指で指し示した。
「なるほど、旬ですからな。私も同じものにしましょう」
「あの、ごめんなさい」
「なぜ謝るのですか」
「だって、これ、一番高いですし。こんなことまでしていただいて、なんだか、ベル……」
「気にしないことです」
ヒューベルトはそう言うと、手を上げてスマートに店員を呼んで注文してしまった。
ひとしきりパフェを堪能して、店を出た。その時には、すっかりヒューベルトの恋人気分だった。
モールの通路のアクセサリーショップをちらちらと眺めたりしながら、少し外の空気を吸うかという話になって、海沿いの公園に向かった。
ベルナデッタの頭の中は、先ほど立ち寄ったアクセサリーショップで言われた言葉がぐるぐるしていて、口数が減っていた。
その店には、ヒューベルトの髪の色を思わせる艶やかな黒の石をあしらったネックレスが売られていて、ベルナデッタの目をひときわ引いたのだった。
ヒューベルトに欲しいのかと尋ねられ戸惑っていたところ「いいお兄さんだね」とにこやかに声をかけられた。
悪気のない一言だ。
制服姿の女子学生とシャツとジャケットスタイルの長身の男性ではそう見えてしまうのだろう。肯定も否定もしないまま、ベルナデッタと聞きたくなるヒューベルトはその店を離れた。
それがベルナデッタのもやもやの正体だった。ヒューベルトは目を細めて、暗い海の方に顔を向けている。ライトに照らされたその横顔のくっきりとした陰影を見つめながら、ベルナデッタはヒューベルトを遠くにいる知らないひとのように感じていた。
「寒くないですか?」
「大丈夫です」
「先程からお元気がないようですが……」
「そんなことないですよ。ちょっと考え事してただけです」
ベルナデッタは繕うように、無理やり笑顔をつくる。
柵を掴んでいるヒューベルトの前髪が潮風にゆられている。いつの間にか闇の中に浮かぶ黄金色の双眸が、ベルナデッタに向けられていた。その見定めるような眼差しに、ベルナデッタはぐっと体を固くした。
「あ、あたしって、やっぱり……ううん、なんでもないんです」
隠し通せないという不可解な思い込みが、ベルナデッタにあった。まごつきながらも、飛び出しそうになる本音を腹の底へと押し込む。
「おっしゃってください、何か気にされていることでもあるのでしょう。どうしてもとは申しませんが、差し支えなければ伺いますよ」
「ないことは、ないんですけど…… 聞いてもきっといいことなんてないですよ」
ベルナデッタは唇を尖らせ、視線を避けるように海側に体を向けると、手すりを両手でぎゅっと掴む。
「あたしってやっぱりヒューベルトさんの妹なんだなあって」
隣のヒューベルトの表情を見るのが怖くて、ベルナデッタは揺れる水面へと視線を落とした。
「ね、大したことじゃないです。だから、気にしないでください。ベルが一人勝手に気にしてるだけなんです」
ヒューベルトからの返事はない。
面倒なことを言い出す女とでも思われたのだろうか。ベルナデッタは気持ちを奮い立たせ、肩にかけた鞄の紐を手繰り寄せた。そうでもしないと、不安や恐怖が加速して礼も告げらないまま、逃げ出してしまいそうだった。
「ごめんなさい、ほんとに色々してくださったのに、あたしってばヒューベルトさんにちゃんとお礼も言わないで。今日はほんとにありがとうございました。こんなによくしていただいたのに、あたし……」
「私がしたくてしていることですから、気になさらないでください」
ヒューベルトの声が穏やかであっても、ベルナデッタの声はどんどんと震え、膝が笑いはじめた。
「あたし、なんだか怖かったんです。どんなに頑張っても、親しくしていただいても、ヒューベルトさんの妹にしかなれないんじゃないかって、それで、それは嫌だなぁって」
「ベルナデッタ殿……」
困惑しているような表情のヒューベルトに向けて、ベルナデッタは力無く笑う。それから、くるりと背を向けて一歩踏み出した。
「ここからなら電車でも帰れますから。ほんとにごめんなさい。おかしなこと言い出して。エーデルガルトさんと仲がいいから、親しくしてもらっているだけなのに、思い上がっちゃってるだけなんです。今日のことはエーデルガルトさんには話しませんから、ヒューベルトさんにご迷惑をおかけしません。あたし、だから……」
逃げよう。
キスを誘う恋するリップは所詮宣伝文句に過ぎない。
ヒューベルトから決定打を聞く前に、ぼろぼろに砕けさる前に、すぐにでも立ち去りたい。ベルナデッタはタイルを薄く覆う砂利を踏みしめた。
「お待ちください」
ヒューベルトの声と同時、手首が掴まれていた。
「いけませんな。貴女の優しさに甘え、また同じ轍を踏むところでした」
涙でぐずぐすになってしまった顔を向けると、ヒューベルトの大きな掌が差し込まれ、親指でそっと涙を拭われた。ベルナデッタと目線をあわせようとしてくれているのか彼は腰を折って、それからーー ベルナデッタはヒューベルトと唇を触れ合わせていた。
海風の音がざわざわとうるさく聞こえてくる。ベルナデッタはヒューベルトの袖をぎゅっと掴んだ。唇が離れると、ベルナデッタは瞼をあけた。目の前には困った顔をしたまま笑っているヒューベルトがいた。
「どう、して?」
ベルナデッタは口元を覆ったまま、掠れた声で尋ねた。胸がドキドキして、息が苦しい。突然のことに涙もすっかり引っ込んでしまった。
「決して、妹でいてほしいとは思ってはおりません。ただ、エーデルガルト様のご学友である貴女が、致し方なく付き合ってくださってるのではと思うと、個人的に親しくするのはご迷惑ではないかと思っていました」
ベルナデッタはぶんぶんと首を振った。
「そんな、迷惑だなんて…… あ!」
「ん?」
ベルナデッタの何か閃いた様子に、ヒューベルトは小首を傾げている。
「いや、ふふ、ふふふ」
「どうかされたのですか?」
突然笑い出したことで、ヒューベルトを困らせてしまったらしい。ベルナデッタは喉を整えると、ヒューベルトに向けて微笑みかけた。
「ベルたち、同じこと考えてたんですね。お互いに迷惑って、だから、なんだかおかしくなっちゃったんです」
「なるほど、確かに……そうですな」
顔を見合わせてしばらく笑い合った後、ヒューベルトが「では」と言って、手を差し出した。しばらく手とヒューベルトの顔を交互に見たあと、ベルナデッタはおそるおそるヒューベルトの手を握った。
「歩きにくくないですか?」
「気になりませんよ」
ヒューベルトの手はベルナデッタの手を包み込んでしまうぐらい大きく、外気に晒されているせいか少しひんやりとしていた。
ヒューベルトに導かれるまま、ベルナデッタはモールの方へと引き返しはじめる。
「ヒューベルトさん、駐車場、あちらから行けるみたいですよ」
「ええ」
ベルナデッタは駐車場の方角を示す案内板を指さすも、ヒューベルトは気に留めた様子はなく、そのままモールへ向かっている。
「先ほどのお店の方に訂正しておかねばなりませんからな」
ヒューベルトの涼しげな横顔に対して、ベルナデッタの顔は一気に赤に染まった。
「べっ、別にいいですよう。もう気にしてませんし」
「いえ、そちらの方は実は本題ではないのですが……」
「えっ、え、じゃあ何のために?」
「すぐお分かりになりますよ」
鏡に映る顔は、甘い夢の中にいるかのようにとろりと蕩けている。ベルナデッタは、ルージュを乗せるように指の腹で唇をそっと押し引き、それから悩ましげに息を吐く。
シャツ襟の奥に隠しままのネックレスの紐を引き上げて、濡れた鴉のような紫がかった黒い艶やかな石を見つめた。
あれから二人でモールに戻った後、ヒューベルトが件の店主にベルナデッタを恋人だと紹介したうえで、買ってくれたものだ。店主は目を丸くしたものの「良かったね」と言って祝福してくれたのだった。
手元に置いたままのスマートフォンの画面が点り、ヒューベルトからメッセージが届いていると知らせている。
未だ今日のことが本当のことだと信じられず、ベルナデッタはドキドキしながら画面に触れた。
″今日はありがとうございました。ご両親に咎められたりしていないかどうか心配しております。もっと時間に余裕がある日に、少しばかり遠出をいたしましょう。もちろん、貴女の行きたいところであれば、そちらでも″
ベルナデッタはスマートフォンを胸元にスマートフォンを抱き寄せて、うっとりとした表情を浮かべた。
遅い帰宅を怒られたことは確かだが、それよりも大きな幸せに包まれていればなんてことはない。それに、門限までまだ1時間の猶予があったし、家から少し離れた場所で別れたのもあり、誰と何をしていたのか、両親にはわからないだろう。エーデルガルトと勉強していたと嘯けば、さすがの両親もそれ以上追及してこなかった。ベルナデッタは嘘に少しばかり心を痛めながら、両親に対するはじめての秘密に胸をときめかせた。
別れ際の車中の口づけ。
思い出すだけで恥ずかしくなって、ベッドに飛び込んで、ヒューベルトから贈られたたれくまのぬいぐるみを捩れるほどに抱きしめる。
助手席のヘッドレストに回された長い腕、暗闇の中に浮かぶ彫りの深い顔、緩やかな弧を描く薄い唇ーー ベルナデッタの頭の中でそれがはっきりとした映像で繰り返されている。
「あっ、お返事、返さなきゃ」
ベルナデッタははたと顔をあげ、スマートフォンを立ち上げた。それからしばらくうんうんと悩み、よくやく画面をタップしはじめた。
ヒューベルトさん、あたしーー