遠征から久しぶりに邸宅に戻ったヒューベルトは妻に声もかけず、真っ直ぐ執務室に向かった。
夜の闇に包まれた時刻であったし、彼女が出迎えに来なかったので、既に寝ているのだろうと思ったというのもある。
忘れないうちに報告書をとりまとめたい一心で両開きの濃茶の重厚な扉を開けると、本来自分があるべき椅子に先客があった。先客といってもそれは命なき愛玩具で、生意気にも自分の軍服をまとっていた。
「ベルナデッタですな、このような幼稚な悪戯をするとは。」
調子を崩され嘆息すると、丸みを帯びた熊のぬいぐるみの手と天板の間に一枚の羊皮紙が挟まっていた。
「ヒューベルトさんの、ばか?」
羊皮紙に走り書きされた一文を読み上げて、ヒューベルトは眉間に皺を寄せた。
寂しい思いをさせているのは十分理解しているし、共に住み始めてからは可能な限り邸宅で執務を行うようにしている。しかし、予定を大幅に過ぎた今回の遠征では、多忙を言い訳に彼女に手紙のひとつもよこさず、予定が遅れることも告げられずにいた。
妻はそんな自分に呆れてふて腐れているのであろう。ヒューベルトは報告書と彼女の機嫌を天秤にかけた。
軍配は妻の方にあがった。人は変わるものだと言い訳しながら、外套を掛けるとくたびれた身体を引きずるようにして、寝室へと向かった。
その可哀想な妻は彼の心配をよそに、二人で眠る寝台の中央部を大の字にして占拠していた。彼女を哀れむ気持ちが一気に引いてきて、ヒューベルトの気持ちは報告書への方へと傾きだした。
「怒ってるんですから、ベルは」
背中を向けようとした瞬間に、非難の声が飛んできて、ヒューベルトは足を止める。
「連絡もよこさず、なんなんですか。あっ、もしかしてよそに女が!そちらでお子さんもいたりするんですかね。もうベルは用済みで、相手もしたくないとか。確かにそーかもしれませんね、ベルは子供っぽくて、大人げなくて理解無くて!!」
堰をきったかのようにありとあらゆる彼女の妄想が飛び出してきて、容赦なく投げつけられる。よくもまあそんな早口でと感心したくなる。
今回ばかりはそう言われても仕方が無い。言い返す言葉がない。ヒューベルトはひたすら無言で受け止めるしかなかった。
「何か言ったらどうなんですかっ」
その態度は、怒りの頂点にいる妻に通用するはずはなかった。嫌われまいと言葉を選んでいたあの頃が、ヒューベルトは少しばかり懐かしくなった。
「申し訳ありません」
何か言えと急かされれば、このようなことになると更に寡黙になるヒューベルトが言えることは謝罪の言ぐらいだ。
「そう思うんでしたらこっちに来てください」
寝台から身を起こしたベルナデッタが両手を差し出す。俯きがちに頬を膨らませ、ヒューベルトが近くまで行くと微かな声で「抱っこしてください」と零した。
「承知しました」
ヒューベルトはそう返答してから寝台に腰掛けると、ベルナデッタを抱き寄せた。柔らかい身体とぬくもりに、気持ちが安らいでいくのを感じる。
「心配したんですから。ごめんなさい、あたし、酷いこと言って…… ヒューベルトさんがそんなことしないって、ちゃんと分かってるのに」
肩口に顔を埋めたベルナデッタの声は涙声だ。すんと鼻を鳴らして、額をすりすりと擦り付ける。
「今後は予定を過ぎる場合は手紙を寄越します。悪いのは私の方です」
頭を撫でてから、背中をゆっくり腰部まで撫でおろす。額と眦に唇を寄せてから、ベルナデッタを寝台へと寝かせた。
「明日より数日、報告書を作りますのでしばらくは邸におります。安心して、今宵はおやすみしてください」
「はあい」
もう一度だけ、ベルナデッタを抱きすくめると、頬へと優しく口づけが贈られた。
「おやすみなさい」
「良い夢を、ベルナデッタ」
テフを飲んで一息ついてから、報告書に手をつけようなどと思いながら、ヒューベルトは寝室を後にした。