偶然ではなく必然

 目の前の娘はどうしてそんなに泣きじゃくっているのか。ヒューベルトは傷だらけの身体でかろうじて直立している状態で、ただその様子を眺めることしかできなかった。
 連日にわたる戦の準備と職務がたたったのか、魔力を使い果たすすんでのところで、ヒューベルトは辛うじて殲滅戦を切り抜けたのだった。戦が勝利で終わったことは明白だったが、すぐに動けるような状態ではなかった。
 少しばかり身体を休めて動き出そうとしたところで、ベルナデッタが駆け寄ってきた。彼女は大きな傷は負っていないものの、肌が露出しているところにはいくつも切り傷ができており、頬には紅ではなく煤がブリギットの戦化粧のようにこびりついていた。ヒューベルトがそんな彼女と目を合わせ「どうも」と力なく笑って投げかけると、ベルナデッタは気絶するのではなくわっと泣き出したのだった。
 煤で灰色に染まった涙を変わるがわる手の甲で拭いながら肩を上下させているベルナデッタ=フォン=ヴァーリーー この娘はもとより捉えどころのない軟体生物のような精神の持ち主だとヒューベルトは評していたのだが、いよいよわからなくなってきた。
 むしろ、これまでのベルナデッタに対する一連の態度からすれば、無事であったことを落胆してもいいぐらいのはずだ。ヒューベルトは回らない頭で考えた。
 この娘だけとり立てて厳しくしたつもりはないが、甘やかしたつもりもなく、修練から逃げ出す彼女の退路を断つように立ち塞がったことは一度や二度ではない。今もこうして胸に飾ったままの刺繍の飾りを贈られたとしても、そこから関係が変わったわけではない。
 会話をする機会や共に過ごす時間は増えたかもしれないが、それはこの飾りのおかげで自身に対する恐怖が軽減されているからだろうと、ヒューベルトは思っていたぐらいだった。
 ここのところベルナデッタの表情は幾分柔らかくなり、眉根を強く寄せて困り顔をしたり、唇をへし曲げることもなくなったが、捨て猫を拾い上げた主人のように懐かれるのは、どうにもこそばゆかった。
 ベルナデッタがいつまでこうしているつもりなのかも分からかったが、このまま一言二言謝礼を告げてからドロテアあたりに託すのは違うのではないか。そんなささやかな心の蟠りが、腹の中で渦巻いていた。
 しきりに名を呼ぶだけのこの娘の丸い頭を見ろおしていると、奇妙な感情がヒューベルトの中に生じた。
 そもそもこれは夢ではないか。
 あのベルナデッタが自身の生存を咽び泣くほどに喜ぶものだろうか。ヒューベルトは何度かところどころ擦り切れた手袋で目を擦ってみたがベルナデッタの輪郭は確かに世界に存在している。
 ヒューベルトの長い腕がベルナデッタの方へと伸びた。それはとてもゆっくりとした動きではあったが、命を狩るためではなく、確かめるためであった。
 はたとベルナデッタの泣き声が止んだ。
 彼女は顔を上げて、目の縁に涙を堰き止めたまま、ヒューベルトを呆然とした顔で見た。

「貴殿は、本物のベルナデッタ殿でしょうか」
 
 ベルナデッタはゆっくりと頷いた。

「なるほど、それにしては随分としおらしい……」

 ベルナデッタの華奢な背に手を添えるまでが一呼吸の動作だった。触れた途端にベルナデッタはぎくりと肩を跳ね上げたが、ヒューベルトはお構いなしにそのまま自身の方へと引き寄せた。女性らしく丸みを帯びたその身体を包む無垢な柔肌を感じ、首筋からは甘く眠りに誘うようなかおりがして、ヒューベルトは数日寝ていないときのような浮遊感に襲われた。
「ひ、ひぎゃっ!」
 何かが潰されたときのような酷い濁声が漏れ、その悲鳴でヒューベルトは我に返った。何をしているのだろうと思い、嫌がるそぶりの彼女を解放しようかと思ったが、ベルナデッタはすぐさますっかりおとなしくなり、何度か身体を捩らせて体の位置を整えると、ヒューベルトの胸に耳を押し当てた。

「ベル、生きてます。本物です。ヒューベルトさんも生きてます」

 話しているうちから感極まったのか、ベルナデッタの声は今にも泣き出しそうに揺らいでいた。
 腕の中のベルナデッタは思いの外小さく、何よりも暖かかった。触れたところから脈動を感じ、健やかに吐かれる息に、寄りかかる頭の重みに、ヒューベルトはベルナデッタの命を強く認識した。

「あっ、あのぅ。何かしゃべってくれませんか?もしかしてきぜつ……」
「しておりません。貴殿ではあるまいし」
 
 ヒューベルトはベルナデッタの言葉を遮って返答すると,両肩を掴んで身体を引き離した。

「ですよね。えへへ、ヒューベルトさん、少しはお元気になったようで」

 涙でぐしゃぐしゃになったベルナデッタの顔に朱が差した。ヒューベルトは緊張で張り詰めていた荷がおりたような気がした。嘆息すると、一気に脱力していく感覚がした。

「全く、貴殿にはお手上げです」
「喜んでいいのか悪いのか分からないんですけどお」

 むくれるベルナデッタの姿に、ヒューベルトは唇に笑みを乗せた。
 この娘に心を許してしまっているのだろう。照れ笑うベルナデッタの屈託のない様子に、いつもの峻厳な宮内卿の姿はなく、ただのヒューベルト=フォン=ベストラになってしまう。しかしそれも悪くない、とヒューベルトは思った。

「そろそろ参りましょうか……」
「そ、そうですね」

 拠点に戻らねば。ヒューベルトは荒野と化した戦場の先を見据えた。ベルナデッタもヒューベルトにならい、表情を引き締めた。
 帰りが遅い従者を主君も心配しているだろう。ヒューベルトはベルナデッタに目配せをしてから、背を向けて歩き出した。待ってくださいと言いながら、ベルナデッタも慌てて小走りで後ろをついてくる。

「あれは、事故、だったんでしょうか。ですよね。ヒューベルトさんがベルのこと、抱きしめてくれるなんて……ありえないですから」

 背中越しにぼそぼそとベルナデッタがつぶやく声を、ヒューベルトの地獄耳はしかと拾い上げていた。
 なるほど甘い男女の関係への発展を求めていたのかとヒューベルトは察し、どう応じてやろうかと彼女の反応を想像しながら片方の口の端をあげた。

「事故ではございません」

 まずは先制攻撃と端的にその疑問に返答した。
 ベルナデッタに対して背を向けているので,ヒューベルトがどんな顔をしているのか、彼女は窺い知ることはできない。さてどんな反応をするかと思いきや、不意をつかれたのか、ベルナデッタからはいつもの錯乱した様相の奇声が聞こえてきた。
 ヒューベルトはその声に応じるように立ち止まってから、振り返り、無表情のままベルナデッタのもとへと歩み寄った。

「あのう、もう一度……って、ひゃ、ひゃああ、ごめんさい、あたし、あの……ひいい」

 ベルナデッタはヒューベルトの様子にあわてふまめき、狼狽え、叱られると思ったのか両手で頭を庇うようにして身体を屈めた。

「お許しを……ベル、調子にのりましてぇ、ヒューベルトさんがベルのことなんて、ねえ」

 両の目を力一杯瞑るベルナデッタを見下ろして、ヒューベルトは苦笑いを浮かべた。ついで漏れたため息が、彼女の前髪を僅かに揺らした。

「調子にのっても良いのでは?」
「ほぇ」

 惚けた顔を向けたベルナデッタを、ヒューベルトはすぐさま捉えるように抱きしめた。罠にかかった小動物の生命の危機を知らせるような叫び声が上がるが、衣服に顔を押し当てているのでよく聞こえないことにした。
 この娘は本当に面白い。
 ヒューベルトはしっかりとベルナデッタを堪能しながら、そう思うのだった。