深く昏い闇の中へ

 誰かが触れようとしている。
 私の眠りはひどく浅い。全身の産毛のひとつひとつに神経が通っているように、この身に起きようとしているささやかな異変を察知することができる。
 相手が何者なのかは分からないが、確かめてからでは全てが遅い。制圧してから確かめるのが定石だ。
 少なくも主ではない。それだけは保証できた。
 私は迷いなくその正体不明の手首を掴み、もう片方の手で首を鷲掴んだ。
 気道からひゅっという細く高い音が漏れた。
 まだ殺してはいけない。随分と歯応えのない相手で、あっさりと私の手中におさまっている。
 さて、人の寝込みを襲おうとした不埒な輩の顔を拝もうか。私は瞼をあげた。
 そこで、両目を見開いた。驚愕が顔面に張り付いて、背筋が凍った。
「ベルナデッタ殿!」
 そこには、よく見知った顔が苦悶に歪んでいた。すぐさま解放すると、彼女は崩れ落ちて背を丸めて激しく咳き込んだ。
 私の手はこれまでになく震えている。手首から先が失われたかのように手の感覚がない。
「申し訳ありません。すぐに医療班を呼んで参りましょう」
 長椅子から立ち上がってかがみ込み、彼女の顔を覗き込んだ。
 手は未だに震えているが、声は恐ろしいほどに冷静だった。
 ベルナデッタ殿の肌は白馬のように青白くなっていた。あと少しでも長く締め上げていたら、喉を潰していたかもしれない。
 医療班を呼ぼうとしても、彼女は咳き込みながらもたどたどしく必要ないと言って固辞する。
 恐るべき現実に頭がくらくらとした。私は彼女を殺そうとした。口の中がカラカラに乾いている。常ならよく回る頭もさっぱり動いてはくれない。
 ただただ何もできず、無力に囚われていた。何もできずにだらりと落とした手が、不意に掬いとられた。顔をあげると、ベルナデッタ殿が血が失せた唇で微笑んでいた。
「だ、だいじょうぶ、です」
 喉を潰されかけたせいで、小鳥の囀りのような声が台無しになっていた。
 傍には毛布が落ちていた。長椅子で眠りこけてしまった私にかけようとしてくれていたようだった。
 優しさを受ける資格がない男に対する仕打ちだろうか。
 私は目を合わせることができず、陽だまりのような温かみがある眼差しから避けるように逸らした。
「ほんとのほんとに……けほっ、だ、大丈夫です。驚かせて、ごめん、なさい」
 私の右手をベルナデッタの両手が包み込んでいた。それは先程、彼女の喉を潰そうとした凶器でもあった。
「ヒューベルトさんの手、震えて、ますね……」
 そう言って、ベルナデッタ殿は包み込んた私の手を少しだけ強く握った。
 聖女のような清らかさに引け目を感じながら、私は苦笑いを刻みながら首を振った。
「私などに近づこうとするから」
 嫌って欲しかった。この手を振り払って、すぐさま立ち去ってもらいたかった。
 自分のことをこれほどまでに情けない男だと思ったことはない。
 ベルナデッタ殿は近づきすぎた。私もまた分不相応な感情をもってしまったが故に、恐るべき失態を犯したのだ。
 これ以上は踏み込んではならない。お互いのためにならない。
 そう思って願っても、私は包まれた手を振り払うことはできず、ベルナデッタ殿もまた離すまいと強く握るばかりだった。
「ベル、ヒューベルトさんがいいんです、いけませんか?ダメ、ですか?」
 喉を震わせて、ベルナデッタ殿は言った。
 白い首に呪いのような指の痕。そのなだらかな頬を、涙が何度も滑り落ちた。
「困り、ましたな」
 深く長い、ため息。来た道をもう引き返すことはできないと、薄々分かっている。
 私はベルナデッタ殿を包み込むように抱きしめた。色づいた女の甘い香りが鼻をくすぐった。
「貴殿というひとは全く…… どうして」
 私の胸に頬を預けて、彼女はじっと動かずにいた。
 しばらくの間、私たちは全てのしがらみを忘れて、闇の中で一つに溶け合っていた。