短いお話① - 3/7

わるいゆめ

もしあたしがこの手を離したら
もしあたしがここで立ち止まったら
ヒューベルトさんは気づいてくれるだろうか。

 緩く握っていた手が、ヒューベルトさんの手からすり抜け、ヒューベルトさんはそれを全く気づいていないかのようにどんどん前へ進んでいく。

 固い石床を踏み鳴らす重苦しいヒューベルトさん長靴の音は、次第に遠ざかっていく。

 黒い外套が遠く小さくなって、黒い線のようになって、ヒューベルトさんは振り向くことなく、あたしの手が届かないところに消えてしまう。

「待ってください!待って!」

 喉の痛みを感じながら叫ぶ。もう、声が届かないところにいるってわかっているのに。手を千切れるほど伸ばして、あたしはヒューベルトさんを求め、よろけながら駆け出す。しばらくして前のめりに転んで、そこから子供のように泣きじゃくって、立ち上がる気力すら無くなってしまった。

 宮内卿が、穴熊ヴァーリと?
 何かの間違いでは?
 クスクス、きっと騙されているのよ可哀想な娘

 いろんな声、雑音が、嫌な話が、ぐるぐる巡って、耳を塞いでも聞こえてくる。
 いやだいやだと首を振る。ちがうちがうと繰り返す。
 恐怖は騒音となって、耳の中でうわんうわんとループしている。膝を抱いて、顔を伏せる。
 あたしは、ひとり、なの?

「ベルナデッタ、ベルナデッタ!」
 揺さぶられ、あたしは目を覚ます。すべて夢だったのだ。汗で寝衣が肌に張り付いて、涙で頰がぬれている。あたしは確かめるように指で頬をなぞった。
 あたしの両肩を抱いて、ヒューベルトさんが険しい顔で見つめている。
「ベルナデッタ?」
「は、はひ」
 返事を返すと、ヒューベルトから安堵の息が漏れた。
 夢なんだよね?
 あたしは焦点が定まらない視界の中で、ヒューベルトさんをぼんやりと見つめた。窄めた眦から、涙がすうっと頬を伝った。
「ひゅ、べると、さん?」
 あたしは手を取る。すぐさま強く強く握り返される。
 こんなに大切にしてくれているのに。あ、という掠れた声が漏れた。
「大丈夫ですか?」
「はい、はい…… 大丈夫、です」
 あたしはヒューベルトさんにしがみついて、その胸に顔を埋めた。頭を優しく撫でられると、ヒューベルトさんが帝都に向けて早朝に出立することを知っていてもなお、もう少しだけこうしていたかった。
「愛しています、信じていただけないかもしれませんが。心から、貴殿を」
 悪夢にうなされて、何か口走ったのだろう。ヒューベルトさんの口から、これまで聞いたことのないような言葉に、胸がぎゅうっと痛む。
「分かってます、ごめんなさい」
「良いのです」
 あたしたちは一つに重なったように抱き合ったまま、しばらくそうしていた。

 あと数節もしたら、あたしは、ヒューベルトさんの妻になる。