我が愛しのひと
息が上がっているのが、おかしなぐらいはっきりと聞こえている。小さな洞穴の中で丸くなっているようなぐらいに、はっきりとその音だけが聞こえていた。
ベルナデッタは膝を抱えたまま、凍えるようにガタガタと震えていた。握りしめたままの手を開くと、手袋には赤黒い何かがしわの形に沿って深くこびりついていた。
急に飛び出してきた敵兵と揉み合い、気づいた時には握りしめていた相手の短剣で相手の喉元を深く深く引き抜けないほどに突き刺していたのだった。
弓兵が敵を直接的に屠ることはなく、相手の肉の感触はベルナデッタにとって初めてのものだった。
見開かれた瞳は濁り、睨みつけるようにその目はベルナデッタへと向けられたままだった。もがくようにその手がベルナデッタの袖を強く握りしめていた。
自分がこれを?
よろよろと立ち上がり、呆然と死体を眺めていたところを、友軍に引き取られ、拠点へと引き返してきた。
頭の中にはまだ自らの手で殺した男の顔がこびりついていた。
「ベルナデッタ殿」
感情のない呼びかけに、ベルナデッタは口をぽっかりと開けたまま顔を上げた。
「そのようなことでどうするのですか。帝国貴族たる者、そのような有様では先が思いやられますな」
卑下た笑みが、その男の唇に浮かんでいるような気がした。
引き続きその男ーーヒューベルトは何かを説いているようだが、ベルナデッタの耳には何も入ってこなかった。
うるさい。
かちりと頭の中で怒りの火が灯された。
ベルナデッタはヒューベルトを強く睨みつけると、喉に力を入れた。
「うるさい!貴方に何がわかるんですか」
立ち上がると、ヒューベルトの胸ほどまでしかない低身長をこれでもかと怒らせて、怒鳴りつけた。
間近で怒鳴り声をくらったヒューベルトは、冷や水を浴びせられたかのように目を丸くしている。
ほどなくして、ベルナデッタは冷静さを取り戻した。キレた相手が悪すぎたと、自らの命運を心の中で祈り始めた。
「は、はは、ふ、ははは、はははははははははははははは!」
顔を空へと向けて、ヒューベルトは大声で笑い始めた。
「ひっ」
ヒューベルトが狂ったように笑い続けるので、ベルナデッタは小さな悲鳴をあげた。
「これはこれは失敬。面白い…… 貴殿はなかなか面白い逸材のようですな、ベルナデッタ殿」
ヒューベルトの白い手袋を嵌めた手が伸ばされきて、ベルナデッタはぎゅっと目を瞑った。
その手はベルナデッタの頬を撫であそんだかと思うと、それ以上は何もせずに離れていった。
「貴殿は非常に興味深い。しかし、目を瞑ってしまっては何をされても分かるまい。ゆめゆめ、注意された方がよろしいでしょう」
地の底に引き摺り込まれそうな声だった。それがベルナデッタの耳元でそっと囁かれた。
「やっ…… やだぁ!」
ベルナデッタは恐怖でヒューベルトの胸元を強く突くと、相手がよろめいた瞬間を見計らって駆け出した。
恐怖で頭がぐらぐらとした。ヒューベルトはひたすら笑い続けている。世界がぐにゃりと回って、ベルナデッタは体勢を崩した。
「怖がらせたようで」
ヒューベルトが歩み寄ってくる音が聞こえて、ベルナデッタは身体を起こした。差し伸べられた手に戸惑いながらも手を乗せ、立ち上がる。
「貴殿の貢献を楽しみにしておりますよ、ベルナデッタ殿」
微笑むその顔は悪魔そのものだと思った。ベルナデッタは黙したまま小さく頷く。
「貴殿は私のもの…… よろしいですね?」
「は、はい……」
催眠術にでもかけられたのか、ベルナデッタは自然と返事を返していた。
「さあ、参りましょう。ケガの手当てをせねばなりません」
二人が帝国貴族の出立でなければ、さしずめ人攫いと町娘のようにも見えなくない。
ベルナデッタはぎゅっとヒューベルトの手を握った。
「愛らしい方だ、我がベルナデッタ」