見知らぬ淑女とベルナデッタ

「あたくし、宮内卿のことお慕いしておりますの」
「はあ」
 いつのまに隣に並ばれていたのだろうか。ベルナデッタは気位の高そうな刺々しい声に曖昧な相槌を打った。
 横目で相手を伺うと、自分より頭一つ高い。ベルナデッタは女性では上背はある方だが、それ以上ともなると背の低い男性であれば見下ろす形になるだろう。
 全く見知らぬ人物だ。初対面であるのに、刹那、向けられた視線は鋭く、やけに挑戦的だ。
「何度かお声はかけているのですけど、なかなか応じてくださらなくて」
「はあ」
 なんでこんな話を聞かされているのだろう。この場を離れる方法を内心で探りながら、ベルナデッタは相槌を打つ。
 視線の先にはグラス片手に歓談するヒューベルトの姿。黒衣の衣装はそのままに、今日はやけに社交的だ。薄い唇が緩やかに弧を描いているのが遠目にも見て取れる。
 仕事だろう。彼のやることには何か裏がある。ベルナデッタはそう思って息を吐く。そのターゲットが自分でないことだけは明らかで、他のことは何もわからない。
「もう少ししたら舞踏の時間。あたくし、宮内卿をお誘いするつもりよ」
「へえ」
 ベルナデッタは隣の彼女の顔を見上げた。彼女はじっと熱い眼差しをヒューベルトへと向けていて、ベルナデッタには目もくれない。相手にしていないのなら何故一方的に話しかけてくるのだろう。ああ嫌だなと顔を背けて、深い紅色の絨毯を見つめた。
「貴女はよろしくて?」
「何が、ですか?」
 ベルナデッタの声にはいささか苛立ちが含まれていた。
「ヴァーリ伯、ベルナデッタ様? 宮内卿とお噂があると聞いてますのよ。貴女、私が暇そうな方を見つけて独り言に付き合わせたと思って?ほほほ」
 高らかに笑い飛ばされて、ううとベルナデッタは呻いて、いじけた子供のような表情を浮かべた。
「そんなんじゃ、ないですよ」
 対称的にベルナデッタの声はぼんやりとして輪郭がない。噂は噂のまま、つぶやいた通り、ヒューベルトとは何事もないのだ。
「べつにぃ、領の経営を手伝って貰ってるだけですから、そのぉ、あのひとの職務の一環で」
 話しているうちに、嫌な気持ちになってくる。見知らぬ人との会話はいつまでも慣れない。緊張して手袋の内側がじんわりと汗ばみ始めた。
「ふぅん。あたくし、絶対、ヒューベルト様を射止めてみせますわ」
 ベルナデッタは相槌を打たなかった。返事が面倒だったのと、同意を示したくはなかった。その感情が混在していた。
 改めて好敵手を見上げる。
 長い栗毛の毛先にはカールが施され、丸く華奢な肩に、首元には豪奢な首飾り。白い肌に赤い口紅で彩った唇。長いまつ毛は上向きに整えられ、色素の薄い瞳は人を寄せ付けない冷たさがあった。
「あ、あたしは…… べ、別にそんなんじゃ、ないです。だから、さっき言った通りですね」
「ヒューベルト様とは恋仲ではないということですわね」
 ベルナデッタが言い切る前に、ぴしゃりと話を打ち切られた。
「そっ、そうです」
 見れば見るほど、気後れしてくる。声のふるえを目一杯抑えて、瞼を浅くふせた。
 ヒューベルトとは親しい仲だ。領の経営の指導を受けるうちに自然と距離が近づいたものの、それが一般的にいう恋仲なのかと問われてもはっきりした答えがない。
 ヒューベルトは女性にモテる。ベルナデッタがその事実を知ったのは、アドラステア帝国がフォドラ統一を果たした後のことだった。
 後ろ暗いものがある人間にとってみれば彼は恐怖の対象でしかないが、そうでない人間には彼は徹底して教育された貴族の男性としての品のある態度で応じてくれるのだから。指先まで意識が行き届いた美しい所作でエスコートされたら、きっと気分は上がるだろう。
 彼に好意を寄せる女性は宮城にごまんといると、ベルナデッタはドロテアに煽られたこともある。煮え切らない態度に仲間たちが業を煮やしていると分かっていても、自分の容姿に自信が持てず、こうして実際に挑戦を受けてもこの有様だ。
「貴女がそのような態度でしたら、あたくし、宮内卿をお誘いしますわね。この後の時間も一緒に過ごしていただけないかお尋ねするつもりですの」
「そっ、その後の時間?」
「あたくしたち、もういい大人ですのよ。はっきり言わなくても分かるでしょう?」
「はっ、はい」
 ベルナデッタの頰にさっと朱が浮かんだ。この後の時間、もしヒューベルトが応じたら一夜を過ごすのだろうか。そんなことが浮かんだからだった。
 ベルナデッタもそれから2つほど年上のヒューベルトも、適齢期だ。そんな夜があってもおかしくはない。先日迎えた25歳の誕生日を一人で過ごしたことを思い浮かべる。母からはそろそろ相手を見つけるようにと頻繁にお小言が認められた手紙が届く。
 ヒューベルトはどうだろう。
 ベルナデッタは顔を上げて、ヒューベルトを見た。彼は二人の年配の男性と歓談に興じていて、ベルナデッタには気がついていない。
 何のために呼ばれたのだろう。
 ベルナデッタは心の内でヒューベルトに尋ねた。よくも分からないままこの貴族のつどいに来るように言われ、ベルナデッタなりに着飾って乗り込んだのだった。そうであるのに、ヒューベルトからは一向に声をかけられない。
「じゃ、ごきげんよう」
 気がつけば、音楽が流れ始めていた。考え込んでいる間に、演奏隊が入室したらしい。
 隣にいた彼女は律儀にベルナデッタに別れの挨拶をして、ヒューベルトへの元へと踏み出した。華奢な足首から生み出されたと思えないような力強い一歩だった。ほぼ剥き出しの背中はピンと伸びて、自信の程が伺えた。
「あたしも、あんな風に…… ヒューベルトさんと……」
 独り言が勝手に滑り出していた。
 彼女がヒューベルトに声をかける。二人はしばらく会話を交わした後、ヒューベルトが彼女の腰を抱いた。
 全身の産毛が逆立った。ベルナデッタは息を飲む。二人は慣れた様子で、舞踏の輪の中に滑り込んでいった。蚊帳の外のベルナデッタは壁と親しくしたまま、呆然とそれをただ見届けることしかできなかった。
 自分が悪いのだ。彼女は正々堂々戦いを挑んできたのに、それに対して不甲斐ない態度で応じて、こうして先を越されているのだから。胸がじくじくと痛む。唇を浅く噛む。足の感覚が無いのは、慣れない靴のせいではない。
 ベルナデッタは生きた心地がしなかった。ヒューベルトに淡い感情を抱いてはいたが、こんなにもヒューベルトのことを男性として想っていたとは思いもしなかった。今更、もう遅い。泣き出しそうになりながら、熱気を帯び始めた会場へと目を向けた。
「ヒューベルト、さん」
 ヒューベルトと目があった。あたしはここにいます、と伝わらない心の内の呟きを漏らす。彼は腰を抱いて踊る女性ではなく、じっとベルナデッタを見つめていた。その眼差しには引き摺り込まれそうなぐらいの鋭さがあった。ベルナデッタは応じるように、手を上げた。彼は合図を送るように小さく頷いてみせた。

 舞踏の時間が終わり、会場は歓談の時間が訪れていた。先程までとは違うのは、舞踏で親しくなったのだろうか、男女の組み合わせが心なしか増えていた。
「失礼ですが、ベルナデッタ様ですね?」
 声をかけられて、振り向く。この会の係員のようだった。給仕の姿をした男性が恭しく礼をしている。
「は、はい。あのう、あたしに何か用事でも?」
 ベルナデッタは、軽い疲労を覚えていた。人付き合いの少なさから、こうした場はただでさえ疲れるのに、それまでの一連の出来事に心の整理で頭の処理能力がフル活動していだからであった。
「ええ、ヒューベルト様より言伝を預かっております」
「ヒューベルトさんから?!」
 思わず声が跳ね上がって口元を両手で覆う。目の前の男性は穏やかな表情で笑ってゆっくりと頷いた。
「この邸宅の三階の露台にお越しくださいとのこと。この会場の扉を出て左手に向かいますと、三階への階段がございます。露台は階段を上がって正面の出入り口を抜けたすぐ先です」
「あっ、ありがとうございます」
 ベルナデッタは勢いよく頭を下げて、早足で歩き始めた。どういう用件かはわからないが、暗闇にさっと光が刺した。昔なら処されると恐れたかもしれないが、今はそんなことは少しも浮かんでこない。不安が全く無いわけではなかったが、彼に会いたいという気持ちの方が明らかに優っている。
 三階への階段の前にいくと、塞ぐように警備員がいた。どうしようかと狼狽えていると、彼らはベルナデッタを見るや否や「どうぞ」と、あっさりと道を譲った。
 頭を下げて、階段を見上げる。
「よし、行きますよ」
 ベルナデッタは一つ一つ硬い階段を登りはじめた。慌てているせいで心臓が脈打っているのか、それとも、急展開に気分が躍っているのか、ベルナデッタにも分からなかった。
 階段を上がりきると、髪と裾を整えて、ゆっくりと長く、胸に手を当てて息を吐く。それから気持ちを蹴るように頷いて、ぽっかり空いた露台への入り口へと踏み出した。

「お待ちしておりました」
「ヒューベルトさん」
「理由も告げずにお呼びだてして、申し訳ありませんでした」
「いいんです」
 ヒューベルトは月の光の中にいて、ベルナデッタに対しては背を向けていた。聞き慣れた声にほっと胸を撫で下ろし、ベルナデッタはヒューベルトに歩み寄って、その隣に並ぶように立った。
 この位置が、いつの間にか定位置のようになっていた。ベルナデッタにとって、心地よい場所。跳ね上がっていた心音が次第に静まっていく。
「とても綺麗な庭園ですね。すごい、こんなに…… ここまでにするのはとても大変じゃないでしょうか」
 眼前に広がろのは、色とりどりの薔薇の数々。植垣で作られた迷路に、日中は水鳥が遊んでいそうな楕円型の小さな池。手入れが行き届いているというだけでは言葉が足りない。一体何人の手によって管理されているのだろうか、隙がない。暗闇に浮かぶ芝生は短く刈りそろえられていて、薔薇の色合いも絶妙に計算されて配置されている。この露台から見下ろせば、一国の主になった気持ちになる。それはまさに現実の世界に現れた一枚の巨大な美術画だった。
 ベルナデッタは魅了され、うっとりと目を細める。なかなか見ることのできない貴重な景色ーー それを、ヒューベルトと共に見ている。恋仲であったら彼の腕を取って頬を寄せたいぐらいに幸せな気持ちで満たされていた。
「全ては貴族がなせる技。くだらぬ金持ち趣味……と言いたいところですが、貴殿が喜ぶと思い、お誘いした次第です」
「あ、ありがとうございます!」
 ベルナデッタは弾んだ声で礼を述べると、ヒューベルトを見上げた。彼は浅く笑んでゆっくりと頷いた。
 目が合い、胸が高まる。他には誰もいない。二人きりの時間。何らかの変化が訪れるような、そんな空気をベルナデッタは肌で感じ取っていた。
「私にはこの庭園より本日の貴殿の装いのほうに興味がございますが……」
「ありゃ、やっぱりこの格好、おかしいですか?」
 ベルナデッタはおずおずと尋ねた。
 気合いを入れすぎたかと不安になって、裾の長い夜会服を指で摘んで僅かに引き上げる。
 肩がむき出しの袖のない服はなんとなく落ち着かない。上質の絹で織られた生地はさらさらとしていてつやがあり、夜の中にあって灯火のように浮き上がってみえた。
「いいえ、このように艶やかな貴殿を目にするのは初めてのことかもしれませんな。よく、お似合いですよ」
「ほ、ほんとですか? お世辞じゃない、ですよね」
「世辞は言わぬ主義だというのは、貴殿がよく存じているのでは?」
「そうでしたね。やだ、あの…… そんなにみないでくださいよう」
 風で乱れた横髪を耳にかけて、ベルナデッタは誤魔化すように照れ笑いを向けた。ヒューベルトからじっと見つめれるものだから、こそばゆくて仕方がない。
「これは、その…… 失敬」
 いつにないヒューベルトの様子に、目を合わせていられない。そのまま囚われて、全てを奪われてしまいそうな魔力があった。
「あの、そういえば、さっきの方は?」
「ああ、丁重にお断りいたしました。とてもご熱心にお誘いいただいたのですが」
「そ、そうですか」
 ヒューベルトは彼女より、自分を選んだのだろうか。そう思いながらも、素直に喜べない。
 恋に敗れた相手に同情の念が浮かび、ベルナデッタの声音は沈んだものになった。つんけんした態度ではじめこそとっつきにくい人だったが、悪い感情は抱かなかった。それは、同じ人物に想いを寄せた同志であったからかもしれない。正々堂々とした歯切れの良い態度と佇まいに、羨望の念を抱いたといっても過言ではない。
「貴殿とも長くなりましたな」
「はい、ヒューベルトさんは、そのお、ベルに関わるのはお嫌かもしれませんが」
 ヒューベルトは何も返さなかった。見上げた横顔は硬さが浮かび、何か別のことを考えているようにも見えた。
「私と貴殿も、そろそろ、関係を見直さねばならないと思いましてな」
「えっ」
 これでお終いということなのか。ベルナデッは急に怖くなって、夜会服の裾をぎゅっと握りしめた。彼女も恋に敗れ、同じく自分も最後通告を申し渡されるのか。
「ベルナデッタ殿、いいえ、ーーベルナデッタ」
 震える手を覆うようにヒューベルトの手が包み込んだ。呼びかけに、ベルナデッタは顔を上げた。敬称なく呼ばれた名。ひとつ壁を超えた気がするが、その先を聞くのが怖くて仕方がない。両手で耳を塞いでしまいたいぐらいだった。
「そのような意味ではないのです。ええ、何と申しますか、貴殿が想像するような、悪い……」
 曇り切った表情に、ヒューベルトは僅かに狼狽えた。彼は一呼吸置いてから、自分に向き直らせるようにベルナデッタの両肩に手を置いた。
「悪い、こと、ですか?」
「いいえ、悪いことではないのですよ」
 ヒューベルトの低い声は丸く温かみを帯びていて、ベルナデッタは少しばかり落ち着きを取り戻した。
 ヒューベルトの背後の空には月がぼんやりとした輪郭で浮かんでいた。雲ひとつない。まるで彼を照らすためだけに存在しているようにも思える。彼は困惑に満ちた表情でベルナデッタをじっと見つめていた。
「時期を逃すと……というのはまさしく。今更ではございますが、貴殿にお伝えしなければと」
「何、でしょうか」
 悪い話ではないと言われたが、いきなり実は妻子があるとかそんなことを言い出すのでは。ベルナデッタの胸の中の不安は一向に晴れていなかった。
「あの……」
 ヒューベルトが珍しく、躊躇って言い淀む。その喉仏が上下した。何か大切なことを言葉を選んで告げようとしていることは、分かった。
 冷たい夜風が木々の葉を揺らし、あたりがさざめいた。
「私は確かに主の命で貴殿の領の統治を補佐しているわけですが、それだけではないのです。私は私の意思で定期的に貴殿にお会いしておりました。それはひとえに……」
 ヒューベルトが言葉を切った。肩に置かれた手に僅かに力が入った。ベルナデッタは勇気づけるようにその手に自分の手を重ねて微笑んだ。
「貴殿を愛しているからです」
 その言葉を聞き終えてベルナデッタがしたことは、ヒューベルトにしがみつくことだった。ずっと触れてみたかったその身体に、躊躇いもなく思うがままに身を委ね、その広い胸に顔を埋める。
「あたしも、あ、あたしも…… ヒューベルトさんが大好きです!」
「ええ、ええ。よく、よく聞こえておりますよ」
 必要以上に声が大きくなってしまって、ヒューベルトからクスクスと笑い声が漏れる。ここは夜会の会場であることをすっかり忘れてしまっていた。
「ひゃあああ、ベル。他に誰かいるのを忘れてました」
「良いのです。この階は私が全て掌握しておりますから」
 愛しむような手つきで、ベルナデッタの頭がなでおろされる。でもだってだってと言ううちに、嬉しさと安堵と、それこらこれまでのこと全てが巡って、目が熱くなってきた。
「あの、あのっ…… 夢じゃ、ないですよね? これ、お仕事の一環ですか? あたし、あたし……っく」
「どちらも違います。現実ですし、仕事でもございませんから。嗚呼、ほら、泣かないでください」
「だって、だっえ、あたしなんて絶対っ、無理だってぇ」
 次々と溢れ出る涙がヒューベルトの衣服を濡らす。ベルナデッタは頬を押し当てて、鼻をすんと鳴らした。
「もう少し早くお伝えすべきでしたが、ずるずるとこの関係に甘えてしまいました。申し訳ありません」
「ベルのこと、ずっと、好きだったんですか?」
「ええ。知らぬ間に貴殿に惹かれておりました。これまでのこと、許していただけますか?」
「は、はい。もちろんです」
 ベルナデッタはそう言って、顔を上げた。ヒューベルトを見上げて、にこりと笑う。涙で濡れた頬をヒューベルトが撫でると、子猫が甘えるように擦り寄せた。
「ヒューベルトさんがいるなら、そばにいてくれるのなら。だから謝らないでください」
 ベルナデッタはそう付け足して瞼を伏せる。続いて安堵したのか、ヒューベルトの鼻息がベルナデッタの前髪を揺らした。
「ええ…… 貴殿と共に。もとよりその覚悟です」

 夜風に吹かれながら、身体を寄せ合って庭園を見下ろす。何かに誘われるように見つめ合い、それから間もなく、露台に伸びた二人の影が一つに重なった。