あなたの心を教えて

 ベルナデッタは帝都にいた。

 ヴァーリ領を出ることはほとんどないし、敢えて出たいとも思わない。観劇したり、オシャレなお店での食事に憧れたりしないわけではない、人が多すぎる。自然豊かなヴァーリ領で、更にその中の屋敷の一室の箱庭で過ごしていた彼女にとっては、帝都に住まう人間、例えそれが平民であったとしても、洗練されて見え、自分は田舎者という勝手な引け目を感じずにはいられない。帝都にとって自分は異質な存在であり、水が合わなず、どこに行くよりも気が重く、全く食指が伸びない場所であった。

 それでも帝都を訪れるのは、ヒューベルト、その人からの誘いあってのことだ。
初めて誘われたときは、戦中に活動を大幅に縮小していたミッテルフランク歌劇団の復活公演の枡席のチケットが二枚あるということで、ベルナデッタであればせっかくのチケットも無駄にならないだろうからという理由だった。

 観劇の最中に会話をするのはマナー違反というのは当然のことだが、そのときヒューベルトと言葉を交わしたのは、はじまりと別れの挨拶と、観劇後に彼が予約していたレストランで食事の感想を交わしたぐらいだ。果たして彼にとって楽しい時間を過ごしたのか評価しがたく、いずれにせよもう次はないだろうと、その時のベルナデッタは大層落ち込んだのだった。

 ところが、散々とも思える時間を過ごしたにもかかわらず、その後も別の理由で《日帰りデート》は引き続いていた。今回の日帰りデートを含めると、そろそろ両手で数えきれないぐらいになるところだった。”日帰りデート”と定義したのは、今やエーギル候であるフェルディナントの伴侶となったドロテアである。

 ヒューベルトとの一連の出来事を相談するや否や、まるで珍しいものを見つけたかのように瞳を輝かせ、まるで自分のことのようにはしゃいでみせた。
どんな理由で誘われたとしてもデートだと思うようにということ、服装とメイクには気を払うようにと散々言われ、それから回を重ねるごとに自分の外見ついては少しばかり洗練されてきた気がしなくはない。
今日は柔らかな素材を基調とした―― 歩くたびに裾がふわりと可憐に揺れる自分の髪の色彩のフレアワンピースを着用し、その上から濃い茶色の襟なしの厚めのコートを選んだ。帝都に着いてみたら、今にも雪が降りてきそうな雲空に肌を突き刺すような寒さで、マフラーでも巻いてくるのだったと後悔した。

 待ち合わせ場所は新たに建設された歌劇団の劇場の招待者専用の入り口で、表側にある通常の観劇者とは正反対の入り口にあり、市井の徒と交わることはない。重厚な木造の扉は以前の劇場から移設したものとかで、真新しい建物と対照的な古めかしさが漂っているが、ミッテルフランク歌劇団の歴史の深さを物語っている。

 ヒューベルトは待ち合わせ時間には忠実だ。早く来ることもなければ、遅れることは決して無い。
馬車の都合もあり、ベルナデッタは予定の時刻より少し早く到着した。色々と考えてしまうので、待つのは苦手だ。この待ち合わせ場所は、人目につかないように設けられていて、ただ眺めておくだけにちょうど良い景色がない。待っている間や、馬車での移動中に考えるのは、彼を迎えるときにどんな表情で、どんな言葉をかければよいのかということだが、結局、決めきれずに不自然な笑顔と、天気に関係したことを投げかけることになる。
 そんなことを考えていると、曲がり角から颯爽と黒い外套を靡かせ、背筋を一直線に糺したヒューベルトが現れた。彼の長靴が石畳を規則正しく打ち鳴らしながら近づいてくるたびに、ただ立って待っていれば良いのに、心が妙にそわそわして、じっとしていられない。下腹部のあたりで組み合わせた手と手で、そわそわと指と指をすりあわる。

「お待たせしたでしょうか」
「だっ、大丈夫です。私も先ほど着いたばかりです」

 ヒューベルトに気を遣わせずに済むような立ち振る舞いができない自分がもどかしい。
自分たちと同じように入場していく男女は、僅かに曲げられた男性の腕に女性がやんわりと手を添えていて、親し気な関係性を余すことなく体現している。小さな声で囁くように会話する様は、上流階級の香りがした。ヒューベルトともそんな関係になれればと憧れなくはないが、今のところは隣にいるとはいえ、ただ並んでいるだけで、近くにいるようで遠い。
この帝都での観劇に誘われたのもどうしてなのか尋ねられないまま、エーデルガルトを思わせる紅の絨毯が敷き詰められたサロンを抜けて、ホールへと辿り着いた。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」

 升席にはカクテルグラスを二つ置けるぐらいサイズの丸いテーブルを挟むように一人掛けソファが備え付けられている。他人を気にすることがなく観劇ができるので、人目が気になるベルナデッタには劇に集中できる。背もたれに手をかけて着席を促す所作は、動きに無駄がない。少しだけ彼の特別になったような気がして、つい頬が緩んでしまう。開演前に観劇に誘ってもらったことに対して礼を言うつもりが、着席してすぐに開演を告げる音が鳴り、何か言いたげな顔つきでヒューベルトの横顔を見つめるだけで終わってしまった。

 劇は、国を滅ぼされた青年が一国の王となるまでの話だ。盛り上がる場面はいくつかあるのだが、特に戦をくぐり抜ける中で恋仲となった女性との別れのシーンは一番の見せ場となっている。

 ベルナデッタはこの話を何度も読んでいたので、最初は互いに好ましく思っていなかった二人が、激しい戦いの中で信頼を少しずつ築き上げ、異性として意識していることを認識し想いを通わせたところで死に別れてしまうことを知っていた。というのに、俳優の迫真に迫る悲痛な歌声と、それを表現するようなバイオリンの単奏の旋律に誘われ、死に分かれるということが先に分かっていても、涙がとめどなくあふれ始めた。その二人に心の内でひっそりとヒューベルトと自分を重ねたのは、次期皇帝の従者と引きこもりで足手まといの自分から、国土統一の戦いの中で背中を預けあえるような関係になり、そして今はこうしているからだろうと思った。

 もちろん、死に別れてはいない。ただ、もし死に別れるようなことがあればと思うと、たまらなく苦しくなるし、そのような不吉なことは間違っても考えたくない。
会場内からもすすり泣く声が風が囁くように聞こえはじめた。
すん、と鼻をすすると、目の前に真白いハンカチが差し出された。視線をヒューベルトに向けると言葉無く僅かに頷いて、その双眸が僅かに細められた。ベルナデッタは汚さぬようにハンカチの角でそっと瞳の端に滲む涙をしみこませた。

「わかっていたんですけど、やっぱり感動しちゃいました」
「一番の見せ場ですからな。感動で涙していただかなくては、彼方もプロの役者の意地があるのでしょう」

 テーブルに乗せられた白く四角いお皿の上に載せられた魚のソテーを切り分けながら、ベルナデッタは苦笑した。いつもは静かな食事の時間も劇の感動が未だに体中を駆け巡っていておさまらず、唇が滑らかになっている。ヒューベルトの方は、レア気味に焼かれた獣肉を小さく切り分け、パンを小さく千切った上に載せて口に運んでいる。彼は血なまぐさい獣肉が好物だという。

「結ばれて欲しかったですよ。意地悪な作者だって、ベルは思うんですよ」
「しかし、人の命の重さはすべて同じ。敵も味方も、そして、それが愛する者であっても」
「でもでも、ヒューベルトさんにとって、エーデルガルトさんは、そうじゃないですよね」
「その質問にはお答えできかねます」
「ふふーん、だとしたら、やっぱりさっきの論理は破綻しています」

 人差し指をタクトの左右に振って、ベルナデッタは笑みを深くした。
私にとってはそれがあなたなんです、なんて言えたら良いのにと思いながら、窓の外へと視線を向け、つい物憂げなため息を吐いてしまう。窓の外はそんな気持ちを組んだかのようにどんよりと淀んでいていて、今にも雪か雨かが降り出しそうだ。

「天気、悪いですね」
「ええ、今夜は雪が降るかもしれません」

 食後のお茶に興じた後は、馬車の時間までは街を歩くことにした。

 先ほどまでの勢いはどこにいってしまったのだろうか。
 会話が全くなくなってしまった。エーデルガルトのことを口にしたときから、喉に何か引っかかっているような違和感を感じる。先ほどの昼食で食べた魚の鱗か小骨が喉のあたりに張り付いているのかと思っていたが、そうではなさそうだ。
 自分からエーデルガルトの話を持ち出しておいて、勝手に落ち込んでいるのだと、ベルナデッタは思った。彼女はヒューベルトの愛する人であるし、決して勝てないし、かなわない相手なのだ。そう思うと、更に伏し目がちになり、視線は石畳に向けられた。どこまでもきっちりと敷き詰められた石畳は代わり映えがしない。味気ない同じ景色がずうっと続いていて、まるで、自分とヒューベルトの関係のようだ。
 はぁ、と吐いた息は長く、白い煙が吹き出されていく。寒さで頬がピリピリとした。

「寒いのですか?」
「はっ、はい。ええっと、少し薄着すぎたかもすれません」

 ヒューベルトから口火を切るのは珍しい。退屈しているように見えているのだろうか。
隣にいるだけで、言葉なんかなんても幸せなのに、それを表現できていない自分がもどかしい。ベルナデッタは、会話がほとんどなかったとしても、陽だまりのような温かみがあり。隣にヒューベルトの存在があるだけで不思議と心が落ち着くのだった。

 彼の横顔が好き。
 痩けた頬と、浮いた頬骨のラインが好き。
 時折、投げかけられる猫のような瞳の色が好き。
 ドジをして呆れられたときの眉間の皺が好きだ。意外と長い睫毛が好き。

 あんなにも怖かった彼なのに、今は、こんなにも彼への想いに溢れている。こうして何度か誘ってくれている真意を尋ねてみたい。この時間が彼にとって楽しいのか、どんか時間なのか聞いてみたい。全てが自分の弱さで叶わない。

 乗り合い馬車の停留場は、帝都の外れの林の中にある。
ヴァーリ領に戻るためには帝都から深い森を抜けて半日ほど北上する必要があり、いつも辿り着くのは真っ暗闇に包まれた夜中になる。本当はもうもう少し一緒にいたいのだが、夕方の便が最終で、いつも昼から夕方までの数時間しか過ごせない。

 どんどん林に分け入っていくと、町中より更に気温が下がった気がする。
草花も温かい時期までは眠っており、また、虫や鳥の音すらせず、二人のように静かだ。指先が特に冷え切って感覚がない。擦り合わせながら湿った息を吐きかけても暖かさはすぐさま消え去ってしまう。

「冷えてきましたな」
「そうですね」
「少し、失礼します」

 擦り合わせていた片方の手の首を取られ、そのまま彼の骨張った大きな掌に包まれた。
急なことにヒューベルトに視線を投げて尋ねても、ヒューベルトの表情からは感情を読み取ることができない。
 こんな形で触れられたことなんてどんな記憶は出てこない。
凍り付いていた血が一気に熱を帯びて両の頬に集まり始めた。何も言えないままいると、いつもそうしているかのように握られた手は、するりと彼の外套のポケットに招かれた。

「嫌でしたら、止めますが」

 あの、えっとばかりを繰り返し、その先に進めない自分が情けない。止めてなんて欲しくない。この行動をどう受け取っていいのか舞い上がっていいのか、どう表現していいのか分からずに戸惑っているだけなのだ。

「えっと、こ、このままでっ…… いいです」
「それは重畳です、承知いたしました」

 ベルナデッタはすっかり舞い上がってしまって、うまく声を出すことができない。
 ヒューベルトは何を考えているのだろうか。
 回らない頭で彼の横顔を見ると、薄く笑んでいるようにも見えるが、天気が悪いうえに伸び切った木々によって光が遮られ薄暗く、どのような表情なのかは今ひとつはっきりしない。
握られた手から彼の手袋を通して、はっきりとその存在を体感している。いつもより近く、まるで寄り添うように、時折腕と腕を触れあわせながら、木々の間をすり抜けて歩く。

「何か言いたいことでもあるのではないですか」
「ヒューベルトさん、ベルと一緒にいて楽しいのかなと思ってたんです」
「ほう、私は自分がしたくないと思うことはしない主義ですし、貴殿もそれを理解されていると思いましたが。最初から貴殿と過ごしたくてお誘いしたのです」

 ヒューベルトの口から飛び出した事実は、ベルナデッタを大層驚かせた。
へっ、と短い声をあげてヒューベルトを仰ぐと、彼は「はて」と漏らして惚け、僅かに小首を傾げた。

「あのっ、ほ、ほ、ほんとにですか。だって、あんまりお話もしないし、楽しいのかなとか思ってたんですよ」
「私は昔から多弁ではございません。貴殿も存じているでしょうに」
「そうですけど」

 今までヒューベルトのことで思い悩んでいたのは何だったのだろうかと思うと、どうしても悔しくて、ベルナデッタは唇を僅かにとがらせた。

「卑怯だったかもしれませんな。私は真意を告げぬまま、貴殿が自然と理解してくれているだろうと思っていたわけです」
「そ、そーですね」

 ヒューベルトの声はいつになく優しいテナーを奏で、ベルナデッタの心を擽る。
 繋いだ部分が熱を帯び始め、交わされる言葉と裏腹に、ポケットの中では指と指が絡み撫で合い、番を求めあう。あたかも身体を交わらせているような艶めかしさに、ベルナデッタは妙な気分になってきた。

「もしベルがずっと気がつかないままでしたらどうしたんですか」
「そのまま変わらずにいたかもしれませんな」
「それってどうなってもいいってことなんですか? ほ、ほら、関係を進めようとか、そのぅ、ねぇ?」
「では、今日これより進めればよいのです」

 ヒューベルトの言葉に続いて、ポケットの中の手が離れていく。
 身を翻したヒューベルトは、ベルナデッタの両肩に手を置いて、惑う視線を覗き込んできた。今どんな顔をしているのだろうか、おかしな顔ではないだろうか、ぐるぐるとあらゆることが頭の中を巡って何周もしている。

「もし嫌でしたら今すぐに申し出てください。二度とお誘いもしなければ、このようなことも致しません」
「そんなこと、なんで今更尋ねるんですか。苦手な帝都もヒューベルトさんと過ごせるから来るんです」

 あなたが好きなんです。

 ベルナデッタがいつも続けられない愛の言葉が喉元から放たれ、離れていく。
 あんなに吐き出せずに大切に隠してきた気持ちなのに、放たれた今は、もう名残惜しさはない。向けられた想いと言葉にふっ、とヒューベルトは短く息を吐いたのを認めた。その顔には嫌悪の色はなく、どこか呆れているような、観念したかのような不思議な表情だった。

「くくく、貴殿という人は、臆病だというのに、いざというときは驚くほど勇敢であるで、いつも驚かされますよ」

 あなたが好きなんですの返事がこれだから、いかにもヒューベルトらしい。
 彼の辞書には愛の言葉は存在しないのだろうか。気が付くと、瞳に映るヒューベルトがどんどん大きくなってきて、彼の息遣いがやけに近くに聞こえはじめた。

ベルナデッタは、静かな朝の湖の透き通った波一つない水面のような心持で瞳を閉じた。
 あぁこれからキスするんだろうなぁと思っていると、しばらくして唇に微かな感触があり、すぐさま消え去っていった。

 

 ベルナデッタは自宅の書斎で、ヒューベルトとの一日を丁寧に思い返しながら、羽ペンを羊皮紙に滑らせていた。
夢でなかったと言い聞かせるように、明日からの自分に残すように、自分の感情を包み隠さず、文に息を吹き込んでいく。別れ際に囁かれた一言を書き留めて、一人で悲鳴をあげ、恥ずかしさのあまり座っていられず立ち上がった。

 ”次は宿泊されるとよいでしょう”

 事務的な言葉がこんなにも艶めかしく聞こえるのはなぜだろう。ベルナデッタは彼を想って、瞳を細めた。