その2 :
酔っ払いの面倒を見ることになるとは。ヒューベルトは恨めしい気持ちを腹に抱え、ベルナデッタを見た。彼女は布団の中で眠っているかのように、穏やかな寝息を立てている。叩き起こしてやっても良いのだが、疲労が蓄積されているせいかそんな気力はなかった。
ベルナデッタはすっかり脱力しきっているようで、遠慮なくその身体をヒューベルトに預けている。その無防備かつ気楽な様子に、まともに付き合おうとしているのもバカらしくなって、ヒューベルトの怒りも次第におさまってきた。これが自分でなければどうなるのかわかっているのか。目が覚めたら教育的指導をしてやらねば、危なっかしいことこの上ない。ヒューベルトはベルナデッタの丸い頭に思念を送るような眼差しを向けてから、一人相撲に疲れてため息をついた。
ヒューベルトの二の腕に密着しているベルナデッタの身体は衣服を通してでも温かく、そして、真綿のように柔らかい。いつまでもぬいぐるみを抱えて歩いてそうな幼さ残る少女だと思っていたが、こうして間近でみる彼女は辛口のヒューベルトにとってもすっかり大人の女性だ。ヒューベルトの胸ほどしかなかったベルナデッタは、今や肩に頭を預けられるほどに背丈が伸びている。手入れが行き届いていなかったのか自由に伸び散らかした髪は、美しく切り揃えられ、月光に照らされて淡い光の輪を作っている。風がそよげば、酒精が入り混じった甘い香りが誘うようにヒューベルトの鼻腔をくすぐった。
普通の健康な男性なら平常心を保つことは難しいだろう。ヒューベルトはそう思った。
ベルナデッタは色気が全身から立ち昇っているような種類の女性では無いが、彼女の衣服はその華奢な身体にぴたりと沿うように作られている。胸元は誘うようにうっすらと谷間の線が見えていて、首筋が噛んでくださいというように無防備に曝け出されている。
盛りのついた男が指一本触れずにいられるはずがない。正規の帝国軍にはそうした人物はいないかもしれないが、傭兵になってくると話は別だ。酒に女、そして、報酬。彼らは喜んで差し出されたものに手を出すだろう。視界の端に映り込んでいるその華奢な手首を寝台に押し付けられたら、さすがの彼女も奇声を発する前にしおらしく涙するのだろうか。それとも、耳をつんざぬくほどの奇声をあげて相手を怯ませるのだろうか。ヒューベルトは乏しい想像を働かせては、苦笑いを刻む。ヒューベルトの中ではベルナデッタと艶事は結びつかない。
ヒューベルトは、自分自身はその輩の一員になることはないという自信があった。鋼の自制心をもってすれば、このような身体的接触ごときで揺らぐはずがないと思っていた。たとえ、二の腕に乳房が押し当てられていたとしても、ヒューベルトの中で性的な欲望はおきる気配すらない。ヒューベルトは冷静に、他人から見たら、この状態はお互いにとって全く好ましくないと感じている。
夜風が気持ちいいのだろうか、ベルナデッタは起きる気配がない。垂らした前髪をかき上げるとヒューベルトは夜空を見上げ、少しだけ瞼を伏せた。あれだけ恐れていた己にこの娘が絡んでくるのかは分からないが、何故か付き合ってしまう。呑気でマイペースな彼女に呆れなくはないが、たまにはこういうのも悪くない。彼女の方に顔を向け、兄にでもなったような気分で穏やかな寝顔を見つめていた、そのときだった。それまで寝息だけ立てていたベルナデッタの口元がわずかに動いた。
「……好き、です」
ヒューベルトの地獄耳は、ベルナデッタの微かな呟きを一つ残さず拾い上げた。起きているのだろうかと様子を伺ったが、両の瞼はしっかりと閉じられて、薄く開いた唇の間からは、再びすぅすぅと呼吸が漏れている。
相手は誰だろうか。
頭に浮かんだその言葉にヒューベルトは戸惑った。他人の恋路を気にしている自分自身に驚きを隠せない。ヒューベルトは口元を手のひらで覆って、何度か瞬きを繰り返す。ただの寝言に対して何を考えようとしていたのか、論理的に説明ができない。無意識を否定するわけではないが、ヒューベルトは自己統治できない状況は好まない性格だ。この状態は気持ち悪くて仕方がない。
ベルナデッタと一緒にいると、宮内卿の仮面が損なわれる、調子が狂う。それらを自覚した上で接している分には、ヒューベルトにとって問題はない。相手をしてやっているというと聞こえが悪いが、彼女のしたいようにやらせていただけだ。自らが進んで彼女と接しようとした結果ではない。ヒューベルトはそう思っていた。
「全く、奇特な方だ。貴殿は……」
思わず独り言が溢れた。人も寄りつかないような後ろ暗い男といて、何が楽しいのか分からなかった。自己評価が低いのではなく、好かれないように意図的に振る舞っているからだ。いくら人付き合いが苦手なベルナデッタだとしても、ヒューベルトの血塗られた噂ぐらい耳にしているはずなのに、捨て犬が主人を見つけたかのように懐かれてしまっている。ヒューベルトにとっては理解不能だった。
ベルナデッタが起きる気配はない。ヒューベルトはベルナデッタから目を背ける。先ほどのベルナデッタの一言が離れていかない。だから、彼女を視界にいれたくなかった。
その声が消え入りそうにか細く、儚げで、興味をそそられただけなのだろうか。喉の辺りに小骨がささっているかのように、ひっかかっている。
ヒューベルトは思考を止め、溜め込んでいた息を少しだけ吐く。鳩尾のあたりに何かが渦をまいているかの感覚があって、息苦しい。空気を求めて、水面から顔を出すように夜空を見上げた。想い人がいるくせに、こんな醜態を晒してもいいのだろうか。関係を誤解されかねない状況は、ベルナデッタが無意識下にいるからこそ発生しているものであったとしても、無防備すぎる。
二の腕に感じる彼女の存在、浅く開かれた小さく柔らかそうな唇、甘い香りがする吐息、仄かに色づいた頰ーー ヒューベルトはベルナデッタの生命を確かに感じていた。とくとくと穏やかな心音がヒューベルトの心の扉を叩いているようだった。
ヒューベルトは眉間を揉んだ。疲れているのか、妙な気が起こりそうだった。ヒューベルトは、ベルナデッタが寝入る前に何を話していたのかちっとも覚えていなかった。彼女は恋の相談でもしていたのでもいうのか。仲介役でも頼みたかったとしたら、相手はフェルディナントなのか。
太陽と月。その太陽である彼を、ヒューベルトは以前のように疎ましく思ってはいない。皇帝エーデルガルトに仕える忠臣として、戦友として背中を預けられる相手だと認めている。その彼はドロテアに熱を上げているようだが、そうするとベルナデッタは既に恋に敗れていることになる。
日の当たらぬ場所で、他人に疎まれる仕事を担っているヒューベルトにとって、こうした些細な感情の機敏は、揺らぎでしかなく、それは煩わしい事象でしかない。そうした感情は職務の正確性を損なわせてしまう。
他の者が恋愛をするのは勝手、主君の覇道の妨げにさえならなければ捨て置くこと。ヒューベルトは決して恋愛を否定しているわけではない。ヒューベルトにとって主君は唯一無二であり、他は皆同じ価値の存在なのだ。これまでずっとそうして生きてきた。
ヒューベルトはベルナデッタの丸い頭頂部を見た。この娘も同じはすだ、主君よりは劣り、他のものと同様ーー そうでなければならない。半ば祈りにも近い感情だった。
酔っ払ったベルナデッタが隣に座って、相槌もまばらな男に楽しげに話をしている。何を話していたのかすら、ヒューベルトは覚えていない。彼女だって気づいていたはずである。時折同意を求めるように親しげに名が呼ばれ、その時はさすがにヒューベルトも目を合わせる。だらしない笑顔に、ヒューベルトの渋面もいくらか弛緩してしまう。仕方がないひとだと呆れながらも、憎めず、そしてそうしているのも悪くないと思ってしまっている。
ヒューベルトにとってベルナデッタは本当に他の者と同じだろうか。事実をひとつひとつ拾い上げていくと、そうではなさそうであることをヒューベルトは気づいてしまった。職務にとって枷にしかならない感情の芽生えに苛立ちを覚え、ヒューベルトは小さく舌打ちをした。
「う、ん……」
ベルナデッタが微かに唸って、身じろぎをして、枕に頭を預けるように頬を押し当てた。起きたようではなく、姿勢を変えたいだけだったようだ。
ヒューベルトはベルナデッタの寝顔を見た。視線は卵形の輪郭を辿り、それから首筋へと向けられる。華奢な丸い肩、そこに手を伸ばして引き離そうと思えばできるのに、ヒューベルトはそれができなかった。ヒューベルトは手を強く固く握ってから腕を組んで瞼を伏せ、自分からことを起こすことを止めることにした。考え始めると深みにはまってしまい、行きたくもないあちら側に飛び出してしまいそうだった。
ここのところ睡眠時間が短かったせいか、瞼を伏せていると、眠りの渦に引き込まれていきそうな感覚を覚えていた。
しばらくそうしていると、ベルナデッタが動く気配がした。ヒューベルトの耳が、空気の僅かな震えを捉える。
「ぴ、ゃ…… 」
「黙って」
「んう、んー、うんんん!!!」
ヒューベルトの耳がベルナデッタの悲鳴の第一声を捉えたとき、すかさずベルナデッタの口元に自らの手のひらを押さえつけた。間近で叫ばれた日には、鼓膜が限界を超えて破れかねない。
手袋に当たる生暖かい呼吸がおさまるまで、ベルナデッタを凄むように睨みつけると、落ち着いたところを見計らってヒューベルトはようやくベルナデッタを解放した。
「落ち着かれましたか?」
ヒューベルトは息を吐いた。
「ご、ご、ごっ…… ごめんな、なさぁい」
対するベルナデッタは目に涙を浮かべて、頭を抱えるとうずくまり、苦悶を表すように身体を揺らしている。
「ベル、いつからこうして…… そのう」
「さて、いつからでしたでしょうかな。覚えておりません」
ベルナデッタが機嫌を伺うような眼差しをむけるので、ヒューベルトは顔の筋肉を努めて緩めた。
「処しますか?!ベル、処されちゃいますか?」
声が大きくなってきたので、ヒューベルトは静かに話すように伝えると、ベルナデッタは両手で顔を覆ってしまった。
「処しませんよ、それに怒っておりません。それで…… いつまでこのようにされたい、と?」
ベルナデッタの身体はいまだヒューベルトにぴったりとくっついたままであった。
「ほへ、あ、やだああ」
ベルナデッタは指摘されてはじめて自分の状態を悟ったようだった。慌ててヒューベルトから飛び退いた。それから少しだけ間をあけて座り直した。ヒューベルトはベルナデッタのコロコロと変わる表情にくつくつと笑って、肩を竦めて見せた。
「あのぅ」
「怒っておりません」
これ以上騒がれるのは面倒だったので、ヒューベルトは即座に否定して蓋をした。
「そう、ですか。でも、なにか言いたそうですけどぉ」
ベルナデッタは横目でヒューベルトを見ている。ヒューベルトは小首を傾げた。落ち着いていればこの娘はヒューベルトのことをある程度正確に把握できているようだと思った。
「そうですな、まあ…… 私が言うのおかしな話ですが、想い人がいらっしゃるのならこうしたことは避けたほうがよいかと」
ベルナデッタは何を言われているのか理解していないのか、両目を何度か瞬いている。
「貴殿は先ほど、夢の中でどなかたに想いを告白されていたようですので、ベルナデッタ殿?」
ヒューベルトがあの時のことを思い出すように顎を擦りながら話していたら、ベルナデッタの顔が次第に真っ赤に染まっていく。
「べ、ベル、何か、あのぅ」
「ええ、相手の方のことは分かりません。惜しいことにお名前をおっしゃいませんでしたから。ですから、そちらについてはどうぞご安心を」
くく、とヒューベルトが意地悪く笑うと、ベルナデッタは安心したのか胸を撫で下ろした。案の定、ベルナデッタは自分が身体をヒューベルトに預け切っていたことに対する別の問題を全く理解していないようだった。ここで忠告をしておかなければならないと、ヒューベルトは話を切り出した。
「安心されては困りますな。面倒ごとには巻き込まれたくないですから、次からこういうことをされる相手はゆめゆめ考えた方がよろしいと」
ヒューベルトが深刻な顔で忠告すると、ベルナデッタは目を逸らして身体をもじもじさせた。
「その、だ、大丈夫なんです、それについては……」
「おっしゃる意味がよく分かりませんが」
「分からなくてもいいんですけどぉ、わかってもらってもいいんですけど」
「さらに分からなくなりました。どういう意味です?そもそも貴殿は脇が甘すぎます……」
ヒューベルトが説教モードに入ったところで、ベルナデッタは話を打ち切るように立ち上がった。
「どこに行かれるのですか、ベルナデッタ殿。まだ私の話は終わっておりませんが」
ヒューベルトは腕を組んだまま、片眉を跳ね上げてベルナデッタを睨んだ。
「だ、だから大丈夫なんですってば! お話もよく分かりました、ほんとです。うまくいえないんですけどぉ、ヒューベルトさんで大丈夫なんです」
ヒューベルトからのさらなる追及を逃れたいのか、ベルナデッタは一目散に逃げ出した。逃げながらも律儀に「おやすみなさい」と言い残した。
置いてけぼりをくらったヒューベルトはしばし何が起こったのか分からなかった。大丈夫というのならそれで構わなかったが、何が大丈夫なのかは理解できなかった。
「あの様子ではしばらくは縁遠いようですな」
ヒューベルトは腰を上げると、ベルナデッタが消えていった方面をじっと見つめた。あの様子ではすっかり酔いが覚めたとは思われるが、ヒューベルトはどうにも放っておけなかった。
「仕方、ありませんな。全く世話の焼ける娘だ」
ヒューベルトもベルナデッタと同じ方面へと歩き出す。