もっと近くに

「あのぅ」
 ベルナデッタがご機嫌を伺うかのような眼差しをヒューベルトに向けている。あまりに恐る恐る声をかけてくるのでヒューベルトの方も相手が愛する人だということを忘れて、いつものように構えてしまうのだった。想いを確かめ合って、その時は想いが湧き出て迸り、我を忘れたように傷ついた身を寄せ合ったというのに、その時の勢いがなくなった今、残されたのはぎこちなさだった。
 帝国の影の守護者である宮内卿ヒューベルトと、臆病な引きこもりのベルナデッタ。二人をよく知らぬ者たちが聞けば、これは何かの間違いだと思うに違いない。
「何か?」
 いつまでも話を切り出さないベルナデッタに、ヒューベルトは水を向けた。口調が淡々としているのはいつものこととはいえ、不機嫌な心情の表れだと受け取られたようで、ベルナデッタはすっかりすくみ上がってしまった。
「えぇっとぉ、でも、怒ってますよねえ」
 ベルナデッタは聞き取るのがやっとというか細い声で呟くと、視線を明後日の方向へ向け、言い淀み、口を固く引き結んでしまった。
「はあ…… いえ、その、申し訳ありません、私がよくないのですな」
 ヒューベルトは気まずさを鳩尾のあたりに感じながら、頬をかいた。どうしていいのか分からず、うまい言葉がでてこない。尋問でもないのに、ベルナデッタを隅へと追い詰めてしまっている。
「そっ、そんなことありません。ベルが良くないんです」
 並んで歩いているというのに、ヒューベルトとベルナデッタの間には風が吹きぬけるだけの余裕があった。なんとなく気まずくなって口を閉ざしてからしばらくして、ヒューベルトはベルナデッタの方を見た。ベルナデッタは目をキョロキョロを泳がせていて、落ち着きがない。
「何か言いたいことでもあったのではないですか?」
「あ、あの…… そのぉ」
「遠慮なくおっしゃってください。決して怒りませんから」
 ヒューベルトは恋人を怖がらせないようにと努めて穏やかな声で話しかけたが、それでもベルナデッタは言おうか言うまいか悩んでいるようだった。
「もう少しおそばに、いっても、近くにぃ、その…… いきたいなあって」
 ベルナデッタが急に立ち止まったので、ヒューベルトも合わせるように立ち止まった。
「だからぁ、えっと、もう少しだけおそばに……」
 ベルナデッタは顔を伏せてしまった。横髪から僅かに覗いている耳は真っ赤に染まっていて、勇気を振り絞って話したのだと伺えた。ヒューベルトは、その様子を愛らしいと思いながらも、残念なことにそうした自身の感情を言葉にする術をもっていなかった。
「暑苦しいですよねえ、そうですよね。ベルみたいなのがくっついたら、ヒューベルトさん歩きにくいですものね!!」
 ベルナデッタはヒューベルトが返事をする前に一人で話をどんどん先に進めていってしまう。こうなってしまうとどこで話の腰を折ればいいのか、捉えどころがなくなってしまう。
「ですから……」
「わかります、もっと自立した大人の女の人にならなきゃって、だから、いいんです、さっきのはなかったことにしてください」
 ヒューベルトは言葉で分からせることを諦めた。掌で顔を覆ってしまったベルナデッタに向き直ると、彼女の肩にそっと手を置いた。それから一気に自分の方へと引き寄せ、悲鳴が漏れる前にぐっと強く抱きしめた。
「ご理解いただけましたか?」
 腕の中のベルナデッタは身じろぎひとつしないので、ヒューベルトは気を失ってしまったのかと心配したがそうではないようだった。しばらくすると、ベルナデッタから「ひゃああ」という気が抜けていきそうな小さな悲鳴が漏れた。
「わ、分かりました」
「それは重畳ですな、くくく」
「イジワル」
「どうとでもおっしゃってください」
 ヒューベルトはベルナデッタの髪にそっと細い鼻先を触れさせた。すんすん、と鼻を鳴らすように彼女の香りを嗅いで、またぎゅうと力を込めて抱きしめる。
 硬派な男だと思われていただろうから、ベルナデッタは幻滅しただろうか。ヒューベルトはそんなことを内心思いながらも、こうしていられずにはいられなかった。