声が出なかった。
声帯を震わせて音を出すことを忘れてしまったかのように、口を大きく開いても、発声されなかった。一瞬の出来事が、ゆっくりとパラパラとページをめくるように起きていって、瞳に焼き付いていった。誰かが妻の名を叫んだ。私は、そこから動けなかった。
「大丈夫ですよう。ちょっと斬られただけで、すぐにドロテアさんが回復してくれたから」
寝台の上で枕に頭を預けたままの妻は、声だけは元気だった。斬られた部分は治癒魔法が施されたものの、その傷が原因となって発熱した。あの事件があってからそろそろ2日が過ぎようとしている。私は寝台の傍の簡易な椅子に腰をかけ、妻の唇に水を含ませた布を押し当ててやった。自分で飲めるとはいっても、今は無理に身体を起こさせたくはない。
「ねぇ、ヒューベルトさん。一体、何をそんなに怒ってるんですか?」
私は妻の問いかけに困惑した。この問いかけは何度目になるだろうか。執拗に尋ねられてはいるものの、返す答えはいつも同じだ。
「怒ってなどおりません」
「そうですかねぇ。ほら、眉間にしわができてますけどねぇ」
「あまり腕を動かさないようにしなければなりませんよ。傷が開くかもしれません」
私は妻から伸ばされた手を阻むように包んで、シーツの上にそっと置いた。つまらないことで、快方に向かっているところに水を差したくはない。
「外、晴れてますね」
「ええ……」
窓から燦燦と陽光が降り注ぎ、妻は眩しそうに眼を細めている。カーテンを引こうかと尋ねたが、彼女は頑としてそれを断った。時間が過ぎるのはあっという間のことで、そろそろ会議の時間が迫っていた。
「そろそろ行かねばなりません。また参ります」
「はい。でも、忙しいでしょうし、無理しないでくださいよ。寂しいですけどぉ、でも、お邪魔するわけにもいかないので」
「気になさらないでください。では……」
私は妻の前髪をかきあげて、そっと唇を落とした。そこはじんわりと汗ばんでいて、生暖かく、熱はあまり引いていないように思えた。
寝室を出てすぐ、扉を背に私は佇んだ。居たたまれない気持ちでいっぱいだった。
果たして、私には彼女を見舞ったり、慈しんだりする権利があるのだろうか。あのとき、一番に彼女の名を呼び、駆け付けたのは、誰か。残念ながら、自分ではないのだ。考えるだけでみぞおちのあたりがキリキリと痛み、自己嫌悪という悪循環が思考を支配しはじめる。沸々と込み上げてくる行き場のない感情を、私はどこかに叩きつけたくなり、ぐっと拳を握りしめた。
私の苦悶にもかかわらず、妻は全く気にしていない様子だった。私は、それが何よりも恐ろしかった。致命的な選択ミスを犯している私を、妻は全く咎めようとしない。妻の救助や、妻の介抱よりも、何よりも、自分の主君と城内の警備や不審者の追跡や捜査の指揮を優先させた私を妻はどう思ったのか。自分は見捨てられたと思ったのではないか。
それでも、私は妻を愛している。
嗚呼、私は、やはり、妻を娶るべきではなかったのだ。
皆も寝静まるような時間に、私は再び妻の元を訪れた。今夜は特に冷え込んでいて、どこからか吹き込んでくる隙間風がじわじわと身を凍らせた。妻の身体に障りがあってはと思い、様子を見に行くことにしたのだった。
妻は傍に置かれた小さな棚の上に置かれた蝋燭の灯りを頼りに、本を読んでいた。私が訪れると、表情を緩めて、快く私を出迎えてくれた。私にはそれが自分に対する罰のように思えた。
「まだ起きていたのですか? 寝ていなければ…… 嗚呼、寒くありませんか? 今宵はとくに冷えます」
私は身体を起こしていた妻にあれこれと小言を言いながら、彼女から本を取り上げると、しっかりと肩まで掛布団を引き上げた。
「まるでベルのお母さまみたいですね、ヒューベルトさんは。ね、もう大丈夫ですよ。熱も落ち着いたみたいですし。きっと明日には良くなってます。本が読めないぐらい体調が悪ければ、本なんて読んでませんし」
妻の言う通り、額に触れても昼間のような熱を感じることはなかった。
「仮令、明日熱が下がっていたとしても、しばらくは安静にしてください。医師にもそう言われたでしょう」
「本を読むぐらいならぁ…… 明日はドロテアさんが刺繍道具を持ってきてくれるっていいますし」
「なりません」
私はきっぱりと言って、ゆっくりと首を左右にした。
「でも、寝てばかりではつまらないですしぃ」
「つまらないとか、楽しいとかそういう問題ではございません。どうか聞き分けてください―― 何か?」
私が説き伏せようとしたそのとき、妻が探るような眼差しでこちらを見た。
「ねぇ。ヒューベルトさん、一体、何をそんなに怒ってるんですか?」
妻は私に対して昼間と同じような問いかけをした。
「いえ、怒ってなど……」
怒っているとするのならば、無論、己に対してではある。妻から何度も同じことを尋ねられている。誤魔化そうにも取り繕うおうにも、それはできないようだ。
「もしかして、気にしてるんですか? あのことを―― ベルは気にしていないですし、いいじゃないですか」
「気にしていないと言いましても……」
私は掛布団の上に置かれた彼女の手を取った。何をどう話していいのか分からない。私はもどかしくなって、奥歯を強くかみ合わせた。
主君だけを守ると決めた男が、愚かにも、もう一人、守りたいと思うひとができてしまった。
こうした命題がある。どちらかしか救えない場合にどうするか、という命題だ。まさに悪魔が提示する選択である。私はそれに対して、どちらも救う術があると思ったのだろう。しかし、実際はどうだろうか。そういった場面に出くわしたとき、私は妻ではなく、主君や国の無事や安全を優先した。それも、彼女の目の前でだ。そんな男に、この妻は不相応ではないだろうか。
私は中空を見つめ、過去と対峙し、妻の問いかけには答えられずにいた。
「別にそんなに責任を感じなくても。ベルはこうして無事ですし……」
無事? 私は尋ね返していた。
「無事ではございません。傷が原因で伏せっているではないですか。私は、そんな貴女を目の前にして…… あの時、私は、何もできなかった。倒れ行く貴女に駆け寄ることもせず、私は…… まさに悪魔の行いだ」
冷静に話そうと思っても、腹の奥深くに押し込めてしまおうとしたものに触れ、私の心は大いに搔き乱された。話しながらもあの時のことを思い出し、手が震えた。あのとき、私は、生きた心地がしなかった。あの日から毎日、血だまりの中に沈む妻の姿で飛び起きる日が続いていた。彼女を失いたくはない。その気持ちに全くの偽りがないというのに、私が取った行動は感情に反していた。
「私は貴女のもとへと行くべきだった」
私はそこまで言うと、頭の中が真っ白になった。まるで独り言のような小さな嘆きを伴う呟きだった。
「ヒューベルトさんには、違う役目があるから。それに、こうして一日のうちに何度もお見舞いに来てくれてるじゃないですか」
「そうであっても、私は貴女の夫です」
妻に食ってかかっても仕方がないというのに、私は強い口調で言い返した。彼女は悟りきった表情で私の強弁を聞き流しているようにも見えた。瞼を伏せて、鼻歌を歌い出しそうな余裕すら感じられた。
「やはり私は…… 妻など娶るべきではなかった。私には、その資格がない」
私は情けなくなって項垂れた。そういっておきながら、私は妻の手を放せずにいる。
「ねぇ、ヒューベルトさん」
しばらく沈黙が続いた後、妻が私の名を呼んだ。私は応じるように顔をあげて、妻を見た。
「ずるいですよ、それ。とってもずるいです。それって、何だか逃げじゃないですか」
妻は少し不貞腐れたように頬を膨らませそういうと、唇を尖らせた。彼女の言っていることは最もだった。私は返す言葉もなく、繋いだままの彼女の手をじっと見つめた。
「ベルを妻に迎えた以上、ちゃんと責任を取ってください」
私はその言葉にはっとした。それから、視線を妻の顔へと戻した。薄闇の中で見た彼女の顔はこの世のものではないように青白く儚げにも見えたが、私を見つめる眼差しには彼女の強い意志を感じた。私は嘆息した後、自分に呆れて何度か首を振った。私は全てにおいて愚かだった。
「ええ、ええ…… もちろんですとも、我が妻、ベルナデッタ」
自分が手を引いてきたつもりが、すっかり役目が逆になっていた。私は頷いて、長い息を吐いた。
「へっへっへ、ベル、ちょっとかっこよかったですか?」
「ええ、見直しました。いえ…… それはおこがましいですな。 貴殿を妻にして良かった、と。そう思います」
私はそう言って。妻の手を改めて握りしめた。何とか笑ってみせたが、きっと情けない顔をしていたに違いない。
「そうそう、ね、そうでしょう? ベルも穴熊ヴァーリから成長したんです。今では立派な、ヒューベルトさんの奥さんです」
私は妻と顔を見合わせて、久しぶりに笑った。傷があるので抱き寄せることはしなかったが、そうではなかったら、きっと妻をこの胸の中に閉じ込めていただろう。
「それでですね、ベル、一つだけお願いがあるんです」
「どうぞ」
せめてもの償いは、妻の願いを聞き入れることだ。私の返事に、妻は悪戯好きの子供が一計を講じたかのような笑みを浮かべた。
「一節とはいいませんけれど、少し長くお休みを取ってくれませんか? それで、ベルと一緒に過ごしてくれると嬉しいなぁって。どうぞ、と言ったからにはもちろん拒否はしないで欲しいんですけどね。難しいって分かってますけど、無理なんでしょうけど」
「承知しました」
私は悩まず返事をしたが、妻は耳をつんざくような声で反応した。それから何度も「ほんとですか? ほんとですか?」と繰り返し尋ねるので、私はしばらくの間はそうです応じていたものの、あまりにも執拗に問われるので、いよいよ鬱陶しくなってきた。
「ベルナデッタ…… 約束したからには守ります。ですから、疑わないでください」
「じゃあ、本当に?」
「ええ、ですから、安静にしてください」
納得がいかないことで叱られた生徒のような態度の妻が、引き続き小さな声で本当に引き受けてくれるとは思わなかったなどと言っている。職業柄の地獄耳のせいかすべての言葉を一言一句拾っているが、それは気にしないことにした。自分の普段からの至らなさ故と自戒しながらも、それでも共に在りたいと願う妻には、一生敵わないと思った。
「さぁ、そろそろ眠る時間ですよ」
「ふあい」
妻は大あくびをしてから、眠気まなこで私を見た。
「眠るまでここにいてくださいますか?」
「ええ」
「えっへっへ」
「何がおかしいのですか?」
「お姫様待遇だなぁって、ベル。こんなに甘やかしてもらったことってあったようななかったような」
「早く寝てください。全く……」
「はぁい」
痛いところを突かれて、私は眉間の皺を寄せた。厳しくしたつもりはないが、甘やかしたつもりもない。本人は気付いていないかもしれないが、私は彼女には大甘なのだ。まだこうした関係になる前、主君から「貴女ってベルナデッタには甘いわよね」とよく言われたものだった。