外套が細やかな力で引っ張られた感触にヒューベルトは可能な限り振り返らないよう視線を向けると、見慣れてしまった菫色の丸い頭の頭頂部が見えた。外套を使う正体はベルナデッタだった。彼女から伸びた手がぎゅっと己の外套へと伸びている。
成程、今まさに目の前でベルナデッタの父親に連なるとされる者がスパイの疑いで引っ立てられようとしているのだ。男の手首は何重にも巻きつけられた縄で固定され、そこから更にその縄が腰に巻きつけられた後は屈強な獄卒が携えている。逃亡時を想定して武装した兵に、見張り櫓には弓兵が臨戦態勢で控えている。彼にとっては人生の終わりも同然であろう。帝国民らしからぬ行いをしたのだから当然のことである。
「お、お前は―― この親不孝者!人でなし、お前のせいで、お前の父親がどんな目にあっているのか分からないのか」
幸か不幸か口は元気のようだ。ベルナデッタの姿を見るや否や、足を止め、大声で不満をまき散らした。敗者の弁である。
彼女の感情に呼応するように、外套が震える。
泣くか、逃げ出すかさて―― 左手やや後ろのベルナデッタに視線を戻した。
彼女は顔を上げ、批判した者をしかと見据えていた。唇をわなわなと震えているが、力強く引き結ばれている。
随分と変わったものだ。本当は恐ろしいのだろう。この反応からすると、彼女が見知った顔なのであることは見て取れる。
突然の騒ぎに周囲にも緊張が走るも、男は既に囚われの身。官吏に強い言葉で叱責され、留まることも当たり前に許されず、どんどんと遠くへと連れていかれる。
「ベルナデッタ殿」
問いかけると、ごめんなさい、と彼女は俯いた。
「何を謝ることがあるのですか。貴殿は耐え抜いたのです」
「でも―― ヒューベルトさんがいなかったら、ベルきっと逃げていました」
彼女が手をそろそろと放すと、外套が僅かに揺れた。
あんなに怖がって避けていた癖に、今やこの存在が彼女の助けになったというのか。全く持って奇妙な話である。無論、自分でなくても良いのだろう。フェルディナントでも、カスパルでも、先生でも誰でも良いのだ。
自分が求められているわけではないと、ヒューベルトは重ねて心の内で言い聞かせた。
「私がいたとしても昔の貴殿であれば、逃げ出していたでしょうな」
はい、と返された言葉はどこか力なく、男が連れていかれた方をいつまでも見つめている。本当は何か思うことがあるのだろうが、それを問いかけて聞き出すつもりはない。
「参りますよ、ベルナデッタ殿」
どうしてだろうか――
ベルナデッタに向き直り問いかけたと同時、ダンスを誘うかのように左手を差し出してしまった。彼女ももちろん驚いたに違いないが、何より驚いているのは自分自身である。どこに行こうというのか、彼女との予定などなかったはずだ。軍議が終わって偶然近くを歩いていただけなのだから。
「あっ、あの」
このまま下げても良かったのに、ベルナデッタがおずおずと手を乗せてきたのだから、引き下がれなくなってしまった。そもそも差し出したのは自分自身なのだから、提案には責任を持つべきだ。
「不快な思いもされたでしょうから、お茶でもいかがでしょうか」
ガルク=マクの拠点の中では行く場所もできることも限られている。その場しのぎで思いついた案を提示し、彼女の小さな手を包むように握ってから、そっと放した。
いつまでも握っていて良いわけがない。他の者の目もある上、差し出して良い手ではないのだから。
「あ、ありがとうございます」
頬を染め上げた彼女がこれでもかと微笑む。どうにもこの顔が好ましいと思うのは、止められないようだ。思わずため息が零れた。
することが決まればいつまでもここに滞在する必要はない。ヒューベルトはベルナデッタを連れだって歩き出した。