頬に触れると微かな痺れが伝わってきた。瞼を閉じたまま今や今かと待っている|彼女《ベルナデッタ》の緊張を知らせているようだ。まだ誰も触れたことのないはずの閉じられた柔らかな二つの膨らみに、この穢れた唇で触れるのは如何なものか。
ヒューベルトは親指で温かい頬を押し撫でながら、未だ顔を寄せることをためらっている。覚悟を決めたはずが、情けないぐらいにあと一歩という覚悟が定まらない。
「ベルじゃあ、そんな気持ちにならないですか?」
己の感情を掻き消すことなど容易いとは、どの口が言うのか。ベルナデッタにそう問われたとき、その言葉をなかったことにすることはできなかった。
触れたくないわけではない。触れた指に、時折寄せられるその頬に、欲の塊が腹の底から湧き上がって、ヒューベルトの中で目を背けたくなるぐらいの感情が渦巻いている。
まともな返事すら返してやることができない。ヒューベルトは自身の貧しい心に奥歯を軽く噛みしめる。吐き出した息が熱い。触れたい、彼女に。それを言葉に表せない。
「ベルナデッタ」
ヒューベルトは、顔を寄せ、ベルナデッタの唇に触れるぐらいの距離で囁くように名を呼んだ。すると、彼女は誘われたかのようにヒューベルトの名を呼び返した。薄っすらと開いた灰色の瞳の中に、戸惑いに揺れるヒューベルト自身が映っている。目も当てられないぐらいに情けない顔だった。
「目を閉じてください」
怖いだろうから、己の顔が。
それは告げぬまま、ヒューベルトは鼻先を触れ合わせると、薄紅引いたその唇の最初の接触者となった。一呼吸するぐらいの刹那の短さで唇を掠めるように触れさせた後は、そのままベルナデッタの後頭部を掻き抱いて、菫色の髪に指を通しながら、胸へと引き寄せた。
「あたし、キス、したんですよね。ヒューベルトさんと」
「ええ」
「あの…… でもなんだか、ちょっと、実感がわかないです」
顔を上げたベルナデッタは眉尻をさげ、いたく残念そうで心残りがあるような口ぶりだった。
「もう一度、ダメですか。その…… キス、えっと、もう一回、したい、なぁって」
言い切って恥ずかしくなったのだろう。言葉の終わりは消えゆくように頼りなく、目を泳がせながら、ベルナデッタはすっかり俯いてしまった。俯いてしまえば、求めに応じることはできない。土壇場の心の強さを見せながらも、彼女の女性らしい恥じらいが愛らしくて、ヒューベルトはふっ、と息を吐いた。
「構いませんよ」
そう言って、ヒューベルトはベルナデッタの顎に手を添えて、顔を上向かせた。閉じた瞼に上向きに揃った睫毛がふるふると震えている。一思いに早く、と言わんばかりの様子はまるで殺されることを覚悟した敵兵のようでもあり、狼ににらまれた小動物でもある。
怖がりで繊細なベルナデッタを驚かせないように一言断ってから、ヒューベルトは先ほどより少しだけ長く、唇を触れ合わせる。触れた瞬間、彼女の唇が僅かに動いた。薄く開いた無防備な隙間から舌を差し入れてやっても良いのだが、さすがにそうとなれば、ヒューベルト自身が正気を保てなくなる可能性があった。ヒューベルトは、彼女の感触に名残惜しさを感じながら、顔を離す。
「これで満足されましたか?」
ベルナデッタは茫然としている。半ば興奮状態にあるのか、長く唇を塞いだわけではないのに、彼女の呼吸は乱れていた。そして、冷静な口ぶりで彼女に尋ねるヒューベルト自身も心音が乱れていた。唇を触れ合わせるだけの行為に、私情が加わったせいなのだろうと、ヒューベルトは胸の内で呟いた。
「は、はい……」
返事を返すのがやっとというところか。小さな頭を上下させたベルナデッタは、顔を覗き込まれたくないと言わんばかりに、ヒューベルトの胸に顔を押し付けた。
ベルナデッタはまだ知らないのだろう。情欲に満ちた口づけを。それを知るのは、ずっと先のことなのか、そう遠くない未来なのか。ヒューベルトにすら、その行方は予測できない。