さりげなく、あなたへ

 困ります。
 それがベルナデッタが最初に抱いた感想だった。両手で抱えると顔が隠れてしまいそうな、花屋で売られている花を買い占めたといっていいほどの花束。ベルナデッタが花に覆い尽くされそうになりながら女中に邸内にあるすべての花瓶を持ってくるようにと伝えると、彼女は立ち去る前にあの方からですねと言って小さく笑った。
 はじめは茶菓子だった。帝都で評判のその焼菓子をベルナデッタは子供のようにはしゃいで喜んだのだった。その次は刺繍道具、ベルナデッタもこれには気が引けた。さらにその次はブローチ。スミレの絵付けがされたブローチはスカーフに飾りつけたが、明らかに高価なものだった。こうなってくるとさすがに申し訳なくなってきた。
 ヒューベルトは経営指導に訪れるたびに、ベルナデッタに手土産と告げては贈り物をした。そして今回は、特大の花束だった。
 あの方、などと例えられると、その相手と恋仲だと揶揄われているようで、ベルナデッタはこそばゆく感じた。いつまでも未成人の気分でいることを痛感するときでもあった。この年齢では良い相手が一人や二人いてもおかしくないというのに、その朧げな兆しが職務でヴァーリを訪れるヒューベルトぐらいしかいない。そして、その相手であるヒューベルトとは恋仲でも結婚の約束をしている人ではない。
 そのひとは今、応接間にてベルナデッタが書き上げた報告書を具に目を通している。彼はひとつの誤りも容赦なく認めないだろう。
 ヒューベルト=フォン=ベストラ-- 泣く子も黙る冷徹非情な帝国の宮内卿であり、皇帝エーデルガルトの影で、帝国の闇の守護者。
 ヒューベルトはなにを考えているのだろうか。ベルナデッタは運ばれてきた花瓶に花をより分けながら考えた。こんな色とりどりの豪勢な花を贈られたら、あらぬ勘違いをされるかもしれないなどと思い至らないのか。ベルナデッタがそういった勘違いをしなくとも、ベルナデッタの家のものたちはすっかり誤解をしていて、お泊まりにならないのかなどとちくちくとその関係性を突いてくる。
 ただの旧知の仲だ。
 ベルナデッタは白いガーベラの花を2本持ったまま瞼を浅く伏せる。理由を知りたいのなら簡単なことで、今、同じ邸内にある応接間で報告資料に目を通しているヒューベルト本人に尋ねればいい。ただベルナデッタにはそれができなかった。思い上がるにも程があると。花を贈られたり、ブローチや刺繍道具を贈られたりしただけで、それが好意の表れだと結びつけてはいけないと思っていた。両親から言われ続けた否定の言葉は、ベルナデッタの中に深く強く根付いてしまっていた。
「何を、考えてるんでしょおか」
 少し項垂れたガーベラをそれぞれ違う花瓶に飾りつけて、ベルナデッタはため息をついた。余った白いガーベラは花弁を四方に目一杯元気に広げていて、ベルナデッタはそれを髪に飾り付けてみた。
 そろそろヒューベルトの元に戻らなければならない。どんな顔をして喜んで見せればいいのか、わからなくなってきていた。
 この花の意味を考えてしまう。
 花たちが話すことができれば、ヒューベルトがこの花を見繕ったときのエピソードを教えてくれるのだろうか。彼がどんな感情を抱いて、ヴァーリまでこの花とともに来たのか。何を贈っていいのか分からず、植物が好きなことを頼りにしたのか、派手好きなフェルディナントあたりに唆されたのか、彼の主君からの提言なのか。ヒューベルトはベルナデッタに手渡すときには決まって「こちらをどうぞ」としか言ってくれない。その短い言葉の中から彼の真意を汲み取るのは至難の業だ。一本の線のように細く整えられた眉ひとつ動かない、彼のその表情からも、何も、伝わってこない。
 雲行きがあやしい天気のように、ベルナデッタの心は晴れない。応接間に向かう足取りは重く、いまだにヒューベルトに対する謝礼の言葉も望ましい表情も作れそうになかった。

「よくできておりますな。いくつか不明瞭な部分はありますが…… まあ、よしとしましょうか」
「ふぅ、あ、ありがとうございます」
 ベルナデッタは胸を撫で下ろすと、ヒューベルトは報告書の束をテーブルに置くと、ベルナデッタに目を向けた。
「おや、そちらは」
 ベルナデッタは慌ててだらけた姿勢を整えると、頭を下げた。
「お、お花…… あんなにもたくさんありがとうございました。せっかくですから髪飾りしてみたんです」
 菫色の髪を手のひらで撫で付けながら、ベルナデッタはヒューベルトの反応を伺った。彼は細く鋭い目をいささか優しく細めて、薄く笑った。
「よくお似合いですよ。どういったものを選んでいいのか分からず、貴殿は植物がお好きだと思ったのですが」
「ヒューベルトさんから色々といただいて、ベル、なんだか申し訳ないです。お世話になっているのはベルの方なのに」
 ベルナデッタはそう言うと、ヒューベルトの向かい側の長椅子に腰を下ろした。
 間も無くして手配していた紅茶とテフが運ばれてくる。今日の茶菓子はベルナデッタが焼いた菓子で、甘いものを好まないヒューベルトのために気持ち砂糖を控えめにしたものだ。侍従がいる間はお互い言葉も交わさず、扉が閉ざされて二人きりになるまで、ベルナデッタは膝の上に合わせ手を揉みながら、そわそわと周囲を見渡すのだった。

「先ほどの話ですけど」
 ベルナデッタはようやく二人きりになったところで切り出した。ヒューベルトは待っていましたとばかりにテフが淹れられた茶器を手にしたところであった。
「あっ、遠慮なく召し上がってください。それで、その、あんなに素敵なお花をいただいておいて申し訳ないんですけど」
 ベルナデッタが本題に触れたところで、ヒューベルトの手の動きがはたと止まった。
「ご迷惑でしたでしょうか。やはり、私のような後ろ暗い者からの贈り物は何かあると思われても仕方ないでしょうなあ。気分を害されたとしたら誠に申し訳ありません」
「ええっ、い、いやいやいや、そ、そんなことはとんでもないです。やめてくださいよう、ヒューベルトさん」
 何か気に触ることでも言ったのかとベルナデッタが考える間も無く、ヒューベルトが突然頭深々と下げたので、ベルナデッタは立ち上がって両手を何度も振って否定した。
「あたし、いつもいただいてばかりで申し訳ないないなって、それで今日は茶菓子はベルが作ろうと思って。嬉しくないかもしれませんけどぉ…… って、えっと、顔をあげてくれませんか?」
 ベルナデッタの願いに応じてようやく頭を下げることをやめたヒューベルトは「こちらですか」と言って、テーブルに並べられた小皿のうえから、丸く成形された焼菓子を手に取った。
「そんなものしかご用意がなくて、むしろベルの方がお詫びをしなくちゃって」
 ベルナデッタは苦笑いを向けてから、再び腰を下ろした。
「いえ、貴殿の貴重な時間を使って作られたものです、ありがたく頂戴いたしますよ」
 大袈裟なひとだなあ。
 ベルナデッタはヒューベルトの言葉にそんな感想を抱いたが、不快な気持ちになることはなく、むしろ、堅物な彼を可愛らしく感じたのであった。
「ヒューベルトさん、甘いものが苦手だってエーデルガルトかんから聞きましたので、少し控えめにしてます。お口に合うかどうか分からないんですけど、ど、どうですか?」
 一口分の大きさの茶菓子をヒューベルトが咀嚼している間、ベルナデッタは自分の紅茶が冷めることも忘れて、ヒューベルトの反応を見守った。サクサクという咀嚼音が止んでしばらく、「とても良くできていますよ」とヒューベルトから手短な感想が述べられた。
「あ、ありがとうございます」
 ベルナデッタはようやく自分に用意された紅茶に手を伸ばした。ヒューベルトからに贈り物の真意を尋ねることなどできる雰囲気でもなく、贈り物が快く受け取られたとわかって安心したのか、ヒューベルトもそのことに触れようとしない。
 思わずため息がこぼれおちそうだった。次回はまた違うものが手土産として贈られて、それがずっと続くのだろうか。理由を尋ねることは変化を促す積極的な問いかけであり、その一言で霧が晴れてしまったあとは、ベルナデッタが望まない世界が待ち構えているのかもしれない。そう思うと、切り出せそうにない。もどかしさを紅茶で腹の奥底まで流しこみながら、ベルナデッタは縋るような気持ちでヒューベルトを見つめた。
「何か?」
「いっ、いえ。な、なんでもない、です」
 ベルナデッタは慌てて顔を背けた。察しの良いヒューベルトに勘づかれてしまったようで、彼の次の問いに身構える。
「そのようには見えませんが……」
「ベルのことは気にしないでください」
 もどかしいのは、自分の勝手。ベルナデッタは言葉の後に心の内でそう言い聞かせた。ヒューベルトは疑いの眼差しをベルナデッタに向けて続けている。
「やはりご迷惑でしたか?」
「そんなことないです」
「しかし、とても気分を害されているように思えます」
 ベルナデッタは震えそうになる唇をぎゅっと合わせて堪えると、首を何度かゆっくり振った。何か話そうとすると泣き出してしまいそうで、胸が押しつぶれているように苦しかった。
 長椅子の座面が軋む音がして、ベルナデッタはおそるおそるヒューベルトの方を見た。ヒューベルトは膝と膝の間で両手を握り合わせたまま、顔を伏せていた。
「私の浅はかな考えでした。迷惑でしたら遠慮なさらずおっしゃってください。貴殿も妙齢ですから、もしや、親しくされている男性がいるのではないのでしょうか。でしたらなおさら私は…… 私は」
 しばらく言葉が途切れて、深く長い吐息。その様子はまるで次の言葉が続かないようなようにも見える。それから、舌打ちと、歯軋りの音。手の甲にに浮き上がった血管から、ヒューベルトがさらに強く手を握りあわせたようだった。
「ベル、そんな人いないです。それに迷惑だなんて、そんな…… ヒューベルトさんからあんなに色々いただいているのに、あたし……」
 ベルナデッタは言い淀んだ。お互いにしばらく沈黙が続いた。重苦しい空気の中、窓からは燦々と陽が差し込んでいて、皮肉にも微かに鳥たちが平和におしゃべりをする声が聞こえくる。
「勘違いしちゃいそうで、ベル。領の経営の指導にきてくださってるだけなのに、ヒューベルトさん。ただそれだけなんですけどね、なのにあたし…… おかしいんです。そうじゃなければいいのにって、あはは」
 ベルナデッタは切り出した。
 昔から腹を決めたらそこからは早かったし、なりふり構わないところがあった。だから、引きこもると決めたら徹底して引きこもり続けたし、その先どうなるとかそういった重要なことも放り投げられた。
 そんなベルナデッタでも、底なしの谷に足から吸い込まれるように落ちていく感覚を覚えている。笑って誤魔化すのが精一杯の強がりで、うまく笑えず、頬がぴりぴりとしている。まだ話さなければならないことがある。ベルナデッタは唇を湿らせた。
「ごめんなさい、はベルの方なんです。素直に喜べなくて、これ以上、勘違いしたくなかったんです」
 組み合わせた親指と親指で自分自身を労るように撫で合う。
 ベルナデッタは傷つきたくなかった。
 膨れ上がった感情に少しでも傷をつけたくなかった。それだけで破裂してしまいそうだった。
 ベルナデッタがここまで他人に近づきたいと思ったのは、はじめてのことだった。それをドロテアは恋と定義してさし示したので、ベルナデッタはこれが恋たのだろうとぼんやりと思っていた。
「ヒューベルトさんが、ベルのこと、ベルの……こと」
 好きでいてくれたらいいのに。
 ベルナデッタははじめてヒューベルトへの感情が恋だと自覚した。か細く頼りない想いが込み上げてきて、涙が下瞼から膨れ上がってきた。視界が滲み、ヒューベルトの姿が黒く霞む。ぽたぽたと膝の辺りの布地に染み込んでいく。惨めな気持ちでいっぱいになって、ベルナデッタは立ち上がった。
「少し仕切り直してきます、ごめんなさい」
 逃げ出すのは得意だった。ヒューベルトがどんな顔をしているのかなんて見たくもなかった。背を向けて袖で涙を拭い、扉へと向かおうとした。
「ベルナデッタ殿、お待ちください。どうか、おかけになって」
「でも、こんな状態ではご迷惑に。少し外で気を紛らわせてきます」
 それからすぐ「嗚呼!」という苛立った声がした。怒らせてしまったのだろうかと、ベルナデッタがヒューベルトの方を振り向くと、彼は頭を抱えて髪をもみくちゃにして乱している。
「あの、ひゅ、ヒューベルトさん?」
 あまりの取り乱しぶりに、ベルナデッタの涙はすっかり引っ込んでしまった。ヒューベルトは何かの呪術でもかけるかのようにぶつぶつと同じことを呟き続けている。
「ヒューベルトさん?」
 ベルナデッタはヒューベルトの方へと回り込んで屈んで呼びかけた。
「こんなことでは…… このようなつもりでは」
 ヒューベルトはそれだけ言って、ベルナデッタを見た。黄金色の瞳がベルナデッタへと真っ直ぐに向けられていた。その瞳にはいつものような射るような力強さはない。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ」
 ヒューベルトがら「失礼しました」と言って、平静を取り戻したのを見届けて、ベルナデッタは立ちあがろうとした。
「お待ちいただけますか? どうかそのままで」
「ぴゃああ」
 ベルナデッタの手がヒューベルトの手に捉えられた。小動物の産声のような悲鳴をあげて、ベルナデッタは伸び上がったまま固まった。全身の毛が逆立っていて、ドキドキよりゾワゾワとしている。
「あの、お嫌でし……」
「嫌じゃないですけど、あの、これはえっと……」
 好きなひとから触れられているのに、ベルナデッタはどうしていいのか分からなかった。嬉しいとか幸せとかもっと触れて欲しいという感情より、急接近に戸惑いが先に来てしまった。
「これはつまり……」
「つ、つまり?」
 ベルナデッタとヒューベルトは目を合わせて、同じ速度で瞬きをした。お互いに面白いぐらいに顔が真っ赤だった。あのヒューベルトの青白い顔ですら、今は血が通ってみえるほど赤く染まっている。
「私は貴殿を…… お慕い、していると」
 ヒューベルトの声は病人が熱でうなされているときに呟いたような、そんなか細く微かな声だった。
「お慕い、して、い……るう?」
 ベルナデッタは続けてその言葉をなぞり、そして、声を高からかに跳ね上げた。間近にいたヒューベルトの顔が歪んだが、そのおかげで彼は現実に引き戻されたようだった。ヒューベルトははっとして、まじまじとベルナデッタを見ている。
「あの、えっと、お慕いしていただいているんですか?」
「ええ、ええ」
 ベルナデッタの問いに、ヒューベルトは何度も頷いた。
「それで」
「それで?」
 ベルナデッタはヒューベルトに手を握られたまま、言葉の意味がわからずに首を横に倒した。ヒューベルトは空いた方の手で痩せこけた頬をかくと、観念したかのように笑った。
「なっ、なんですかあ」
 笑うなんて。
 ベルナデッタは頬を丸く膨らませて目を背けた。ヒューベルトは調子を取り戻したのか、くつくつの意地の悪い笑い声を漏らしていたが「いえ」と言って、仕切り直すように咳払いをした。
 ヒューベルトの手が離れていき、ベルナデッタの頭部へと伸ばされた。するりとガーベラの髪飾りが抜き取られ、ヒューベルトはそれをベルナデッタへと差し出した。
「あの……」
 ベルナデッタが何言おうとすると「黙って」とヒューベルトは言った。
「ベルナデッタ殿、私は貴殿をお慕い申し上げております。どうお伝えすればよいかわからず、少しでも私の気持ちが伝わればと、ああしてこちらに来るたびに贈り物を携えてまいりました。情けない限り、私の至らないところです。どうかお許しいただきたい」
 ベルナデッタはゆっくりと首を縦に動かした。ヒューベルトの言っていることが本当のことか信じられずに、呆然としている。ベルナデッタは目を擦りたくなった、これは夢ではないかと確かめるために。
「お聞かせいただけないでしょうか、その……貴殿は、私のことを……」
 珍しく狼狽えた様子のヒューベルトに、ベルナデッタはヒューベルトというひとがどこにも隙がない完璧な人間ではないということを知った。親しくするうちに彼が笑ったりすることがあるのは知っていたが、悲しむ様子や苦しんでる姿というのは目にしたことがなかったし、彼の性格を思えば彼の真実の姿に触れているような気がした。
 求められている、答えを。相手は好意を示し、想いが通じていることが明白なのに、ベルナデッタはなかなかそれを言葉にすることができなかった。
「す、好きです」
ベルナデッタがようやく気持ちを言葉にすると、はらりと左目から涙が滑り落ちた。
「大好きです」
 ベルナデッタの声は上擦り、震えている。言い切ったところでほっとしたのか、緊張の糸がほぐれたのか、ぽろぽろと涙がこぼれ、体から力が抜けていく。
「でもあたしなんて絶対、選んでくださらないと、それで……」
「もう良いですよ、嗚呼、泣かないで」
 ヒューベルトは胸元からハンカチを取り出すと、ベルナデッタのまなじりに優しく押し当てた。ベルナデッタはヒューベルトに労られながら彼の隣に腰を下ろすと、長い腕が肩に伸びて優しく引き寄せられた。
 もたれかかったヒューベルトの肩はごつごつとして、ベルナデッタに彼が大人の男性であることを意識させた。見上げたその横顔は薄く笑みを浮かべている。子供をあやすように肩をトントンと叩かれていれば、ベルナデッタの涙もようやく落ち着いてきた。
「えへへ、なんだかおかしな感じですね」
「確かに」
 これは領の経営指導の時間の合間の休憩のはずだ。テーブルにはすっかり冷め切った紅茶とテフが仲良く並んでいる。ベルナデッタが顔をあげると、ちょうどヒューベルトと目があった。
「あの……何かしゃべって……」
 ヒューベルトは黙ってベルナデッタを見つめていて、間近でみるその顔にベルナデッタの心音は一気に跳ね上がった。ヒューベルトの顔はどんどん近づいてきて、彼の高く細い鼻先と、ベルナデッタの小さく愛らしい鼻先が触れそうになっている。ヒューベルトの穏やかな息遣いがベルナデッタの前髪を優しく誘うように揺らした。

「ベルナデッタ様」

 ベルナデッタが応じるように瞼を伏せていくところで、扉がノックされた。
 ヒューベルトもベルナデッタも慌てて飛び退くと、ベルナデッタは自席へ戻り何事もなかったかのように近侍に応答した。
「危なかったですね」とひそひそ声でベルナデッタが言うと、「なに、機会はいつでもございますよ」とヒューベルトは肩を竦めて余裕をみせた。
「お二人とも全く手をつけられていないんですね」
 余計なことをいうつもりはなかったのだろうが、テーブルの上の状態を見た近侍から思わずそんな指摘がこぼれ落ちた。
「閣下、そろそろ帰りの時間のようです。それで差し出がましいことをいたしましたが、お声を」
 恐縮しきった顔をみれば、本来の役目から踏み込んだ対応をしていることは誰が見てもわかるだろう。帝都への道すがら、一泊はするもののその拠点までの移動は街道とないえ鬱蒼とした森の中を馬で駆け抜けることになり、陽があるうちに移動しなければ、ヒューベルトであっても危険で得策ではない。
 今日はこのまま滞在しませんか。ベルナデッタがそんな提案ができるほどに、ヒューベルトの関係は熟していない。青葉より若く幼く、ちゃうどつい先ほど、ようやく新芽が吹き出したようなもの。どうするのかなと思ってベルナデッタがヒューベルトの方をみると、彼が一度だけ頷いてみせてから立ち上がったので、ベルナデッタは彼に滞在をすすめることを押し留めた。
「おや、これは大変失礼いたしました。ベルナデッタ殿と会話が弾みすぎたのか、私としたことが時間をわすれていたようです」
 ベルナデッタもヒューベルトにならい、立ち上がる。近侍は主人に求められない限りはは必要以上に滞在することはない。用件を伝えて二人に向けて深々と礼をすると、そそくさと退室した。
「時間なんですね」
 絨毯を踏み締める音が遠ざかるのを確かめてから、ベルナデッタは切り出した。
「ええ」
 ヒューベルトは身だしなみを整えながら、短く応答した。もう先酷までのヒューベルトではなく、いつもの見慣れた宮内卿ヒューベルトの仮面を纏っているように思えた。近づいたようで遠ざかった気持ちを抱えて、ベルナデッタは少しだけ寂しく感じた。
「ベルナデッタ殿」
 ヒューベルトに呼びかけられてベルナデッタは顔を上げると、ヒューベルトの長い腕が伸びて、頭部を抱えるように手が添えられるとぐっと引き寄せられた。
「また参ります」
「ひ、ひゃい……」
 気がつけば黒いしっかりとした布地が見えて、ベルナデッタはヒューベルトの腕の中にいた。おかしな姿勢のまま、ベルナデッタは彫刻のようにかちこちに固まっている。
「お嫌ですか?」
 ヒューベルトは何度かベルナデッタの頭をぽんぽんと叩くと、身体を離した。熱がある時のように顔が熱い。
「慣れないだけです、し、死んじゃう、ベル、死んじゃう」
ベルナデッタは両手で頬を包んで身体を捩らせた。ヒューベルトは楽しげに笑って、今度はベルナデッタの頭を労るように撫でた。
 少しずつ近づきたい。
 ベルナデッタの願いが叶ったのか、そんな二人の口づけはだいぶ先のことになるのだった。