Needlework

 緊張漂う室内において、ヒューベルトはベルナデッタの背中に視線を向けていた。
 ベルナデッタが傷口の縫合を手伝いたいと申し出てきたのは、2週ほど前の話だ。いずれのことも全く詳しくはないが人体と布地では全く異なるであろうということに、人に直接傷を負わせたことがない彼女が、その感触と目の前の状況に耐えうるかが、甚だ疑問であった。そのため、ヒューベルトはベルナデッタのその申し出自体は有難いと思いながらも、きっぱりと断ったのだった。
 ところが、思いのほか意思が強い彼女は何度も執務室を訪れては懇願した。ただ断るだけでは納得してもらえそうにない。実態を見て知れば諦めるだろう。ヒューベルトは、マヌエラに彼女に傷口の縫合の術式を教えてもらえないかと頼むことにした。

 諦めるだろうと思っていた己が浅はかだったのだろうか。

 ベルナデッタはめきめきと上達した。そこで今こうして、実際に傷口の縫合を行うことになった。彼女の申し出を受けた経緯もあり、ヒューベルトも今こうしてその場に立ち会っている。
「痛いですよね、すぐ終わりますから」
 実際には薬の類で痛みを感じづらくなっているため、横たわる兵士が強い痛みを感じることはない。そんなことは分かっているのだろうが、ベルナデッタはいつものけたたましい声を潜めて、彼女なりに努めて優しく問いかけている。
 このような慈愛に満ちた声も発せるのかと思いながら、ヒューベルトはベルナデッタの背中をじっと見つめた。その表情を見ることは叶わないが、彼女の肩甲骨が動くたびに、今まさに縫合しているのだろうと見て取れた。
 彼女に縫合を教えたマヌエラは兵士を挟んで向こう側に立ち、ベルナデッタの動きを確認している。教えた方が更に緊張しているようにも見える。時に酒に溺れるマヌエラが教師然としているのは教会と決裂して学生ではなくなったときからなかなか目にすることはなくなったので、どこか懐かしくもあった。

「よくできたわ、ベルナデッタ。あなた本当に凄いじゃない。完璧よ!」
 初心者を想定して設けられていた時間を遥かにしのぐ速さでベルナデッタは術を終えた。マヌエラが喜ぶ中、ヒューベルトも労わりの言葉を投げかけた。
「は、はい… べる、やりました、よ――」
 ぐらり、と目の前のベルナデッタが奇妙に揺れ、後ろに仰け反った。
「ベルナデッタ!」
 マヌエラの声をと同時に、体が動いていた。ヒューベルトはベルナデッタが倒れこまないようその背中を抱き止め、顔を覗き込み様子を伺った。顔は真っ青で血色が良くない。やはり無理をしていたのだろうと判断した。
「ヒューベルト君、ベルナデッタちゃんを医務室に運んでちょうだい。私は後処理をしなければならないから、頼むわよ」
「承知いたしました」
 ベルナデッタには重責だったのだ。術が終わるたびに気を失っていては他の者の面倒をかけることになる。技術はあるが、職務としては担当させられない。
 ヒューベルトは嘆息して彼女を抱きかかえると、医務室へと向かった。

 医務室は6つほどベッドが置かれているが、仕切りで区切られており、それぞれ見えないように配慮されている。今は他に誰も使っていないようで、ヒューベルトは窓際のベッドにベルナデッタを横たえた。
 白いシーツに彼女の菫色の髪が広がる。眉根を寄せて呻く声は辛そうで、ぎゅっと握りしめたこぶしは小刻みに震えていた。
「無理をせずとも良いのに」
 思わず独り言が零れてしまう。なぜここまでして頑張ろうとするのか理解ができない。衣服の繕い仕事を手伝ってもらえるだけでも十分助かっていた。それに加えて新たな挑戦ともなると、心身ともに負担がかかったのだろう。
 いつまでこうしていなければならないのか。年ごろの女性を看病するには、男は適さない。妙な気を起こさない男だと信頼されているということかと思うと、口角を上げる。とにかくマヌエラのヒールの音が待ち遠しかった。
 マヌエラが来るより前に、ベルナデッタは意識を戻した。唇がいくらか動くと、小さなうめき声とともに、ゆっくりと灰色の瞳が現れた。幾度か瞬きをして、ぼんやりとした様子でこちらを見ている。未だ気分はすぐれないのか、唇の色は芳しくない。
「ごめんなさい、あたし――」
 言葉は続かない。どんな顔をしていたのか分からないが、怒っているようにでも見えたのだろうか。怒ってはいないが、呆れているのだ。身の程知らずの挑戦に。そしてそれを分かっていて、許可して自身にも。
「謝罪は不要です。貴殿は術を完璧にこなしました。――が、気絶してしまうようでは今後この仕事をお願いすることは難しいでしょうな」
「そ、そうですよね」
 弱った人間に向けた労わりの言葉を知らないというのは言い訳になるだろうか。落ち込んでいる状態のベルナデッタに対して追い打ちをかける形になった。徐々に伏せられる瞼からは涙が滲んで見えた。
 事実をただ告げたまでだ。そして、挑戦を申し出た人間は、結果を知って、それを受け止めるべきである。そうでなければ前には進まない。ただそれは今この場で告げるべきことだったのか。涙を堪えるように唇を嚙み、両手でかけられたシーツを握るベルナデッタを目にして、心がざわついた。彼女の涙を目にするのはいつからだろうか、大変に気分が悪く、いたたまれなくなる。
「そろそろマヌエラ先生が来られますから、少し休まれるといいでしょう」
 逃げ、だ。愚か者のすることである。言葉を吐いた先から、ヒューベルトは自分自身に嫌気が差してきた。これ以上ベルナデッタを見ていられない。そして、彼女も何も返してこない。ただ肩を震わせて、シーツに涙の染みをいくつも作るだけだ。そして、自分はないもできないし、する資格もない。
「では」
 ヒューベルトは心の乱れを悟られないようにゆっくりとした動きで椅子から腰をあげると、ベルナデッタから逃げるように立ち去った。

「あれは言いすぎじゃないのかしら、ヒューベルト、君?」
「おや、聞いていたのですか。全く、盗み聞きとはいくらマヌエラ殿でも感心しませんな」
 医務室を出たところで、壁によりかかって腕を組んでいたマヌエラに声をかけられた。どうもはじめからやりとりを聞かれていたらしい。何を期待していたのだろうか。艶やかな男女の甘い会話でも期待したのだろうか。そんなものはベルナデッタとの間に交わされるはずがない。彼女は己を怖がっているのだから。ヒューベルトはマヌエラを一瞥してから、廊下の先へと目を向けた。
「凄く勉強熱心でね、あたくしもびっくりしたのよ。人と会話するのが苦手だった彼女が軍医に質問してまわったり、練習をみてもらったりしていたんだから」
「それはそれは。その光景を見ていれば、もう少し彼女を労われたかもしれませんな」
 自分は今、マヌエラに責められている。可愛い生徒を虐められた仕返しだろうか。ヒューベルトは心の内でそう解釈した。しかし、そのようなことは言われずとも理解している。ベルナデッタを傷付けたことぐらい、承知している。そして、傷付けたことをどうにかするすべを持ち合わせていないこともまた、承知していた。
 目を床に向けると、胸に飾られた刺繍の飾りが視界に入った。ベルナデッタの気持ちが込められたであろう刺繍の飾りだが、このような男にどうして贈る気になったのかいよいよ滑稽に思えてきた。 
「あまり睡眠をとっていなかったようだし、いつもの繕い仕事もあるって言ってたから。疲れていたのよ。術に耐えられなかったとかじゃないと思ってるわ。そういえば、良いお茶があるの。シャミアちゃんからもらったダグザのものだけれど、疲労に効くと言ったわね」
 要するにそのお茶を彼女に出してやれということか。さりげなく向けられた視線にヒューベルトはあからさまなため息をついた。
「必要だったら分けてあげる。いっとくけど、なかなか手に入らないのだから」
 肯定とも否定ともとれないようなため息が漏れた。

 ベルナデッタが医務室を後にしたのは、ヒューベルトが立ち去ってから数刻後のことで、すっかり日が暮れてしまっていた。食堂の時間も終わっており、何とか頼み込んでスープとパンを提供してもらったが、がらんどうの広い食堂に独りで座って食べるのは何となく気が進まない。独りでいることよりも、みんなといることの良さを知ってしまったからだ。
 零さないようにトレーに乗せて、よろよろと階段を下り、真っすぐ向かったのは温室だった。ここであれば、大好きな植物たちに囲まれて、のんびりできる。
 この時間にもなれば温室には誰もいない。高い位置に設けられた窓から月の光が差し込んで、植物たちを幻想的に照らしていた。品がない行為だと分かっているが、腰掛けるものがない場所ということもあり、ベルナデッタは直接石の床に腰を下ろした。ひんやりとした感触が臀部から伝わってくる。
 正直なところ食欲はない。とはいえ、マヌエラからちゃんと栄養は取るようにと釘を差されたので仕方なくというところである。食欲がないのは気分がすぐれないからというのもあったが、ヒューベルトとの医務室でのやりとりが尾を引いているからである。
 彼の役に立ちたいと、何故か思ってしまう。独りで大変そうに見えるからだろうか。理由はよく分かっていない。
 それに、彼から放たれた言葉がいつまでもずしりと心に沈み込んでいるのはどうしてだろうかについても分からない。もっと激しい言葉なら父親から投げかけられてきたはずなのに、それよりももっと違う痛みを感じている。
 形容しがたいほどの気持ちの激しい落ち込みに、ベルナデッタはパンを両手で持ったまま深くため息をついた。
「別にいいじゃないですか、ベル。ヒューベルトさんに嫌われたって。何も困らないのに」
 何を困ることがあると、とベルナデッタは自分自身に問いかけた。
 この戦が終われば、ヴァーリに引き籠ればいいわけで、この間だけ我慢すれば良いことだ。それに自分から行かなければあちらから接触してくることもない。ヒューベルトはエーデルガルトの右腕で懐刀であり―― 彼女しか見ていないのだから。
 そこまで心の中で整理をしたところで、爪がパンに食い込んだ。エーデルガルトしか、見ていない。そこがどうにもひっかかって、胸がきゅっと苦しくなって、涙が頬を伝う。
 そのとき、背後の温室の扉が開かれる音がした。外の冷たい空気が一気に吹き込んでくる。敵襲のはずはないが、潜入者の可能性はある。ベルナデッタはすぐさま立ち上がり、振り返った。パンを握りしめたままの丸腰で恰好はつかないが、何かあっても逃げることはできる。
「驚かせてしまい申し訳ありません。矢張り、此方でしたか」
 聞き覚えのある苦手だったあの声。目の前の黒衣の男に、思わずその名が口から零れた。
「ええ、ヒューベルトです」
 どうして、という気持ちが頭の中で巡る。厄介者を処分しにきたのだろうか。ただそれはなさそうだ。彼が携えているものを見れば――

「いかがでしょうか」
 ふうふうと息を吹きかけてから、一口、含ませてみた。甘さの中に苦さがあり、思わず眉をしかめてしまう。
「美味しいものではございませんからな。薬効のあるお茶ということです」
 座るところがなかったため、ヒューベルトが背もたれがない椅子を持ってきて、温室の中で彼が淹れてきたお茶を飲んでいる。
 奇妙な光景だと思いながら、ベルナデッタはちらりと近くにいるヒューベルトを見上げた。青白い頬が月に照らされて生気がないように見える。昔ならそれこそ悲鳴をあげて逃げ出していたかもしれないのに、今はこの距離感に心が自然と落ち着く。
「ちょっと苦いですけど、事実上のお薬であれば仕方ないですよね。何の植物から抽出したものなんでしょう」
「残念ながら私には分かりかねます。シャミア殿の国のもののようですが――」
「へぇ。ベル、今は違いますけど、ここに来るまではおうちからほとんど出たことがないんですよね。いつか行ってみたいです」
「貴殿が望むのであれば、今となっては実行可能かと思われますよ」
 成長を褒められているのだろうか。思わず、嬉しくて頬が緩んでしまう。この人に褒められると嬉しい、もっと頑張ろう、応えたいと思う自分がいる。いつからだろうか―― 彼の遠い背中が届かないと分かっていても手を伸ばしたいと思うようになったのは。
「さて、もう夜も深いですから、失礼させていただきます」
 感慨に浸っていたところに水を刺され、ベルナデッタははっとした。ヒューベルトは既に腰を上げており、立ち去ろうとしている。お礼を言わなければと、追いかけはしないものの、ベルナデッタも立ち上がる。
「今日は少しばかり―― いえ、言いすぎました」
 去り行く背中に声をかけようとした時だった。ぴたりと足をとめたヒューベルトが僅かに振り返って告げた言葉に、ベルナデッタは口を噤んだ。
「貴殿の努力を認めましょう。ただし、あまり無理はなさらぬよう。貴殿に倒れられては、私の仕事が増えます。では」
 最後まで聞き取って、ベルナデッタは短いながらも力強く、はい、と返事を返す。
 そして、温室の扉が閉じられ、ヒューベルトが見えなくなったところでへなへなと腰が砕けたように椅子に座り込んだ。
 ――彼に恋をしているのだろう。
 届かない背中に少しばかり手が触れたところなのかもしれない。甘い言葉はどこにもなかったが、それでもヒューベルトの気持ちを存分に受け取ることができた。
 ベルナデッタはしばらくはその想いに浸りながら、お茶を少しずつ口にした。

 温室を出てヒューベルトは池のあたりで足を止め、空を見上げた。風が強いようで雲が流れるのが早く、月が見え隠れしている。
 ベルナデッタの泣き顔ぐらいで何をざわついているのかと、自身に問いかける。そして、彼女が微笑んだ姿にどうして心が落ち着くのか、更に問いかけた。
 知ってはいけない、触れてはいけない、感じてはいけない感情が芽生えはじめている心地悪さを感じながら、ヒューベルトは再び歩き出した。