いつもの小屋の前にベルナデッタは居た。
鼠色の雲に覆われて、空には星が一つもなかった。時おり吹き抜ける風が肌を刺すように冷たくて、ベルナデッタは両手を擦り合わせた。
何となく嫌な予感がした。
いい夜ではないような、そんな何の根拠もない、ぼんやりとした野生的な感覚。
ベルナデッタは瞼を浅く伏せて、小石混じりの硬い地面を見つめた。
ここで何をやっているのだろう。
そうだヒューベルトを待っているのだと、思い起こす。来るかどうかは彼次第で、その後は後ろの薄暗い小屋の中で熱を分かち合う。未だそれがどういった関係を示しているのか、ベルナデッタにはわからずにいた。
「おい」
不意に呼びかけられ、ベルナデッタは声がする方へと顔を向けた。
「なっ」
「大人しくするんだ」
抵抗されぬようにと手首を強く握られ、身体ごと強く壁に押し付けられる。
「い、いた……い」
振り絞るような声には、止めるように懇願する気持ちが強く込められていた。
「あっ、や、やだ」
めりめりと骨が軋む音がした。痛みで目を瞑りたくなるが、相手の顔は何としてでも収めておきたい。苦しげに開けられた眼の先には、布で顔を覆った見知らぬ男がいた。
「あなた、だ、だ……っ、んんん!」
「黙れ!」
口元に男の手のひらが押し当てられた。手袋を嵌めているため、呼吸が抜けるところがなく息苦しい。
「知ってるんだぞ、お前がここで何をやってるか、俺は。人見知りのお前がまさかなあ……いや、どうでもいい。余計なことをすると、ここにいるものたちにお前がやっていることをバラすぞ」
耳元で囁くように告げられたことに、ベルナデッタは両目をを大きく見開いた。瞳は不安と恐怖で揺れ、その様子に卑下た笑いが向けられた。
「声を出すんじゃない。いいか、大人しくしていればすぐ良くなる。いつものように……」
口元が解放されると、ベルナデッタは一気に肺に空気を吸い込んだ。冷たい夜の空気に驚いた肺が痙攣して、こほこほと小さな咳を繰り返した。
相手の男はそんなベルナデッタを労わるそぶりもみせず、手の甲で頬を撫で上げ、片手で両の頬を鷲掴みした。
「ここの中であんなことしてるって知られたら、お終いだよなあ?」
畳み掛けるように告げられ、抵抗する気力が失せてきた。にやついた相手の片側の唇が愉悦で吊り上がる。恐怖で両足で立っている感覚がなかった。掴まれたままの手首の痛みで、かろうじて意識を確かにしているだけだ。
「おい、そこで何をしている!」
どこからか助けの声がかかった。
男はベルナデッタを解放すると、無防備にも背を向けキョロキョロとあたりを確認した。
「面倒なことになっちまったな……まあ、一人ぐらいヤッても分からないか」
物騒なことをぼやき、ベルナデッタへと振り返ると凄むように睨みつけた。
「いいか、ここを一歩も離れるんじゃねぇぞ」
じんじんと熱を帯びて痛む手首を擦りながら、ベルナデッタは呆然と頷いた。まだ助かったわけではない。誰か助けてと叫び出したくて、唇は顫える。
男はそのまま声がする方へと歩いていった。
積み上げられた木箱に回り込んだと思うとしばらく、ギャッ、という何かに潰されたときのような濁声があがり、あたりには静寂が訪れた。
「ベルナデッタ殿」
どうしたらいいのかと不安でいっぱいのまま小屋の前でポツンと佇んでいたところ、聞き慣れた低い声に急に力が抜けた。
「おっと」
崩れ落ちる前に抱き止められ、ヒューベルトの腕の中に迎えられた。
「全く、愚かな。相手がこの私だと知っていたのか知らなかったのか…… ククク。まあ、もう知る術はない、ですな」
鼻についたのは戦場で嗅ぎ慣れている鉄錆に似た匂いだった。ヒューベルトの衣服を握ろうとしたが、うまく力が入らない。
「さあ、一度あちらへ」
ヒューベルトの顔は小屋の中に続く扉へと向けられていた。もしやこれから身体を合わせるのか。これまで何とも思っていなかったことが、途端に恐ろしくなった。
何も言えずにヒューベルトの胸に顔を押し当てると、しばらくして丸い頭を彼の手が撫で下ろした。
壁板と壁板の隙間からわずかに差し込む光で、空中を漂う埃が綿毛のように見える。小屋は物資が入った木箱が積み重なって保管されており、この時間ともなれば、盗みを働こうとする者を除けば、用のない場所だ。
ヒューベルトの抱かれたまま、ベルナデッタは彼の胸に頭を預けていた。
これからするのだろうかと思いながらも、ヒューベルトからはその気配が感じられない。ひたすら頭を撫でられ続けている。まるで大切なものを抱えているかのように優しい力で抱かれ、ベルナデッタはそのまま眠りに落ちていきそうだった。
「も、もう大丈夫です。ごめんなさい」
ヒューベルトを見上げると、力ない眼差しがベルナデッタへと向けられた。
「怖かったでしょう。まだ震えていらっしゃる」
言われないと気が付かなかった。確かに、手が震えて力が入らない。ヒューベルトにもたれていなければ、立っていることもできないぐらい膝の感覚がない。
「少しだけこうさせてもらっても?」
「ええ」
ヒューベルトは落胆していないだろうか。きっとここへは、『あれ』を目的にしてきたはずだ。先程の出来事に配慮してくれているのだろうか。頭を撫でる手つきにはいやらしさがなく、ほどよく与えられる重みに、ベルナデッタは心地よさを覚えた。
ヒューベルトの言葉に甘えて、ふたたび、顔を彼の胸に埋める。同じ男性でも、ヒューベルトに触れられるのはちっとも怖くなかった。むしろ少しずついつもの自分を取り戻しつつある。すん、と鼻を鳴らして、彼の体臭を吸い込む。力を取り戻した手が、ヒューベルトの衣服をぎゅっと握った。
「ヒューベルトさんは怖くないんです、不思議ですよね」
「ほう。それはあのようなことがあった今も……変わらず、ですか?」
「あんなことがあったのに、こうしてると…… ベル、落ち着きます」
ベルナデッタはそう言って、強く体を押し当て、満ち足りた気分で瞼を伏せる。
「無理をしなくてもいいのですよ?」
ヒューベルトに向けて、ベルナデッタは首をゆっくりと振って笑った。
「無理なんかしてないです。そんなこと、ベル、できないですもん」
「そう、でしたな。これは失礼」
見合わせて笑顔をかわせば、緊迫した空気が和らいでいく。
「あのう、今日は……」
ベルナデッタはうずうずとして膝と膝を擦り合わせた。ヒューベルトはわずかに細い目を見開いてから、身体を屈めてベルナデッタの頰に手のひらを這わせた。
「やめておきましょう」
向けられた顔は、ひどく優しい顔だった。ヒューベルトは苦笑いを刻んで、左右に首を振った。
「あの、あたしっ……」
ベルナデッタの中でももやもやとした感情が形を成し、話を切り出す。
「何か?」
「えっと、その」
言い出しかけて、口籠る。ヒューベルトの手首を掴んで、唇を震わせた。
「変な、ことを…… でも、そのぉ」
「はい」
ヒューベルトはベルナデッタを覗き込んだまま、続きを促すようにじっと見つめている。薄い唇が笑みを浮かべていて、暗闇の中に青い肌が妖しく浮かんでいた。
それを告げたらどうなるかよりも、気づいた感情の答え合わせをしたかった。
「あたし、ヒューベルトさんのこと好きになっちゃったみたいです」
言って、後頭部をさする。
あははは、という誤魔化し笑いのような感情のない空っぽの笑い声の後は、静まり返ってしまった。
「えっとお、だから大丈夫ですよ。いつも通りしてくださっても」
何を言い出してるんだろうと、ベルナデッタ自身も思った。笑顔をつくりたくても、頬がこわばっている。
「あの、だから…… へ、変ですよね。ああ、ええっと」
何か言わないと、と思って口を開いたものの言葉にならない。
慌てるベルナデッタに向けられたのは、ため息に近い鼻息と、苦笑い。それから、頬に添えられていたヒューベルトの手が離れた。
「ご、ごめんなさい。ベル、なんだなおかし……ッ』
その手は後頭部へと回されぐっと頭を前に押し出された。あっという間に、唇が塞がれ、ベルナデッタは大きく目を見開く。中の灰色の瞳が大きく揺れ、涙が一筋、頬を滑った。
「ん、んん……ぁ」
「ベル、ナデッタ」
舌と舌を唾液に絡めて擦り合わせて、舌先で相手の歯列をくすぐるように辿る。浅く開かれた瞳の奥の黄金色の眼差しに射抜かれて、ベルナデッタの身体は疼いた。互いの熱を帯びた囁き声で、名を呼び交わし、強く体を押し当て合う。湿った吐息は弾み、身体は糸がほつれたように絡み合い、ベルナデッタは小屋の壁板を背に、ヒューベルトの肩を握りしめていた。
「痛かったでしょう」
ヒューベルトが手首をとった。状態を窺うようにじっと見て、浮き出た手首の骨のあたりに唇を寄せた。
「だいじょぶです、後で診てもらいますから」
「治癒は苦手でしてな、信仰心が皆無だからでしょうが…… ククク」
「信心深いヒューベルトさんなんて、全然想像できません。でも、エーデルガルトさんのことは神様のように信じてますよね」
「言い得て妙ですな」
ここでの逢瀬に慣れきって、自然とひそひそ話になる。ぎゅっとヒューベルトに抱きついて、ベルナデッタは蕩けきった顔で息を吐く。してもいいし、しなくてもいい。ただ衣服ごしに伝わる体温から離れがたかった。顔を上げると、ヒューベルトと目があった。
「……しても、いいですよ」
「したいのは貴殿では?」
「いいとは言ってますけどぉ、したいわけじゃあ」
ベルナデッタは急に恥ずかしくなって目を逸らして、身体を捩らせる。
「ほう。先程のような出来事のあとですから、私は獣ではございません。無理にとは申しませんが」
そう言いながら、ヒューベルトの長い腕がそろりとスカートの裾をたくし上げていく。ベルナデッタはぺちりと彼の手の甲を叩いた。
「ずるい! あたしは、ヒューベルトさんに告白したのにぃ、ヒューベルトさんは誤魔化してばっかりで。ヒューベルトさんもさっきの男の人と一緒なんですね。別にベルはそれでもいいですけど、それならそうと言ってください」
ふんっ、と強気な鼻息を飛ばす。色々と面白くなくて、途端にいじけてみたくなった。
「どうせこの戦が終わったら、お父様が選んだ方と仕方なく結婚することになるんでしょうし、今はじゆーにさせてもらいたいです」
強がりでもなく、本音だった。
あの父に従うつもりはないが、母がいる限りは予定調和。わかっている未来。形だけの夫婦になるとしても、その相手に領の統治を任せて自分は好きなことをしてやると決め込んでいる。
「だから、その、なんていいますか…… 別にいいんです。ベルの片思いでも」
そうであっても、答え合わせ、つまり、ヒューベルトの感情は知っておきたかった。気持ちがないからそれも知っておきたい。淡い期待は今のうちに排除したい。悲劇のヒロインを演じるつもりなどさらさらなく、ベルナデッタ本人が驚くぐらい開き直っている。
「結婚してほしいとか、好きになってほしいとか、そんなんじゃなくて」
唇を尖らせ頬を丸く膨らませて、非難の半眼を向ける。ヒューベルトは困ったように後頭部をかくと、観念したかのように瞼を伏せた。
「片思いではありません」
「ほえ?」
「それに私が預かり知らぬところで婚約なども許しません」
あまりにも早口だったため、ベルナデッタは聞き取ることができなかった。
「あのぉ、いま、何か?」
ヒューベルトは歯軋りするように奥歯を噛み合わせて唸り、顔を天井に向けると表情を隠すように掌で顔を覆った。
「ヒューベルト、さん?」
下ろされた方の手は拳を作って、ふるふると揺れている。よもや殴られるのかと思い、ベルナデッタは身構えた。
「ぴゃっ!」
途端に両肩に彼の手が置かれて、ベルナデッタは悲鳴とともに跳ね上がった。
「静かに!」
「だ、だってヒューベルトさんがぁ」
涙目を向ければ、今日何度目かの困り顔で応じられる。
「一度しか、言いませんよ。よく聞いてください」
ベルナデッタは両目をぱちくりとさせて、こくこくも頷いた。体を屈めたヒューベルトの顔が間近にあった。真剣なのはわかったが、そのせいか更に険しい形相に見えた。半ば睨みつけられているようで、緊張で胸がばくばくと強く脈打った。
「手順は違えましたが、貴殿を、その……」
堪えきれなくなったのか、顔が背けられる。波打つ癖毛の間から除く耳がほんのりと赤みを帯びていた。
「あの、それはもしや……」
ベルナデッタがおそるおそる尋ねようとすると、身体が二つにへし折れてしまいそうな強い力で抱きしめられる。思わず、ぐぇ、と呻く。
「愛しています」
真暖かい吐息が耳元を掠めた。たしかにそれは一言一句、漏らすことなく、ベルナデッタの耳腔へと吸い込まれていった。
「う、うそぉ」
へなへなと力が抜けていく。強く抱き止められているので、崩れ落ちることはないが、膝が折れかかっている。
「こちらは覚悟の告白にもかかわらず、散々なお返事ですな、全く」
ヒューベルトの呆れた声音に、ベルナデッタは「だってぇ」と言い訳した。