ある男の悩み

 眉間に縦皺を深く刻んだまま、ヒューベルトは腕を組んで目を伏せている。
 フェルディナントは茶器の縁に唇を浅く当てたまま、そんな彼の様子を窺うように見た。彼のために準備されたテフは未だ手をつけられないまま、茶卓の上で湯気を立ち上らせている。茶会を設定したのは他でもないヒューベルトだった。だから、彼の口に合わないテフは供されるはずがない。フェルディナントは少しだけ紅茶を口に含めて喉を湿らせる。
「それで、どうしたんだ、一体。君にしては珍しいではないか」
 自分が口火を切らなければ、彼はずっと押し黙ったままではないか。フェルディナントは苦悶の表情を浮かべているようにも見えるヒューベルトを慮って、話を切り出した。
「あ、いえ。申し訳ありません。その、どこからどう話はじめればいいのか、そこから考えてしまいまして」
「そうか。よほど深刻な相談と見える」
 ヒューベルトはフェルディナントの言葉にゆっくりと頷いてみせた。
「そうとも言えますが、そうとも言えないような」
 どちらなのか、と突っ込みたくなるところだったが、フェルディナントはその言葉を押しとどめた。フェルディナントは茶器を受け皿にそっと置くと、少しだけ息を吐いて足を組んだ。話が見えてこず、もどかしいのだ。
「いや、まぁ急がないさ。時間に余裕はあるのだから。それと、君もテフを飲んだらどうだ? 冷めてしまうだろう」
「え、ああ。そうでした。ええ、そうしましょう」
 フェルディナントに水を向けられなければ、テフが既に準備されていたことすら気が付かなかったようだった。テフが注がれた茶器を手にしたヒューベルトの強張った表情は、僅かに緩んだように見えた。
 帝国がフォドラを平定してからそろそろ二年が経とうとしている。帝国領ではなかった地域においては反乱軍などの火種は残されているものの、エーデルガルトとその皇配はそれらに対してうまく対処しているとフェルディナントは思っている。そして目の前でテフに興じるヒューベルトにしても、以前にも増して多忙な日々を送っているようだが、彼が表立って動かなければならないほどの事態は生じていない。
 とすると―― と、フェルディナントは考えを巡らせる。
 フェルディナントは生来隠し事ができない真っすぐな性分のため、人の繊細な部分を救い上げてその心情を推測することは得意ではない。すぐに話の本題に入れないほどの重大な、それもあの宮内卿ヒューベルトが抱える問題はいかなるものなのか。戦後すぐに妻に迎えたドロテアとの間に待望の第一子が誕生したばかりである。子の将来にかかわることとなれば、フェルディナントも身構えてしまう。
「失礼いたしました。いえ、君に相談というのは……」
ヒューベルトはそこで言葉を切って、茶器を置いた。
「君はどうやって奥方と結ばれたのでしょうか」
「は、はあ?」
 つい大きな声が出てしまい、フェルディナントはすぐさま「失敬」と短く謝罪をして、居住まいを正す。想像していたものと全く異なる問いかけに、椅子からずり落ちそうな気分だった。
「いえ、ですから…… そういう相談なのですが」
 尋ねられている側がこそばゆくなるような表情を隠すように、ヒューベルトはそう言って顔をフェルディナントから僅かに背けてしまった。
「おっと、私が答えなければならなかったのだったな」
 しばしの沈黙の後、ヒューベルトから向けられる期待の眼差しに、フェルディナントは彼の質問に対し返答が済んでいないことを思い出した。
 どうやって結ばれたか、と言われてもフェルディナントも返答に困った。
 どういうことを尋ねられているのか、具体的にイメージができていない。恋人になるという意味なのか、結婚についてなのか、そういったことだ。加えて、ヒューベルトからは相手や、現在の関係についての情報を引きだせていない。それによっても回答が変わるとは思ったが、実のところフェルディナントの頭の中には、既に菫色の丸井頭の困り顔がしっかと浮かんでいた。
「君も私とドロテアが戦中から恋仲であったことは知っているだろう」
「そうでしたか、それは存じませんでした」
「嘘だろう、本当なのか!」
 フェルディナントはすっかり驚いて、目を丸くした。
「ええ、ご一緒にいることが多いとは思っておりましたが、そうでしたか」
 ヒューベルトは納得したというように、何度か小さく頷いている。
 人の感情に興味がないという男のことだ、ありえなくはない。
 フェルディナントはそう思いながら、仕切り直すように紅茶を口に含ませた。話がかみ合わないのもあって、どうにもいつもの調子が出てこない。
「彼女には妻になって欲しいと思っていたんだ、いや、決めていたんだ。それで、戦が終わった後、彼女に指輪を贈って結婚を申し込んだ」
「指輪! そうです、指輪。まさにそれが大きな問題なのです」
 ヒューベルトが珍しく大きな声をあげて反応した。
 一体全体この男に何が起こったのだろうか。フェルディナントは、片方の手で癖毛をわしわしと揉みながらしきりに何かをぼそぼそと呟いている男の次の言葉を待った。
「君はドロテア殿の指輪の大きさはどうやって知ったのですか?」
「ドロテアは装飾品はわりと多く持っていたし、せがまれて買ったこともあってな。それで指輪のサイズは既に知っていたのだよ」
「そうでしたか」
 ヒューベルトはがっくりと両肩を落とした。
「困ったことに、指輪の大きさが分からないのですよ」
「そうか。これまで贈り物をしたことがないのか…… えっと、その、あー その相手に」
 思わず、ベルナデッタ、と言いかけてフェルディナントは言い直す。
「ええ、そういったものは一度も」
「では、その相手とはどういう関係なのだ。君とは恋仲なのであろう?」
 フェルディナントの問いかけに、ヒューベルトは考えるそぶりをみせ、しばらくたってから「わかりません」と力ない声で返答した。
「分からないってどういうことだ」
 フェルディナントは尋ね返しながら、ヒューベルトとその相手であろうベルナデッタの様子を思い浮かべた。
 あるところから急に二人が接近したとは思っている。人見知りで怖がりのベルナデッタがヒューベルトに懐いて慕い始めたのだった。それをヒューベルトも邪険に扱うこともなかったので、恋仲であるかは言い切れないものの、二人が親しい関係であることは伺い知れた。戦後も領の経営の指導をして補佐をしているようなことは聞き知っているものの、それ以上の話は聞こえてこない。夜会に出向いても、ヒューベルトとベルナデッタが舞踏に興じているところは見たことがなかったし、ヒューベルトは何らかの特命を帯びて執務にあたっており、ベルナデッタは無理矢理参加したようで壁に張り付いて一歩も動かなかった。
「そういえばお相手のことを話しておりませんでした」
「あ、ああ…… そうだな」
「ベルナデッタ殿です」
 そうだろうな、と言いそうになった口をフェルディナントは引き結んだ。
「あまり驚かれていないようですが、もしや存じていたのですか?」
「あ、いや。怖がりの彼女にしては君になついているとは思ったが」
「そうでしょう、そうなのですが……」
 ヒューベルトはそう言って口の端をへし曲げた。
「何かあるのか」
「戦後もベルナデッタ殿とは定期的にお会いしているのですが、一向に関係が進まないものですから」
「それは君がはっきりしないからではないのか? 領の経営指導という名目で顔を合わせているのではなおさらではないか」
「ええ、それで指輪を贈って結婚を申し込もうと思ったのですが」
「突然すぎないか?」
「そうでしょうか」
「ああ」
 悪気のない表情のヒューベルトと視線を合わせて、フェルディナントは正気か、と思った。彼なりに勝算があるとしても、型破りすぎる。
「いえ、これには深いわけがあるのです。彼女も妙齢の女性。一人で領の経営は大変だろうということで、縁談が舞い込みはじめているのです」
「なるほどな」
 フェルディナントは足を組みなおした。
「それは防がねばなりません。お相手の方にはどうしても消えていただかなければ……」
「おいおい、それはいくら何でもまずいだろう」
 ヒューベルトの表情がどんどん曇っていくのに、フェルディナントは肝が冷えた。彼の言葉は冗談とは思えない不穏さが漂っており、ベルナデッタの縁談相手が姿を消したなどという噂が立つようなことがあってもおかしくはないと思ってしまうのだ。
「ですから、あまり時間に猶予がないのです」
 ヒューベルトは歯がゆそうにそういうと、テフを飲み干した。
「指輪の大きさの前に、まずは君の気持ちを彼女に伝えるところからはじめたらどうだ。そうすれば、彼女が縁談を受けることはないだろう」
「領の経営相談中にそういった艶話をどう差し込めと君はいうのですか!」
「それは……」
 ヒューベルトの問いかけに、さすがのフェルディナントも言い淀むしかなかった。
「失敬、君を困らせるつもりなどなかったのですが」
 悩ましげなため息を吐いたヒューベルトは、浅く瞼を伏せている。
「いや、領の経営相談ではない場所を用意するなどどうだろうか。帝都で観劇してもいいだろうし」
「ベルナデッタ殿は外出は好まれないのではないでしょうか。それに急に観劇に誘うのも、領の経営相談の流れではとてもそのような話はできそうにありません」
 目の前にいるのがあの宮内卿ヒューベルトであると疑いたくなるほど、ふがいない状態の男がフェルディナントの前に座っている。中途半端に手をつけたテフは茶器の内側に錆色の筋をつけ、すっかり冷え切ってしまっていた。
「そうだな。では、領の経営相談の合間に休憩をしてはどうだろうか。ドロテアから聞いたことがるが、ベルナデッタの邸宅の庭は、見事な庭園だと」
「確かに、見事な庭園ではあります」
 ヒューベルトの顔色がやや晴れたように見えた。回答はあっさりしたものだったので、これまで彼はその庭園には全く興味を示さなかったことが窺えた。
「では、そちらで休憩をするというのはどうだろうか。彼女に案内してもらっては?」
「そのような形であれば、私でもできそうではあります」
 少し考えれば思いつきそうなことでも、ヒューベルトにとって恋愛は何よりも難しいものなのであろう。具体的にそこから先はどうすればいいのか話をすることはなかったが、それ以上尋ねてこなかったということは彼なりに道筋ができたのだろうとフェルディナントは判断した。冷めきったテフを律儀に飲み切ったヒューベルトと別れ、フェルディナントは愛する妻のもとに帰っていくのだった。

 それからしばらくしてのことだった――
 宮城での執務を終え、帰邸の途についたフェルディナントの馬と一台の馬車がすれ違った。そして、その貴賓室の扉には見覚えのある紋章が施されていた。分厚いカーテンで窓が覆われていたため中に誰が乗っているのか見ることは叶わなかったが、紋章だけ見ればヴァーリ伯爵家の紋章である。そして、その馬車がやってきた方向から推測するに、その先にはフェルディナントの邸宅がある。ヒューベルトとの間に何か進展があり、ドロテアに相談に来たのではないか。フェルディナントは馬の腹を蹴った。
 いつもであれば軽装に着替えを済ませてから寛ぐことにしているのだが、先ほどの馬車のことが気になって仕方がない。フェルディナントは妻と話をすることを優先した。客人があれば通すのは応接室だろう。フェルディナントが応接室の扉を開けると、長椅子で赤ん坊をあやすドロテアと、侍女が二人分の茶道具と菓子皿を片付けているところだった。
「あら、フェル君。着替えはいいの?」
「あ、いや……」
 普段と違う様子であることを既に勘付かれてしまっているようだ。妻の問いに、フェルディナントは言い淀んだ。
「一体どうしたのかしらね」
「いや、その、もしや、ベルナデッタが来ていたのではないかと思ってな」
 別に悪いことをしているわけでも隠し事があるわけでもないのに、どこか気まずい気持ちがフェルディナントの中にあった。妻のなにげない問いかけにも、何か含みがあるように感じられる。
「あらどうしてそれを……」
「馬車とすれ違ってな。ヴァーリ家の家紋が刻まれていたように見えたので、もしやと思い」
「そうなの、そうよ、確かにベルちゃんがさっきまで来ていたの」
 ドロテアはベルナデッタの来訪を認めたものの、それ以上のことを話したくないようだった。
「泊まっていってもられえればよかったのではないか? 私もしばらく彼女とは話をしていない」
「そう言ったんだけどね、今日はもう宿を取っているっていうから」
「そうか」
 どういう話が二人の間で交わされたのか、フェルディナントは気になって仕方がなかった。ヒューベルトとの茶会からしばらく経っていることを考慮すると、ヒューベルトが何らかの行動に出たに違いない。
「とーっても気になっているようですけど?」
 上目遣いで問いかけてくるドロテアにフェルディナントはむ、と唸って、口の端をへし曲げた。敬語で問いかけてくるときのドロテアの言葉には毒がある。
「いや、別にだな」
「フェル君だって、ヒュー君とのこと私に隠していないかしら。私とベルちゃんのことだけ話すっていうのもフェアじゃないと思います」
「隠してなど!」
 フェルディナントの大きな声に、ドロテアは慌てて人さし指を唇に押し当てた。穏やかに寝息をたてる赤子が起きてしまう、と小さな声で付け加える。
「すまない。いや、ベルナデッタとのことで相談があるというのでな。相談に乗ったまでさ」
 茶会での彼の様子を思い浮かべるだけで、相談内容を具体的に明かすのはあまりにも不憫に思えた。
「ふーん。なるほど、ねぇ。そのヒュー君とのことで相談があったの」
「なるほどな。どれ、私が抱っこしようじゃないか」
 フェルディナントがドロテアにかわり赤子を抱き上げると、頬を擦り寄せた。赤子の体温はうたた寝を誘うような温かさがあり、心が安らぐ香りがした。フェルディナントはすっかり癒されたが、赤子の方はすわりがよくないのか機嫌が悪いのか盛大に泣き始めた。
「ふふふ、お母さんの方がいいわよね?」
 赤子をドロテアに返すや否や、すぐさま赤子は落ち着きを取り戻した。面白くない気持ちがないわけではないが、子供の面倒はドロテアに任せているため、ぐうの音も出ない。フェルディナントは気を取り直して、長椅子に浅く腰を掛けた。ドロテアは変わらない美しく澄んだ声で歌いながら、赤子をあやしている。ヒューベルトとベルナデッタもいずれこういう日が訪れるのかと想像を膨らませてみたが、未だに距離のある二人の姿ではその様子を浮かべることは叶わなかった。
「明日」
 それだけ言って、ドロテアはフェルディナントへと向き直った。フェルディナントも妻の言葉を尋ね返すように繰り返した。
「そう、明日。明日ね、ヒュー君とデートするんだって」
「ほう!」
 フェルディナントは慌てて両手で口元を押さえた。待望の朗報につい声が大きくなってしまい、自分のように嬉しくなって、つい腰を浮かせしまうほどだった。赤子は幸いにもドロテアの腕の中で穏やかな様子で口元とむぐむぐと動かしている。
「着ていく服とか、お作法とか、そういう相談だったの。そんなこと気にしなくても、ヒュー君は大丈夫だと思うんだけれど」
 ドロテアはそう言うと、フェルディナントの隣に座って身体を預けてきた。
「ちょっと刺激的な夜会服をお勧めしておいたわ、ふふふ。ヒュー君、驚くかしら」
「さて、分からないな。彼のことは私にも掴みきれないところがある」
「でも、ヒュー君、ベルちゃんのこと大好きなんでしょう?」
 上目遣いで尋ねられ、フェルディナントは眉を跳ね上げた。そうだと言いたいところだが、やはり男同士の熱い友情を思えば、ここは回答しない方が良いと判断した。
「いずれにせよそのうちわかるさ」
 肯定も否定もしなくても、ドロテアのその鋭い眼差しは全てお見通しに違いない。であれば何も言わないのが正解だと、フェルディナントは思った。

 またそれからしばらくして――
 ヒューベルトとベルナデッタが二人揃って、エーデルガルトへの謁見を申し出た。恋人同士がするようにしっかりと指と指を絡めて手を握りあった彼等は、非常に端的にかつ事務的に結婚の報告をした。ベルナデッタは終始泣きじゃくり、ヒューベルトは彼女をなだめすかせながらも、そんな彼女のことを愛おし気に見つめていたことがとても印象的だった。そして、二人の結婚を聞いたときのエーデルガルトのその笑顔は、ひさしぶりにみた少女のような穏やかで幸せに満ちたものだった。フェルディナントは今日のことは一生忘れないだろうと、心の内でそっと呟くのだった・